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太田述正コラム#3948(2010.4.14)
<第一次インドシナ戦争(その3)>(2010.8.7公開)
(3)ディエンビエンフー
ア フランス軍の皮算用
「・・・1953年11月、インドシナの支配のための戦争をフランスが始めてから8年目を迎えていた。
状況は思わしくなく、ベトナム人ゲリラ、あるいはベトミンが優位に立っていた。
そして、サイゴンでの戦略会議の席上、フランス軍の司令官のアンリ・ナヴァール大将は、彼の最新計画の概要を披露した。
「私はディエンビエンフー盆地の占領を考えている」と彼は話し始めた。
「この危険な作戦の目標はラオスの防衛だ」と。・・・
<その場にいた>軍人達は「全員反対した」と一人の上級将校は記している。
山間の谷に基地を設けることは、大変困難なことだと彼等はナヴァール大将に伝えた。
空挺要員を降下させることは危険だったし、基地に補給することは困難だったし、ディエンビエンフーは、疑わしい軍事的利得のためにもっと重要な諸戦域から人的資源を枯渇させることにつながると。
しかし、ナヴァール大将は、彼の<望んだ>基地を得た。
その後数ヶ月経った、正確には1954年5月7日、ディエンビエンフーはベトミンによって奪取されることになる。・・・」(B)
イ ベトミンの成算
「・・・フランス軍がたてた仮定のほとんどにその春、穴があいた。
中でも、ナヴァール大将の航空優勢への信仰ほど破滅的なことはなかった。
(米軍が10年後に相まみえることになる)すばらしいボー・グエン・ザップ将軍率いるベトナム軍は、ジャングルを通ってディエンビエンフーに人員と弾薬を、一見したところ、無限に供給し続けたのだ。
それは驚愕すべき技であり、ベトミンをフランス軍基地を見下ろす高地に陣取らせた。
銘記されるべきホーチミン(Ho Chi Minh</胡 志明。1890〜1969年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3 (太田)
>)による分析がある。
彼は、ヘルメットを逆さにして、その底を指さし、こう言った。
「そこにフランス軍がいる」と。
そして、ヘルメットの縁を指で触って、「そこに我々がいる。連中は決して逃げられない」と付け加えた。
ホーは正しかった。
しかも、彼の軍は他の優位も保有していた。
中共は、ベトミンに食糧、薬品、そして重火器を送った。
ゲリラ軍として、ベトミンは、士気と戦場についての知識において秀でていた。
モーガン氏は、「フランス軍は空軍を持っていた。それに対し、ベトミンは自分の裏庭であるという優位があり、田舎の人々の支援を期待できた」と記している。・・・」(B)
ウ ディエンビエンフー包囲戦の経過
「・・・<ディエンビエンフーに立てこもったフランス軍>部隊は約10,000人だった。
(彼等のうち少数しかフランス人ではなかった。
フランス政府は、フランスで徴兵された人々をインドシナには送らなかった。
残りは、ベトナム人、ラオス人、そして大部分はフランス外人部隊のドイツ人のメンバーと北アフリカからの植民地部隊だった。)・・・」(A)
「・・・1953年11月20日、ナヴァール隷下の空挺大隊のうちの3つがディエンビエンフーへと降下した。
彼等は、そこに駐留していたベトミンの連隊と激しい撃ち合いを演じた後、占領した。・・・」(E)
「・・・ボー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap<。1912年〜>)(注2)将軍・・・の部下達は、ジャングルの中に新しい、見えない道路網を創り出し、人力と自転車を使って重火器をディエンビエンフーへの射程圏内に運びこんだ。
(注2)ハノイ大学で経済学博士号を取得し、ハノイで歴史を教えた。共産党に入党。1939年に逮捕されるも支那に逃亡し、ベトナム(越南)独立同盟会(Vietminh)の指導者のホーチミンと合流。亡命期間中に妹は逮捕され処刑され、妻も刑務所に送られてそこで死亡している。1942年から45年まで、ベトナムにおける日本軍に対するレジスタンス運動を指導。
第一次インドシナ戦争の際の活躍については省略。
「1960年代の中ソ対立期間、修正主義者とみなされ、ドソンに追放された。また、彼の部下の多くも逮捕され、刑務所に収監された。ベトナム戦争が始まった時、ザップは赦免され北ベトナム軍総司令官に任命され、南ベトナム解放民族戦線を指揮し南ベトナム軍とアメリカ軍と対峙しベトナムを再統一する大きな原動力となった。」
1975年の南ベトナム「解放」後、ベトナム国防省兼副首相のうちの一人に就任したが、「1976年末、形式上は国防相に留まったが、全権限を剥奪され、全権はヴァン・ティエン・ズン・・・将軍に委譲された。1978年、ザップはカンボジア侵攻に反対した。1982年3月、党政治局から除籍されたが、・・・副首相のポストは維持した。1991年7月、党中央委員会からも除籍され、全てのポストから解任された。」
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/VNgiap.htm
(ただし、「」内は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%83%E3%83%97 による。)(太田)
そこに到着すると、彼等は山の斜面に砲床群を掘った。
これら砲床群はフランスの空軍力では叩けなかった。
それから、数万人のベトミン部隊がフランス軍の前哨群から数百ヤード以内のところまで塹壕を掘り始めた。
戦闘は、モーガンが繰り返し記すように、第一次世界大戦中のヴェルダンの包囲戦に似ていた。
しかし、身の毛のよだつ違いは、フランス軍部隊には退却する道がなかった、という点だ。
ベトミンの火力が滑走路をほとんど使用不可能にするまで長くはかからなかった。
戦闘の大部分の期間、人員と需品はパラシュートで落とさなければならなかった。
代償は大きいが成功裏のベトミンによる攻撃の圧力の下、フランス軍の陣地が縮小して行くにつれて、次第にその陣地の多くが負傷者によって覆われて行った。
「死の谷」は名誉とヒロイズムの物語で満ちた。
特に、医務要員がそうだった。
彼等は、大変な逆境で奮闘した。
フランス軍は、包囲網が狭められて動く余地がなくなった5月7日に降伏した。
(そこに送られた15,000人のうち)10,000人が捕虜になり、何ヶ月も囚われの身となった。・・・」(A)
「・・・歴史を振り返ると、ディエンビエンフーの塹壕戦は3月中旬から5月上旬まで続いたが、その一方で、ジュネーブ会議が4月下旬に始まり、7月下旬に終わり、ベトナムを分割する協定ができた。・・・」(G)
(続く)
<第一次インドシナ戦争(その3)>(2010.8.7公開)
(3)ディエンビエンフー
ア フランス軍の皮算用
「・・・1953年11月、インドシナの支配のための戦争をフランスが始めてから8年目を迎えていた。
状況は思わしくなく、ベトナム人ゲリラ、あるいはベトミンが優位に立っていた。
そして、サイゴンでの戦略会議の席上、フランス軍の司令官のアンリ・ナヴァール大将は、彼の最新計画の概要を披露した。
「私はディエンビエンフー盆地の占領を考えている」と彼は話し始めた。
「この危険な作戦の目標はラオスの防衛だ」と。・・・
<その場にいた>軍人達は「全員反対した」と一人の上級将校は記している。
山間の谷に基地を設けることは、大変困難なことだと彼等はナヴァール大将に伝えた。
空挺要員を降下させることは危険だったし、基地に補給することは困難だったし、ディエンビエンフーは、疑わしい軍事的利得のためにもっと重要な諸戦域から人的資源を枯渇させることにつながると。
しかし、ナヴァール大将は、彼の<望んだ>基地を得た。
その後数ヶ月経った、正確には1954年5月7日、ディエンビエンフーはベトミンによって奪取されることになる。・・・」(B)
イ ベトミンの成算
「・・・フランス軍がたてた仮定のほとんどにその春、穴があいた。
中でも、ナヴァール大将の航空優勢への信仰ほど破滅的なことはなかった。
(米軍が10年後に相まみえることになる)すばらしいボー・グエン・ザップ将軍率いるベトナム軍は、ジャングルを通ってディエンビエンフーに人員と弾薬を、一見したところ、無限に供給し続けたのだ。
それは驚愕すべき技であり、ベトミンをフランス軍基地を見下ろす高地に陣取らせた。
銘記されるべきホーチミン(Ho Chi Minh</胡 志明。1890〜1969年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3 (太田)
>)による分析がある。
彼は、ヘルメットを逆さにして、その底を指さし、こう言った。
「そこにフランス軍がいる」と。
そして、ヘルメットの縁を指で触って、「そこに我々がいる。連中は決して逃げられない」と付け加えた。
ホーは正しかった。
しかも、彼の軍は他の優位も保有していた。
中共は、ベトミンに食糧、薬品、そして重火器を送った。
ゲリラ軍として、ベトミンは、士気と戦場についての知識において秀でていた。
モーガン氏は、「フランス軍は空軍を持っていた。それに対し、ベトミンは自分の裏庭であるという優位があり、田舎の人々の支援を期待できた」と記している。・・・」(B)
ウ ディエンビエンフー包囲戦の経過
「・・・<ディエンビエンフーに立てこもったフランス軍>部隊は約10,000人だった。
(彼等のうち少数しかフランス人ではなかった。
フランス政府は、フランスで徴兵された人々をインドシナには送らなかった。
残りは、ベトナム人、ラオス人、そして大部分はフランス外人部隊のドイツ人のメンバーと北アフリカからの植民地部隊だった。)・・・」(A)
「・・・1953年11月20日、ナヴァール隷下の空挺大隊のうちの3つがディエンビエンフーへと降下した。
彼等は、そこに駐留していたベトミンの連隊と激しい撃ち合いを演じた後、占領した。・・・」(E)
「・・・ボー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap<。1912年〜>)(注2)将軍・・・の部下達は、ジャングルの中に新しい、見えない道路網を創り出し、人力と自転車を使って重火器をディエンビエンフーへの射程圏内に運びこんだ。
(注2)ハノイ大学で経済学博士号を取得し、ハノイで歴史を教えた。共産党に入党。1939年に逮捕されるも支那に逃亡し、ベトナム(越南)独立同盟会(Vietminh)の指導者のホーチミンと合流。亡命期間中に妹は逮捕され処刑され、妻も刑務所に送られてそこで死亡している。1942年から45年まで、ベトナムにおける日本軍に対するレジスタンス運動を指導。
第一次インドシナ戦争の際の活躍については省略。
「1960年代の中ソ対立期間、修正主義者とみなされ、ドソンに追放された。また、彼の部下の多くも逮捕され、刑務所に収監された。ベトナム戦争が始まった時、ザップは赦免され北ベトナム軍総司令官に任命され、南ベトナム解放民族戦線を指揮し南ベトナム軍とアメリカ軍と対峙しベトナムを再統一する大きな原動力となった。」
1975年の南ベトナム「解放」後、ベトナム国防省兼副首相のうちの一人に就任したが、「1976年末、形式上は国防相に留まったが、全権限を剥奪され、全権はヴァン・ティエン・ズン・・・将軍に委譲された。1978年、ザップはカンボジア侵攻に反対した。1982年3月、党政治局から除籍されたが、・・・副首相のポストは維持した。1991年7月、党中央委員会からも除籍され、全てのポストから解任された。」
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/VNgiap.htm
(ただし、「」内は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%83%E3%83%97 による。)(太田)
そこに到着すると、彼等は山の斜面に砲床群を掘った。
これら砲床群はフランスの空軍力では叩けなかった。
それから、数万人のベトミン部隊がフランス軍の前哨群から数百ヤード以内のところまで塹壕を掘り始めた。
戦闘は、モーガンが繰り返し記すように、第一次世界大戦中のヴェルダンの包囲戦に似ていた。
しかし、身の毛のよだつ違いは、フランス軍部隊には退却する道がなかった、という点だ。
ベトミンの火力が滑走路をほとんど使用不可能にするまで長くはかからなかった。
戦闘の大部分の期間、人員と需品はパラシュートで落とさなければならなかった。
代償は大きいが成功裏のベトミンによる攻撃の圧力の下、フランス軍の陣地が縮小して行くにつれて、次第にその陣地の多くが負傷者によって覆われて行った。
「死の谷」は名誉とヒロイズムの物語で満ちた。
特に、医務要員がそうだった。
彼等は、大変な逆境で奮闘した。
フランス軍は、包囲網が狭められて動く余地がなくなった5月7日に降伏した。
(そこに送られた15,000人のうち)10,000人が捕虜になり、何ヶ月も囚われの身となった。・・・」(A)
「・・・歴史を振り返ると、ディエンビエンフーの塹壕戦は3月中旬から5月上旬まで続いたが、その一方で、ジュネーブ会議が4月下旬に始まり、7月下旬に終わり、ベトナムを分割する協定ができた。・・・」(G)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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