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太田述正コラム#3734(2009.12.28)
<政治的宗教について(続)(その3)>(2010.5.15公開)
「18世紀のギリシャは、オスマン帝国の一部であって、そのエリート達は、・・ギリシャ正教の僧侶達を含め・・オスマンによる統治を特徴付けていた腐敗に深く染まっていた。・・・
18世紀末のギリシャのナショナリズムにおいて、二人の重要な人物がいた。
二人とも長年外国に亡命していた。
古典学者のアダマンティオス・コライス(Adhamantios Korais<。1748〜?年>)は、当時の年老いた山賊や狡猾な商人達の内に潜んでいるはずの古典ギリシャ性を蘇らせるために、ギリシャ語からビザンツ的(つまりはギリシャ正教的)かつオスマントルコ訛りを取り除こうとした。
ギリシャ化したワラキア人(Vlach≒ルーマニア人
http://www.babylon.com/definition/Vlach/Japanese (太田)
)のリガス・ヴェレスティンリス(Rigas Velestinlis<=Feraios。1757〜98年>)は、1798年にもう一人のギリシャ人がこの革命家たらんとしていたバルカンの初心者を支配者のトルコ人に密告したために殺害され、近代ギリシャにおける最初の殉教者となった。
彼のつくった歌の一つである「トウリオス(Thourios)」(注5)はギリシャの革命歌となった。」(PP165)
(注5)http://www.youtube.com/watch?v=o5z108veNAg (太田)
「<バルカンにおける、失敗に終わったアレクサンデル・イプシランティス(Alexander Ypsilantis<。1792〜1828年>)の反乱とほぼ同時期に、1921年から始まったギリシャ本土における反乱に対し、オスマントルコは大量殺戮を厭わぬ弾圧を加えた。>
この<オスマントルコの>行動は欧州中を仰天させ、ロシアと米国では、その教育程度の高い階層の一部が一時、ふしくれだった手をしたギリシャ人をペリクレス時代から生き延びた大理石の胸像群<が体現していた古典ギリシャ人>であると勘違いをした。
米国のものを含む<各地にできた>、いわゆるギリシャ委員会がギリシャ人達に戦闘をするための物資を提供し、詩人のバイロン<(コラム#3373)>やプーシキンを含む、ギリシャ愛好家達の志願兵達が、現地でギリシャ人達の支援に入れ込んだ。
ドイツ人、アイルランド人、イタリア人、ポーランド人、そしてスコットランド人といった、民族国家を達成していなかった人々にとっては、自分達の念願を夢見ていたことから、ギリシャ人達による闘争は、一種の代理戦争だった。」(PP167)
「<英国、フランス、ロシアの>三大国は、介入するより調停をすることを欲していたが、1827年の10月に至って、英国の提督率いる連合軍がナヴァリノ(Navarino<。ペロポネソス半島西側のイオニア海に面する湾
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Navarino (太田)
>)でエジプト/トルコ艦隊を撃沈し、4,000人を殺<傷>した。
これは、帆船による大きな戦闘としては最後のものとなった。・・・
1829年末には、ロシア陸軍がバルカンとコンスタンティノープルの郊外に盤踞するに至った。
1830年初めにロンドンで開催された会議において、英国、フランス、及びロシアは、独立したギリシャ王国として承認されたものを保証した。」(PP168)(注6)
(注6)ギリシャ独立史について、オンラインで手軽に読める邦語文献としては、
http://www.kaho.biz/greece/b.html#2
がある。(太田)
→ビザンツ帝国がローマ/ギリシャ帝国であったように、オスマントルコ帝国はトルコ/ギリシャ帝国でした。しかも、キリスト教とイスラム教は、ユダヤ教を父とする、ほとんど双子の兄弟的な一神教であることを考えれば、ギリシャをトルコから「分離」して「独立」させるなど、ナショナリズム・イデオロギーが引き起こした世紀の愚行であったと言っても過言ではありません。(太田)
「<ギリシャが独立したというのに、>オーストリア、プロイセン、そしてロシアによる1795年の最後の分割により、独立ポーランド国家は存在しなくなっていた。・・・
彼のために多くのポーランド人が忠誠を誓って戦ったところの、ナポレオンが、大部分はプロイセン領ポーランドから、ワルシャワ大公国(Grand Duchy of Warsaw)を創建した。
1815年<のナポレオン完全失脚>の後、諸大国は、<ロシア>皇帝アレクサンドル(Alexander)1世がポーランド議会王国(Congress Kingdom of Poland)として知られることとなったものに一定の自治と自由を与えるという条件で、ロシアの西漸を認める用意があった。
これにより、ナポレオンによる諸改革は維持され、これに憲法、二院制議会、ポーランド軍、そして別個の君主が付け加えられた。」(PP169)
「<ところが、>1830年末に<に、ベルギーとフランスで革命が起こったことに欧州中の耳目が集中していた間隙に乗じて、ポーランドで反乱が起きる。>
<これに対し、>1832年2月の<布令>で、<ロシア皇帝の>ニコライ(Nicholas)<1世>はポーランド憲法を廃棄し、独立した<ポーランド>軍と議会・・・を廃止し、行政のあらゆる枢要なポストに生粋のロシア人を任命した。」(PP171)
(続く)
<政治的宗教について(続)(その3)>(2010.5.15公開)
「18世紀のギリシャは、オスマン帝国の一部であって、そのエリート達は、・・ギリシャ正教の僧侶達を含め・・オスマンによる統治を特徴付けていた腐敗に深く染まっていた。・・・
18世紀末のギリシャのナショナリズムにおいて、二人の重要な人物がいた。
二人とも長年外国に亡命していた。
古典学者のアダマンティオス・コライス(Adhamantios Korais<。1748〜?年>)は、当時の年老いた山賊や狡猾な商人達の内に潜んでいるはずの古典ギリシャ性を蘇らせるために、ギリシャ語からビザンツ的(つまりはギリシャ正教的)かつオスマントルコ訛りを取り除こうとした。
ギリシャ化したワラキア人(Vlach≒ルーマニア人
http://www.babylon.com/definition/Vlach/Japanese (太田)
)のリガス・ヴェレスティンリス(Rigas Velestinlis<=Feraios。1757〜98年>)は、1798年にもう一人のギリシャ人がこの革命家たらんとしていたバルカンの初心者を支配者のトルコ人に密告したために殺害され、近代ギリシャにおける最初の殉教者となった。
彼のつくった歌の一つである「トウリオス(Thourios)」(注5)はギリシャの革命歌となった。」(PP165)
(注5)http://www.youtube.com/watch?v=o5z108veNAg (太田)
「<バルカンにおける、失敗に終わったアレクサンデル・イプシランティス(Alexander Ypsilantis<。1792〜1828年>)の反乱とほぼ同時期に、1921年から始まったギリシャ本土における反乱に対し、オスマントルコは大量殺戮を厭わぬ弾圧を加えた。>
この<オスマントルコの>行動は欧州中を仰天させ、ロシアと米国では、その教育程度の高い階層の一部が一時、ふしくれだった手をしたギリシャ人をペリクレス時代から生き延びた大理石の胸像群<が体現していた古典ギリシャ人>であると勘違いをした。
米国のものを含む<各地にできた>、いわゆるギリシャ委員会がギリシャ人達に戦闘をするための物資を提供し、詩人のバイロン<(コラム#3373)>やプーシキンを含む、ギリシャ愛好家達の志願兵達が、現地でギリシャ人達の支援に入れ込んだ。
ドイツ人、アイルランド人、イタリア人、ポーランド人、そしてスコットランド人といった、民族国家を達成していなかった人々にとっては、自分達の念願を夢見ていたことから、ギリシャ人達による闘争は、一種の代理戦争だった。」(PP167)
「<英国、フランス、ロシアの>三大国は、介入するより調停をすることを欲していたが、1827年の10月に至って、英国の提督率いる連合軍がナヴァリノ(Navarino<。ペロポネソス半島西側のイオニア海に面する湾
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Navarino (太田)
>)でエジプト/トルコ艦隊を撃沈し、4,000人を殺<傷>した。
これは、帆船による大きな戦闘としては最後のものとなった。・・・
1829年末には、ロシア陸軍がバルカンとコンスタンティノープルの郊外に盤踞するに至った。
1830年初めにロンドンで開催された会議において、英国、フランス、及びロシアは、独立したギリシャ王国として承認されたものを保証した。」(PP168)(注6)
(注6)ギリシャ独立史について、オンラインで手軽に読める邦語文献としては、
http://www.kaho.biz/greece/b.html#2
がある。(太田)
→ビザンツ帝国がローマ/ギリシャ帝国であったように、オスマントルコ帝国はトルコ/ギリシャ帝国でした。しかも、キリスト教とイスラム教は、ユダヤ教を父とする、ほとんど双子の兄弟的な一神教であることを考えれば、ギリシャをトルコから「分離」して「独立」させるなど、ナショナリズム・イデオロギーが引き起こした世紀の愚行であったと言っても過言ではありません。(太田)
「<ギリシャが独立したというのに、>オーストリア、プロイセン、そしてロシアによる1795年の最後の分割により、独立ポーランド国家は存在しなくなっていた。・・・
彼のために多くのポーランド人が忠誠を誓って戦ったところの、ナポレオンが、大部分はプロイセン領ポーランドから、ワルシャワ大公国(Grand Duchy of Warsaw)を創建した。
1815年<のナポレオン完全失脚>の後、諸大国は、<ロシア>皇帝アレクサンドル(Alexander)1世がポーランド議会王国(Congress Kingdom of Poland)として知られることとなったものに一定の自治と自由を与えるという条件で、ロシアの西漸を認める用意があった。
これにより、ナポレオンによる諸改革は維持され、これに憲法、二院制議会、ポーランド軍、そして別個の君主が付け加えられた。」(PP169)
「<ところが、>1830年末に<に、ベルギーとフランスで革命が起こったことに欧州中の耳目が集中していた間隙に乗じて、ポーランドで反乱が起きる。>
<これに対し、>1832年2月の<布令>で、<ロシア皇帝の>ニコライ(Nicholas)<1世>はポーランド憲法を廃棄し、独立した<ポーランド>軍と議会・・・を廃止し、行政のあらゆる枢要なポストに生粋のロシア人を任命した。」(PP171)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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