太田述正コラム#3706(2009.12.14)
<米仏「同盟」(その2)>(2010.4.26公開)

 「・・・米独立革命のちょっと前に、フランスのルイ15世(Louis XV<。1710〜74年>)は、イギリスを侵攻したいとの軽率かつ希望的観測的な一連の手紙を書いた。
 (これは、7年戦争の後のことだった。この戦争でイギリスはフランスをぶちのめしており、またフランスが戦火を交えたいのなら大喜びで受けて立ったことだろう。)
 国王は、これらの手紙を、ロンドンで危うい外交的地位にあったところの、手練れのスパイであるシュヴァリエ・デオン宛に書いた。
 後に、同国王がこれらの外聞の悪い手紙を必死になって取り戻そうとした時、デオンは自分の地位を守るために容赦なく立ち振る舞い始めた。・・・
 また彼は、自分の外交的地位を諦めるかこれらの手紙をルイ15世に返還するためにフランスに帰国することを徹底的に拒否した。
 パリでは、様々なことで少なからず取り乱していたフランスの外相が、既に何回もの人生を生きたほどの冒険を重ねたところの、面目を失った一人のフランス市民を召喚した。
 ピエール・オギュスタン・ボーマルシェその人だ。
 彼は、(ロッシーニが後にオペラに仕立てた)「セヴィリアの理髪師」を書いた男であり、<10歳年上の>金持ちの未亡人と結婚してから<一年後に>彼女を亡くし<、その殺害の嫌疑をかけられ>、そして無分別に金儲けをし、それから一財産ないし二財産を蕩尽した男だ。
 何らかの理由により、この外相は、ボーマルシェが、ロンドンに送ってデオンからあのヤバイ一連の手紙を返還させるべくロンドンに派遣するにうってつけの人物であると思い込んだ。
 その頃、北米英領諸植民地では、市民達が、少なからずジョージ3世が大衆に課した諸税に嫌気を覚えていた。
 余りに嫌気がさしたものだから、大陸会議は、コネティカットの世間知らずの乾物商の男をフランスに派遣し、革命を裏書きするために十分な軍需品と武器を吐き出させるようフランス政府を説得できないか見きわめようとした。
 このサイラス・ディーン(Silas Deane<。1737〜89年。エール大学卒で一事弁護士業に従事。コネティカット代表として大陸会議議員となる。その後、米国最初の外交官として1776年初にフランスに派遣される
http://en.wikipedia.org/wiki/Silas_Deane (太田)
>)という男が一言もフランス語がしゃべれず、国際外交の何たるかについて何の手がかりも持っていなかったことは不問に付された。
 やってみなければ何も得られないというわけだ。
 <他方、>ボーマルシェは、デオンの首を縦に振らせることに基本的に失敗し、パリに戻った。
 彼は、奇妙にも、自分が仏米問題でフランスの外相に助言をする資格があると考えていた。
 彼は、半ばインチキの輸出入業を始め、サイラス・ディーンを助けて巨大な分量の軍需品を米独立革命の大義を推進するためにかき集めた。
 間もなくベンジャミン・フランクリンが<フランスに>やってきたが、このフランクリンとディーンは二人して有名になったというのに、ボーマルシェはこの二人の社交生活に入れてもらえなかったため、ちょっとばかりすねたものだ。
 そうこうしているうちに、ヴァージニアの著名なリー家出身の第三の米人たるアーサー・リー(Arthur Lee<。1740〜92年。ヴァージニア州生まれだが、英国のイートン校とエジンバラ大学卒でロンドンで法学を履修しロンドンで弁護士を開業、そこからまずプロイセンとスペインに派遣されがこの両国の支援を得ることに失敗、その後フランスに派遣される。米国に帰国後、ヴァージニア代表として大陸会議議員となる
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Lee_(diplomat) (太田)
>)が<フランスに>やってきた。
 しかし、彼は、すこぶるつきの嫌な人物であり、妄想狂の身の毛のよだつような男だった。
 このむちゃむちゃに面白い歴史の本の著者であるジョエル・リチャード・ポールは、・・・リーを生涯被害妄想を抱き続け自己憐憫の情にもだえ続けた男として描写する。
 後に、ジョン・アダムス(John Adams<。1735〜1826年。ハーバード大学卒。弁護士となる。米国の建国の父の一人にして、初代の米副大統領で第二代米大統領
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Adams (太田)
>)<(コラム#896、1630)>は、リーの「容貌は嫌悪感を催させるものがあり、彼の雰囲気は愉快なものではなく、彼の行儀は魅力がなく、彼の気質は過酷でひねくれて凶暴で、彼の人や物についての判断は往々にして間違っていた」と記した。
 しかし、アダムスは一体何を考えていたのだろうか。
 これらの3人の米人達は、ボーマルシェとともに、米国の対仏外交政策を打ち固め、到底できそうもなかったにもかかわらず、独立革命の成功を確保するに十分な武器を集めたのだから・・。・・・」(A)

(続く)