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太田述正コラム#3563(2009.10.4)
<英陸軍の近現代史(その3)>(2010.2.20公開)
(3)20世紀〜
「・・・全面的な組織再編は、20世紀の最初の10年間にハルデーン(<Richard Burdon Sanderson >Haldane<, 1st Viscount Haldane。1856〜1928年。陸軍相:1905〜12年。蔵相:1912〜15年、1924年>)とキッチナー(<Field Marshal Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl >Kitchener<。1850〜1916年。陸軍相:1914〜16年>)によってなされるまで行われなかった。
1914年にフランスに派遣された常備陸軍は、恐らく、それまで英国が欧州大陸における戦争に投入したものの中で最も良く組織されたものだった。
しかし、それは西部戦線の消耗戦の中で急速に減耗してしまった。
キッチナーの大量の志願兵による新陸軍(New Armies)は驚くべき勇敢さを示したが、戦闘の性格は、戦術的革新というよりは犠牲のひどい忍耐がものを言う類のものだった。・・・」(B)
「・・・第一次世界大戦が少なくとも3年は続くと予想するとともに、英国の最初の徴兵陸軍を創設するのに着手したのはキッチナーだった。
<1916年7月の>ソンム(Somme)<の戦い。コラム#3511>の初日の死傷者数は、「スペイン半島会戦(Peninsular campaign<。1807〜14年>)全期間を通じてウェリントン公爵<の英陸軍>が被った死傷者数にほぼ匹敵していた。
この虐殺<の記憶>は、第二次世界大戦に至るまで英陸軍に取り憑いた。
しかし、その頃までには、イギリスとインドに設置された各種幕僚学校のおかげで、<英陸軍における>作戦計画と兵站についての理解は、はるかに深まっていた。
とはいえ、第二次世界大戦の諸会戦における英陸軍の成功は、攻撃的でかつ練達な将官道と幸運によってもたらされた<と言うべきだろう。>・・・」(C)
「・・・戦間期は、軍事的窮乏の最もひどい例だった。
英陸軍は、1939年に至るまで、予算配分で飢餓状態にあった。
というのも、予算は英海軍と英空軍に優先的に配分されたからだ。
当然と言うべきか、大災厄につぐ大災厄が出来し、<英陸軍の>士気は落ちるところまで落ちた。
1944年のノルマンディー<上陸作戦(コラム#3503)の時点>においてすら、ドイツ軍は、英軍の兵士達は防御においては勇敢だったが、効果的な攻撃を仕掛けることが不可能であると見ていた。・・・」(B)
「・・・1945年以降<も、>ケチケチ状態が続いた。
ただし、北アイルランドでの諸問題は、神からの英陸軍に対する贈り物であり、同陸軍は「作戦練度」を保ち続けた。・・・」(C)
「・・・冷戦期には、ドイツにおいて「重装」陸軍を維持しなければならない一方で、世界中及び北アイルランドにおいて対反乱作戦を実施しなければならないことによる、軍としてのありようの股割き状態が深刻化した・・・」(B)。
(4)最後に
「・・・<17世紀>に引き続く諸世紀を経て、英陸軍は、今日の世界において、「あらゆる規模の独立した作戦を展開することが可能な」<、世界中で米陸軍と並ぶ、>たった二つの陸軍のうちの一つになった。・・・」(C)
3 終わりに
最後の点については、英国人自身が半信半疑であり、英国のネチズンの間で結構議論になっています。
http://www.militaryforums.co.uk/forums/viewtopic.php?p=462258
(以上、すべて10月2日アクセス)
さて、英陸軍の歴史は、日本の陸上自衛隊のあり方を考えるにあたって直接参考になります。
英国と日本の軍事地政学的立場が極めて似通っているからです。
(なお、常備陸軍に対する警戒心が極めて強いという点でも両国は、この点はあくまで表見的にですが、とても似通っています。)
すなわち、陸上自衛隊は、英陸軍同様、予算配分において、海上自衛隊(英海軍)や航空自衛隊(英空軍)の後塵を拝さざるをえないこと、また、日本が米国から「独立」した後も、吉田茂の対米遺恨の一つくらいは尊重し、先の大戦の「懲罰」として、米国に朝鮮半島への地上部隊駐留を続けさせることによって、陸上自衛隊は重装部隊を基本的に維持しないことを可能にする一方で、日本の領域へのテロリスト的脅威に備えるとともに、海外に対反乱目的で派遣するための、軽装部隊を維持することが、私の推奨する陸上自衛隊整備構想の骨子です。
もちろん、重装部隊についても、モデル部隊的に一式維持する、というオプションも捨てがたいものがありますが・・。
(完)
<英陸軍の近現代史(その3)>(2010.2.20公開)
(3)20世紀〜
「・・・全面的な組織再編は、20世紀の最初の10年間にハルデーン(<Richard Burdon Sanderson >Haldane<, 1st Viscount Haldane。1856〜1928年。陸軍相:1905〜12年。蔵相:1912〜15年、1924年>)とキッチナー(<Field Marshal Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl >Kitchener<。1850〜1916年。陸軍相:1914〜16年>)によってなされるまで行われなかった。
1914年にフランスに派遣された常備陸軍は、恐らく、それまで英国が欧州大陸における戦争に投入したものの中で最も良く組織されたものだった。
しかし、それは西部戦線の消耗戦の中で急速に減耗してしまった。
キッチナーの大量の志願兵による新陸軍(New Armies)は驚くべき勇敢さを示したが、戦闘の性格は、戦術的革新というよりは犠牲のひどい忍耐がものを言う類のものだった。・・・」(B)
「・・・第一次世界大戦が少なくとも3年は続くと予想するとともに、英国の最初の徴兵陸軍を創設するのに着手したのはキッチナーだった。
<1916年7月の>ソンム(Somme)<の戦い。コラム#3511>の初日の死傷者数は、「スペイン半島会戦(Peninsular campaign<。1807〜14年>)全期間を通じてウェリントン公爵<の英陸軍>が被った死傷者数にほぼ匹敵していた。
この虐殺<の記憶>は、第二次世界大戦に至るまで英陸軍に取り憑いた。
しかし、その頃までには、イギリスとインドに設置された各種幕僚学校のおかげで、<英陸軍における>作戦計画と兵站についての理解は、はるかに深まっていた。
とはいえ、第二次世界大戦の諸会戦における英陸軍の成功は、攻撃的でかつ練達な将官道と幸運によってもたらされた<と言うべきだろう。>・・・」(C)
「・・・戦間期は、軍事的窮乏の最もひどい例だった。
英陸軍は、1939年に至るまで、予算配分で飢餓状態にあった。
というのも、予算は英海軍と英空軍に優先的に配分されたからだ。
当然と言うべきか、大災厄につぐ大災厄が出来し、<英陸軍の>士気は落ちるところまで落ちた。
1944年のノルマンディー<上陸作戦(コラム#3503)の時点>においてすら、ドイツ軍は、英軍の兵士達は防御においては勇敢だったが、効果的な攻撃を仕掛けることが不可能であると見ていた。・・・」(B)
「・・・1945年以降<も、>ケチケチ状態が続いた。
ただし、北アイルランドでの諸問題は、神からの英陸軍に対する贈り物であり、同陸軍は「作戦練度」を保ち続けた。・・・」(C)
「・・・冷戦期には、ドイツにおいて「重装」陸軍を維持しなければならない一方で、世界中及び北アイルランドにおいて対反乱作戦を実施しなければならないことによる、軍としてのありようの股割き状態が深刻化した・・・」(B)。
(4)最後に
「・・・<17世紀>に引き続く諸世紀を経て、英陸軍は、今日の世界において、「あらゆる規模の独立した作戦を展開することが可能な」<、世界中で米陸軍と並ぶ、>たった二つの陸軍のうちの一つになった。・・・」(C)
3 終わりに
最後の点については、英国人自身が半信半疑であり、英国のネチズンの間で結構議論になっています。
http://www.militaryforums.co.uk/forums/viewtopic.php?p=462258
(以上、すべて10月2日アクセス)
さて、英陸軍の歴史は、日本の陸上自衛隊のあり方を考えるにあたって直接参考になります。
英国と日本の軍事地政学的立場が極めて似通っているからです。
(なお、常備陸軍に対する警戒心が極めて強いという点でも両国は、この点はあくまで表見的にですが、とても似通っています。)
すなわち、陸上自衛隊は、英陸軍同様、予算配分において、海上自衛隊(英海軍)や航空自衛隊(英空軍)の後塵を拝さざるをえないこと、また、日本が米国から「独立」した後も、吉田茂の対米遺恨の一つくらいは尊重し、先の大戦の「懲罰」として、米国に朝鮮半島への地上部隊駐留を続けさせることによって、陸上自衛隊は重装部隊を基本的に維持しないことを可能にする一方で、日本の領域へのテロリスト的脅威に備えるとともに、海外に対反乱目的で派遣するための、軽装部隊を維持することが、私の推奨する陸上自衛隊整備構想の骨子です。
もちろん、重装部隊についても、モデル部隊的に一式維持する、というオプションも捨てがたいものがありますが・・。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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