太田述正コラム#3684(2009.12.3)
<政治的宗教について(その4)>(2010.4.11公開)

 「共産主義体制が押しつけられた諸国の間の明らかな様々な類似性は、これら諸国が共有した運命に由来するのであって、それぞれの<国の>、それ以前の歴史に由来するのではない。
 共産主義体制の中には社会福祉面で前進を遂げたものもあるが、すべてが、特有の腐敗と環境的荒廃を伴ったところの、大量の抑圧を経験することとなった。」(PP37)
 
 「・・・20世紀の恐怖政治は、確かに前代未聞ではあったが、その特異性は、その規模にあるわけではない。
 その目標が完全な人間生活・・全体主義への客観的積分(integral)・・であったことだ。」(PP38)

 「「全体主義(Totalitarianism)(注5)」という言葉がイタリアで、ムッソリーニの時代の間に<1923年、ジョヴァンニ・アメンドーラ(Giovanni Amendola)によって、
http://en.wikipedia.org/wiki/Totalitarianism (太田)
>初めて用いられるようになったという事実にもかかわらず、イタリアのファシズムは全体主義ではなかった。」(PP39)

 (注5)「通常、一つの政治組織、派閥、または階級による支配に基づくコントロール下の政治体制を指し、その権威に制限を認めず可能な限り公的私的のすべての分野を規制しようと努める。全体主義は、一般に、専制主義(authoritarianism)とイデオロギーの組み合わせ(coincidence)によって特徴づけられる。」(ウィキペディア上掲)

 「ロシアの不運は、啓蒙主義がこの国で勝利を収めることができなかったからだということがよく言われる。
 この見地からは、ソ連の体制は、「東洋的専制主義」のスラブ版であったことになる。
 そして、それが行った前代未聞の抑圧は、伝統的なモスクワ公国の圧政の発展であるとされるわけだ。
 欧州では、ロシアは長く半分アジア的な国であると見られてきた。
 この見方は、ロシア人達は奴隷たるべく運命づけられていると主張した、キュスティーヌ(Custine)侯爵<(コラム#145)>の有名な、1839年のロシア旅行の日誌によって補強された。
 東洋的専制主義の諸理論は、マルクスの様々な考えが、いかに破滅的な結果をロシアと支那でもたらしたかを説明しようとした、マルクス主義者達の間で語られ続けた。
 東洋的専制主義の考えはマルクス自身まで遡る。
 彼は、「アジア的生産様式」の存在を仮定した。
 後に、カール・ウィットフォーゲル(Karl <August >Wittfogel<。1896〜1988年。ドイツ系米国人で、支那学者。共産主義から戦後反共に転じた
http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_August_Wittfogel (太田)
>)のようなマルクス主義の学者達は、これをロシアと支那に適用し、これら諸国における全体主義は、アジア的諸伝統の産物であると主張した。」(PP43)

 「<しかし、>・・・反動的であった<伝統的な>ロシアのメシア主義は、拡張主義的信条(creed)ではなかった。
 ・・・この反欧米的メシア主義が10月革命でロシアの権力の座に就いたわけではないのだ。」(PP44)

 「レーニン・・・は、米国の「科学的管理法」の手法である「テイラー主義」と「フォード主義」という、最も進んだ資本主義的諸手法の熱心な宣教師だった。
 ボルシェヴィキの指導者<たるレーニン>が、彼の計画を「ロシアの革命的な連続した<歴史の>流れ(sweep)と米国の効率性との組み合わせがレーニン主義の本質」であると描写したように・・。」(PP44〜45)

 「ほとんどの欧米の歴史家の見解に反し、<ロシアにおける>皇帝時代(Tsarist)とボルシェヴィズムを結びつける、連続しているところの諸要素は、ほとんど存在しないのだ。」(PP45)

→これに引き続き、グレイは、ボルシェヴィキのロシアでの権力掌握は、様々な偶然が積み重なったためであると述べるとともに、ボルシェヴィキは、ジャコバン派ないし欧州発のナショナリズム/帝国主義の直系であり、フランスで失敗した啓蒙主義の実践を、今度は失敗しないように注意しつつロシアで再実践しようとしたものだ、と述べています(PP45)。
 その根拠として、グレイは、人質をとったり、知識人の大弾圧をしたり、大量処刑をしたり、強制収容所を設置したりしたことや、巨大な治安機関を設けたりしたことは、皇帝時代<のロシア>にはなかったことだ、としています(PP47〜48)。
 しかし、これはやや均衡を失した議論のように私には思われます。
 啓蒙主義を「そのまま」継受して、根付かせたロシアのボルシェヴィズムについても、また、啓蒙主義を「歪曲して」継受したドイツのナチズムについても、それぞれ、それを可能とする土壌がロシアとドイツにあったと考えた方が自然でしょう。
 欧州ないし欧州の外延において、ボルシェヴィズムやナチズムのような規模で(戦争以外で)大量殺害を行った国は他には、ほとんど存在しないのですから・・。(太田)

 「スターリン主義は、レーニンとトロツキーによって確立された政府システムの自然かつ明白なる継続だった。」(PP52)

 「ボルシェヴィズム同様、ナチズムは、欧州<特有の>の現象だった。」(PP55)

 「ナチのイデオローグ達は、ちょっとでも有用だと思ったところの、反動的なジョセフ・ド・メーストル(Joseph de Maistre<。1753〜1821年。サルディニア王国臣民。中世的秩序への復帰を唱えた
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_de_Maistre (太田)
>)や浪漫主義的なJ.G.ヘルダー(<Johann Gottfried von >Herder<。1744〜1803年。ドイツの浪漫主義的ナショナリスト。疾風怒濤の時代の寵児
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Gottfried_Herder (太田)
>)や他の反啓蒙主義の思想家達から、啓蒙主義の思想家達からと同様、<様々なものを>拾い上げた。」(PP56)

 「<とはいえ、>浪漫主義は、たくさんの啓蒙主義の思想家達も共有していた」(PP56)

 「啓蒙主義の思想家達が反啓蒙主義の最悪の様々な考えの幾ばくかを共有していたとすれば、逆に、反啓蒙主義はナチのイデオロギーと相容れないものを多く包含していた。
 ヘルダーとド・メーストルとを考えても見よ。
 どちらも啓蒙主義的営みを拒否したが、いかなる意味においてもどちらも前ナチではなかった。
 ヘルダーは、(何人かの啓蒙主義思想家達がそうしたように、)諸文化と諸人種の間で、いかなる階統性も受容しなかった。
 それどころか、彼は、沢山の文化があるが、それらはすべてある意味ユニークなのであって、一つの価値基準で序列をつけることなどできないと確言した。
 ド・メーストルだって、ナチの無神論とその人種的優越性に関する諸教義にはぞっとする思いを抱いたことだろう。
 最も重要な諸点において、ナチのイデオロギーと反啓蒙主義思想とは正反対だったのだ。」(PP57)

 「<ナチとニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche。1844〜1900年)の思想との関連性もしばしば取りざたされるけれど、>ニーチェは、著名な啓蒙主義合理主義者であるヴォルテールを生涯尊敬し続けた。
 そして、ヴォルテール同様、ニーチェは、ルソーの、感情を理性よりも重視する姿勢を軽蔑していたのだ。」(PP57)

(続く)