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太田述正コラム#3650(2009.11.16)
<東欧の解放(その3)>(2010.3.6公開)

 (4)総括

 「・・・何が大事かと言うと、10いくつもの複雑な物語をたった一つの分析的拘束服に合わせようとするなんてナンセンスだということだ。
 共産主義は個々の国ごとに異なった形で崩壊したのだ・・・」(B)

 「成功の父は多く、誰もがお好みの説を持っている。
 ポーランド人達とカトリック教徒達は、ポーランド人の法王に、とりわけ彼の、人々を鼓舞した1979、1983、そして1987年のポーランド訪問に光を照射したがる。
 ドイツ人達とハンガリー人達は、ハンガリーの改革派の共産主義者達が鉄のカーテンを開けて東独の人々をそれを通って逃げられるようにした貢献をもっぱら語る。・・・
 ロシア学者達は、ゴルバチョフに最大の賛辞を贈る。
 左のドイツ人達は東方政策(Ostpolitik)として知られる、彼等のデタントのバージョンを宣伝する。
 右の米国人達は、ロナルド・レーガンだ。(ロメシュ・ラトネサー(Romesh Ratnesar)は、彼の出来の良くない著書の副題に、レーガンの1987年のベルリンでの「この壁を崩壊させよ」との演説から、「ある都市、ある大統領、そして冷戦を終わらせた演説」とつけた。)
 これだけ見解がたくさんあることは何も悪いことではない。
 それぞれが象の異なった部分に光を当てている、というか、この野獣を異なった角度から眺めているわけだ。
 しかし、誰かが一つの要素だけに着目して、これが象だ、これが一番重要だと言う時、あなたは彼が間違っていることを知っている。・・・
 彼の同僚達の大部分から、そしてある意味では自分自身から、抱えている問題の奥深さを隠していたところの、エリッヒ・ホネカー(Erich Honecker<。1912〜94年>)を引き継いで党の指導者になった時、エゴン・クレンツは国の経済状況についての正直な報告を求めた。
 <その上で、>10月の終わりに、彼は東独は、「資本主義的債務の可能な限り最大限依存」してきたと語った。
 そして、「しかし、国家は銀行ではない。いわんやネズミ講(Ponzi scheme)ではない。国家は大きな債務の重荷の下で長期間生き続けることができる。国家は単純に破産することはない」と付け加えた。・・・
 ・・・コトキンは、チェコスロヴァキアの「ビロード革命」の、大衆デモから国全体のゼネストへという急速な展開に言及しつつ、こう記す。
 「これらのうちのどれ一つとして、反体制派や1989年以後まもなく解散を命ぜられた市民フォーラム(Civic Forum)によって鼓吹されたり指導されたものはなかった」と。
 つまり、ゼネストは自然発生的に起こったというのだ。
 ウェンセスラス広場(Wenceslas Square)の30万人が「ハヴェル(Havel)を城<(大統領府)>へ」と唱和した時、これは、ハヴェルの経歴、人柄、あるいは傑出した指導力とは何の関係もなかった。というのも、これは共産主義のエスタブリッシュメントのもう一つの「自壊」でしかなかったからだ」と。
 しかし、その場に居合わせた全員にとって、あるいは、単に、ビロード革命について詳細に研究したチェコ人達や欧米の歴史家達の注意深い説明を読むだけで、このような主張はネズミ講同様、成り立たないことが分かる。
 こんなものは、竹馬に乗ったような<歴史の>修正主義<的見方>なのだ。
 このような大衆動員と市民的抵抗の時に関して大事なことは、(ハヴェルやアウンサン・スーチーのようなちっぽけな反対派や孤立した政治的囚人達を含むところの、)一定の以前から存在する諸条件の下では、市民フォーラムのような社会的組織形態が、しばしば混沌的に即興的に、しかしながら明確に組織と言えるものが、異常な速度で出現することが可能であるということだ。・・・
 本当のところは、1989年の本質は、一つの社会と党・国家との間だけではなく、多数の社会と国家の間の、一連の相互に関係した三次元チェス・ゲームの形での多角的相互作用にあるのだ。
 1789年のフランス革命に関しては、それには常に外国がからんでいる部分と外国からの反響があったし、また、<このフランス革命は、>革命諸戦争によって国際的出来事になったけれど、あくまでも、一つの大きな国における国内的動きに発したものだった。
 他方、1989年の欧州の革命は、最初から、国際的な出来事だった。
 「国際的」の意味だが、国家の間の外交関係だけを指しているのではなく、国家と社会の、国境を越えた相互作用をも指しているのだ。・・・
 「流出」は、1986年から88年までは、主としてソ連から東欧へであり、1989年には双方向であり、そして1990年から91年にかけては主として東欧からソ連へであったのであり、バルト沿岸諸国、ウクライナ、そして最終的にはロシア自身も、勇気づけられて、東中欧の自己解放の事例の後追いをしたわけだ。・・・
 ・・・天安門事件が支那で起こったことは、それが欧州で起こらなかった理由のうちの一つだ。
 ところが、逆の方向に、つまり、ソ連と東欧から支那へと影響が戻って及んだ。
 ・・・中国共産党は、欧州の共産主義の崩壊の教訓を体系的に研究し、それが自分の所では絶対に起こらないようにしようとしたのだ。
 今日の支那がかくあるのは、この学習過程の結果なのだ。・・・
 ・・・これは、欧州で世界史がつくられる最後の機会、いや、少なくともかなり長期にわたっての最後の機会、になったのかもしれない。・・・」(D)

 「・・・1989年の種々の出来事は、「一つの帝国の崩壊をはるかに超えることだった。
 それは、2世紀にわたった時代の終わりだったのだ。
 それは、最初に欧州で起こり、ついで世界の政治が近代社会に係る幻想の概念・・地上における虐げられた人々が調和と平等に立脚した社会を創造する・・によって強力に影響された時代だった。」
 エドムンド・ウィルソンがマルキストの伝統とロシア革命について 'To the Finland Station' で披露した古典的説明のように、プリーストランド(<David >Priestland)の本<、'The Red Flag: A History of Communism'> は、1789年のフランスの革命期の夜明けから始まる。
 彼は、それからお馴染みの登場人物達・・ロベスピエール、バブーフ(<François-Noel >Babeuf<。1760〜97年。共産主義の祖と称せられる>)、サンシモン、フーリエ(<François Marie Charles >Fourier<。1772〜1837年。空想社会主義者にして哲学者>)、ブランキ、プルードン、カベ(<Etienne >Cabet<。1788〜1856年。哲学者にして空想社会主義者>)その他から、同じ場面への1848年におけるマルクスとエンゲルスの到着、そしてその先まで・・を整列させる。
 最初から、プリーストランドは、やがてやってくるいくつもの悲劇の前兆を見出す。
 「人民の敵」という新しい犯罪者概念を含む「ジャコバンのるつぼの中に、共産主義者の政治とふるまいの要素的諸傾向が粗っぽくかつ混ぜもののない形で登場した」と彼は記す。
 フランス革命においては、後の諸動乱の時もそうだが、指導者達は、平等の約束を通じて大衆の革命的熱狂を掻きたてることと、内からと外からの敵から守るために強力な国家を建設する必要性の認識との間で股裂きになった。
 究極的には、共和国の徳がナポレオン3世<による統治>へと道をあけたように、後者の衝動が勝利を収めた。・・・
 マルクス主義は、次第にますます革命と科学の両方の哲学となって行った。
 そして、その両者の間の緊張はマルクス主義の中に亀裂を生み出し、この亀裂はその歴史を通じて続いた」・・・
 「<東欧がソ連圏となってから>後の期間、ずっと、東欧はソ連の軍事的かつ経済的資源を恒常的に減少させ続けた。
 これは奇妙な帝国の形態だった。
 各植民地が宗主国を<潤すの>ではなく、宗主国が各植民地に補助金を与え、そのため、臣民たる人々が宗主国の人々よりも高い生活水準を享受したのだ。(とはいえ、西欧の基準に照らせば、彼等は貧乏だったが・・。)・・・」(F)

 「・・・早くも1981年には、その翌年にレオニード・ブレジネフ(Leonid Brezhnev<。1906〜82年>)のソ連の指導者としての地位を引き継ぐことになる、KGBの長のユーリ・アンドロポフ(Yuri Andropov<。1914〜84年>)が、彼の同僚達に、「我々はポーランドに部隊を導入するつもりはない…。仮に連帯のコントロール下にポーランドが置かれることになったとしても、かまわない」と語っている。
 アンドロポフと彼の後継者のコンスタンティン・チェルネンコ(Konstantin Chernenko<。1911〜85年>)の下で、ソ連の東欧でのねらいは、クレムリンの外<にいる人間>からは引き続きはっきりは見えなかった。
 でもゴルバチョフは、東欧の共産主義諸体制は自分で歩め、そして自らを運命にゆだねよ、という紛うことなき信号を送ったソ連の指導者だった。(そして、短期間で、ソ連もそうなった。)
 1989年10月にドイツ民主共和国建国40周年祈念の行事に、しぶしぶゴルバチョフが赴いた時、集まった群衆から次々に声がかかった。
 「ゴルビー、我々を助けて」と。
 プレシャコフは、ゴルバチョフをドジの機会主義者であるとこきおろす。
 「彼は大義を抱いていたわけではなく、彼の同輩者達や仲間達に対し、おしなべて風見鶏的に接した。だからこそ、彼は、人生の終末近くなった現在、独りぼっちなのだ」と。
 これに対し、セベスティヤンは<ゴルバチョフについて、>もっと暖かい、そして究極的にはもっと公正な評価を下す。
 「彼自身の意図に照らせば(By his own lights)彼は失敗した。しかし、何百万人もの人々は彼に礼を言うべきだろう」と。・・・」(F)

3 終わりに

 ソ連(ロシア)共産党とその中東欧各国版はこうして壊滅したけれど、キューバ共産党はそのまま生き延び、中国共産党やベトナム共産党等はファシスト政党化することによって、北朝鮮の労働党(共産党)は一種の専制王制をとることによって生き延びています。 自由民主主義諸国における共産党は、事実上社会民主主義政党になることによって生き延びています。
 これらのうち、一番最後まで生き残る共産党は、どの共産党でしょうか。
 それが、中国共産党ではないことを、願ってやみません。

(完)

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