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太田述正コラム#3778(2010.1.19)
<張鼓峰/ノモンハン事件(その3)>(2010.5.24公開)
ところで、『半藤』は、開戦原因として以下を極めて問題視しています(45〜55頁)
「・・・張鼓峰事件<を踏まえ、>関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。・・・」(日本語ウィキペディア)
しかし、これが開戦原因とは言えそうもありません。
というのも、『半藤』自身が、「日本陸軍がハルハ河を国境と認定したのは、1727年に帝政ロシアと清国の間で締結されたチャフタ条約の境界設定基準を準用したためであ<り、>帝政ロシアの地図<も>そうなっていたからであった。しかしモンゴル共和国・・・の強い要請をうけ、ソ連軍は・・・ハルハ河東岸に国境線を変更した。日本軍は・・・国境が変わっているなど考えてもみなかった。」と記している(52頁)からです。
つまり、日本軍が自分達が認識していた国境を越えて侵入してきたモンゴル軍を撃退しようとしたことには全く悪意はなかった、と言わざるをえないのです。
(その後、日本軍は、ソ連側が国境線を変更していたことを、ソ連軍から捕獲した地図で知ります。)
この時点で、モンゴルは完全なるソ連の保護国であった(同74頁)ことに思いをはせれば、上記、国境線の一方的変更も、「係争地」へのモンゴル軍の侵入も、すべてソ連の意思ないし黙認の下に行われたと考えられるのであって、ノモンハン事件は、ソ連の挑発によって起こったものである、とあえて言い切って良いでしょう。
「・・・<5月15日に日本軍は、日本側が認識していた国境を越えた空襲を敢行(『半藤』81頁)したが、>大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。・・・」(ウィキペディア上掲)
といった日本側のドタバタ劇や、
「ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていた」(同上)
というソ連側の凄惨な戦い方の末、英語ウィキペディアは、
「・・・戦闘は、8月31日、日本軍の完全な破壊で終わった。残された日本軍部隊は、ノモンハンの東に退却した。・・・」
で片付けてしまっていますが、日本語ウィキペディアは、
「・・・対立の対象となった地域のうち、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって確定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで確定した。・・・
<停戦>交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。・・・」
と、日本側がやや劣勢ながら、一方的敗北に終わったわけではないことを示唆しています。
今度は、日ソ両軍の損害状況を見てみましょう。
戦力は、日本軍が当初30,000人(37,000人)・最終90,000人に対しソ連軍は57,000人、戦車は135両と500両、航空機は250機と250機、他方、損害は、日本軍が戦死8,440人に対しソ連軍は7,074人、戦傷は8,864人(8,766人)と15,251人、戦車・・装甲車両を含む・・は約30両と約350両、航空機は約180機と約250機です。
なお、()内は、英語ウィキペディアが日本語ウィキペディアとは異なった数字を掲げているもの。
また、最終戦力や戦車、航空機の損害は、日本語ウィキペディアだけが記述しています。
更に、英語ウィキペディアは、日本側の損害は、最新の研究を踏まえたものではない旨注記しています。
いずれにせよ、損害で見る限り、ノモンハン事件は、日ソの引き分けであったと言えそうです。
既に述べたように、戦闘目的に照らしても、結果は日本側の一方的敗北に終わったわけではないのですから、総括的には、やや日本側に分が悪い相打ちであったと言ってよいのではないでしょうか。
しかし、当時の関係者の認識はそうではなく、日ソ両軍とも、ソ連軍の大勝利と見ていました。
その証拠に、日本側は、
「・・・ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。・・・」(日本語ウィキペディア)
のに対し、ソ連側は、日本軍の死傷者数60,000人、捕虜3,000人と上部に報告した(英語ウィキペディア)こともあったのでしょう、
「・・・ソ連軍の<司令官を務めた>ゲオルギー・ジューコフ(Georgy Zhukov)将軍は、彼の4つのソ連邦英雄賞の最初のものを授与され<、>ジューコフ・・・は昇任し・・・」(同上)ています。
(続く)
<張鼓峰/ノモンハン事件(その3)>(2010.5.24公開)
ところで、『半藤』は、開戦原因として以下を極めて問題視しています(45〜55頁)
「・・・張鼓峰事件<を踏まえ、>関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。・・・」(日本語ウィキペディア)
しかし、これが開戦原因とは言えそうもありません。
というのも、『半藤』自身が、「日本陸軍がハルハ河を国境と認定したのは、1727年に帝政ロシアと清国の間で締結されたチャフタ条約の境界設定基準を準用したためであ<り、>帝政ロシアの地図<も>そうなっていたからであった。しかしモンゴル共和国・・・の強い要請をうけ、ソ連軍は・・・ハルハ河東岸に国境線を変更した。日本軍は・・・国境が変わっているなど考えてもみなかった。」と記している(52頁)からです。
つまり、日本軍が自分達が認識していた国境を越えて侵入してきたモンゴル軍を撃退しようとしたことには全く悪意はなかった、と言わざるをえないのです。
(その後、日本軍は、ソ連側が国境線を変更していたことを、ソ連軍から捕獲した地図で知ります。)
この時点で、モンゴルは完全なるソ連の保護国であった(同74頁)ことに思いをはせれば、上記、国境線の一方的変更も、「係争地」へのモンゴル軍の侵入も、すべてソ連の意思ないし黙認の下に行われたと考えられるのであって、ノモンハン事件は、ソ連の挑発によって起こったものである、とあえて言い切って良いでしょう。
「・・・<5月15日に日本軍は、日本側が認識していた国境を越えた空襲を敢行(『半藤』81頁)したが、>大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。・・・」(ウィキペディア上掲)
といった日本側のドタバタ劇や、
「ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていた」(同上)
というソ連側の凄惨な戦い方の末、英語ウィキペディアは、
「・・・戦闘は、8月31日、日本軍の完全な破壊で終わった。残された日本軍部隊は、ノモンハンの東に退却した。・・・」
で片付けてしまっていますが、日本語ウィキペディアは、
「・・・対立の対象となった地域のうち、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって確定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで確定した。・・・
<停戦>交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。・・・」
と、日本側がやや劣勢ながら、一方的敗北に終わったわけではないことを示唆しています。
今度は、日ソ両軍の損害状況を見てみましょう。
戦力は、日本軍が当初30,000人(37,000人)・最終90,000人に対しソ連軍は57,000人、戦車は135両と500両、航空機は250機と250機、他方、損害は、日本軍が戦死8,440人に対しソ連軍は7,074人、戦傷は8,864人(8,766人)と15,251人、戦車・・装甲車両を含む・・は約30両と約350両、航空機は約180機と約250機です。
なお、()内は、英語ウィキペディアが日本語ウィキペディアとは異なった数字を掲げているもの。
また、最終戦力や戦車、航空機の損害は、日本語ウィキペディアだけが記述しています。
更に、英語ウィキペディアは、日本側の損害は、最新の研究を踏まえたものではない旨注記しています。
いずれにせよ、損害で見る限り、ノモンハン事件は、日ソの引き分けであったと言えそうです。
既に述べたように、戦闘目的に照らしても、結果は日本側の一方的敗北に終わったわけではないのですから、総括的には、やや日本側に分が悪い相打ちであったと言ってよいのではないでしょうか。
しかし、当時の関係者の認識はそうではなく、日ソ両軍とも、ソ連軍の大勝利と見ていました。
その証拠に、日本側は、
「・・・ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。・・・」(日本語ウィキペディア)
のに対し、ソ連側は、日本軍の死傷者数60,000人、捕虜3,000人と上部に報告した(英語ウィキペディア)こともあったのでしょう、
「・・・ソ連軍の<司令官を務めた>ゲオルギー・ジューコフ(Georgy Zhukov)将軍は、彼の4つのソ連邦英雄賞の最初のものを授与され<、>ジューコフ・・・は昇任し・・・」(同上)ています。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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