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太田述正コラム#3551(2009.9.28)
<米ICBMの父(その1)>(2010.2.8公開)
1 始めに
出版されたばかりの、ニール・シーハン(Neil Sheehan<。1936年〜>)の'A FIERY PEACE IN A COLD WAR Bernard Schriever and the Ultimate Weapon' の書評を手がかりに、米国のICBMの父と彼を取り巻く群像に迫ってみましょう。
A:http://www.latimes.com/entertainment/news/arts/la-et-rutten23-2009sep23,0,3140267,print.story
(9月23日アクセス)
B:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/09/25/AR2009092502012_pf.html
(9月26日アクセス)
C:http://www.nytimes.com/2009/09/21/books/21sheehan.html?pagewanted=print
(9月28日アクセス。以下同じ)
D:http://www.post-gazette.com/pg/09270/1000586-74.stm
E:http://www.bloombery.com/apps/news?pid=20670001&sid=aJvq.cFzT6kU
著者のシーハンは、米国政府のベトナムに関する意思決定に係る秘密文書をダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg<。1931年〜。長らくランド研究所に勤務>)から1971年に託された、当時のニューヨークタイムス記者として有名です。(D)
この本は、シーハンがピューリッツァー賞をとったところの、ベトナム戦争をジョン・ポール・ヴァン中佐・・ベトナムで代々の米軍司令官の顧問を務めた・・を通して描いた'A Bright Shining Lie'が出版されてから20年後に出版されたものです。(B)
2 米ICBMの父
(1)シュリーヴァーの時代と彼の業績
「・・・第二次世界大戦が終わってから6ヶ月経っていない時点で、米空軍の父、ヘンリー・「ハップ」・アーノルド(Henry <Harley > "Hap" Arnold<。1886〜1950年。陸軍元帥、後に空軍元帥>)大将は、第一次世界大戦は「筋力(brawn)」により、そして第二次世界大戦は「兵站」によって勝敗が決まったが、次の戦争は、「頭脳(brain)」によって決まるだろうと述べた。・・・
・・・冷戦はむき出しの軍事力の戦いであると同時に観念の戦いだった。
勝利は、テクノロジーにおいてより創造的で、より多くの人々にアッピールした方のものだったのだ。・・・」(B)
「・・・ドイツ移民の息子であったシュリーヴァー(<Bernard Adolph> Schriever<。1910〜2005年>)・・・空軍大将・・・とICBMとの関係は、レズリー・グローヴス(Leslie Groves<。1896〜1970年。原爆開発マンハッタン計画の統括者>)中将と原爆との関係になぞらえることができる。
彼は、組織化の天才であり、このような巨大な事業のために必要な産業資源を動員し、適任の人々を選び、多忙を極めたスケジュールを実行させ、政府に働きかけて必要な資金を調達した。・・・
1957年の<ソ連の>スプートニクの打ち上げは、米軍部を震撼させた。
衛星を宇宙に発射するために使われたロケットは、米国向けの核弾頭を発射するためにも使われうるからだ。
しかし、1962年のキューバ・ミサイル危機の頃までには、両国の立場は劇的に逆転していた。
ソ連は、36のICBMを15分間待機させていたが、これに対し、米国は240だったのだ。
シーハンによれば、この転換をもたらした功績の多くはシュリーヴァーに帰せられる。・・・」(B)
「・・・シーハンの語るところによれば、シュリーヴァーは、ドイツ移民として生徒の時に米国にやってきて、第二次世界大戦で功績をあげたのだが、科学的な頭脳を持った予見者という珍しい存在であり、個人的に高潔であるとともに組織人としても卓越していた。
以上のすべてを兼ね備えていた彼は、原爆を搭載したロケットの米国の持続的安全保障にとっての中心的重要性を訴えたと同時に、彼の目標としたもろもろのものを実現するために兵器開発のあらゆる新しいシステムを見出し、売り込んだ。
その過程で、彼は、懐疑的な一群の軍の上官達と政治家達のみならず、新しいあらゆるぼろもうけに貪欲な企業人どもと対決し、出し抜いた。・・・」(A)
(2)シュリーヴァーという人物
「・・・2005年に亡くなったシュリーヴァー大将は、すこぶる魅力的な人物であり、・・・米国が第一次世界大戦に参戦する直前、6歳の時にドイツからやってきた移民であり、ゴルフの<アマ>チャンピオンであり、パイロットにして航空エンジニアであり、自分の目標を達成する天才だった。・・・」(C)
「・・・シュリーヴァーは、第一次世界大戦勃発の4年前にドイツで生まれ、・・・<米国にやってきた>1年後に彼のエンジニアの父親が産業事故で死亡する。
彼の肝っ玉母さんが、彼を・・<一人で>育て上げたのだ。・・・」(E)
(続く)
<米ICBMの父(その1)>(2010.2.8公開)
1 始めに
出版されたばかりの、ニール・シーハン(Neil Sheehan<。1936年〜>)の'A FIERY PEACE IN A COLD WAR Bernard Schriever and the Ultimate Weapon' の書評を手がかりに、米国のICBMの父と彼を取り巻く群像に迫ってみましょう。
A:http://www.latimes.com/entertainment/news/arts/la-et-rutten23-2009sep23,0,3140267,print.story
(9月23日アクセス)
B:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/09/25/AR2009092502012_pf.html
(9月26日アクセス)
C:http://www.nytimes.com/2009/09/21/books/21sheehan.html?pagewanted=print
(9月28日アクセス。以下同じ)
D:http://www.post-gazette.com/pg/09270/1000586-74.stm
E:http://www.bloombery.com/apps/news?pid=20670001&sid=aJvq.cFzT6kU
著者のシーハンは、米国政府のベトナムに関する意思決定に係る秘密文書をダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg<。1931年〜。長らくランド研究所に勤務>)から1971年に託された、当時のニューヨークタイムス記者として有名です。(D)
この本は、シーハンがピューリッツァー賞をとったところの、ベトナム戦争をジョン・ポール・ヴァン中佐・・ベトナムで代々の米軍司令官の顧問を務めた・・を通して描いた'A Bright Shining Lie'が出版されてから20年後に出版されたものです。(B)
2 米ICBMの父
(1)シュリーヴァーの時代と彼の業績
「・・・第二次世界大戦が終わってから6ヶ月経っていない時点で、米空軍の父、ヘンリー・「ハップ」・アーノルド(Henry <Harley > "Hap" Arnold<。1886〜1950年。陸軍元帥、後に空軍元帥>)大将は、第一次世界大戦は「筋力(brawn)」により、そして第二次世界大戦は「兵站」によって勝敗が決まったが、次の戦争は、「頭脳(brain)」によって決まるだろうと述べた。・・・
・・・冷戦はむき出しの軍事力の戦いであると同時に観念の戦いだった。
勝利は、テクノロジーにおいてより創造的で、より多くの人々にアッピールした方のものだったのだ。・・・」(B)
「・・・ドイツ移民の息子であったシュリーヴァー(<Bernard Adolph> Schriever<。1910〜2005年>)・・・空軍大将・・・とICBMとの関係は、レズリー・グローヴス(Leslie Groves<。1896〜1970年。原爆開発マンハッタン計画の統括者>)中将と原爆との関係になぞらえることができる。
彼は、組織化の天才であり、このような巨大な事業のために必要な産業資源を動員し、適任の人々を選び、多忙を極めたスケジュールを実行させ、政府に働きかけて必要な資金を調達した。・・・
1957年の<ソ連の>スプートニクの打ち上げは、米軍部を震撼させた。
衛星を宇宙に発射するために使われたロケットは、米国向けの核弾頭を発射するためにも使われうるからだ。
しかし、1962年のキューバ・ミサイル危機の頃までには、両国の立場は劇的に逆転していた。
ソ連は、36のICBMを15分間待機させていたが、これに対し、米国は240だったのだ。
シーハンによれば、この転換をもたらした功績の多くはシュリーヴァーに帰せられる。・・・」(B)
「・・・シーハンの語るところによれば、シュリーヴァーは、ドイツ移民として生徒の時に米国にやってきて、第二次世界大戦で功績をあげたのだが、科学的な頭脳を持った予見者という珍しい存在であり、個人的に高潔であるとともに組織人としても卓越していた。
以上のすべてを兼ね備えていた彼は、原爆を搭載したロケットの米国の持続的安全保障にとっての中心的重要性を訴えたと同時に、彼の目標としたもろもろのものを実現するために兵器開発のあらゆる新しいシステムを見出し、売り込んだ。
その過程で、彼は、懐疑的な一群の軍の上官達と政治家達のみならず、新しいあらゆるぼろもうけに貪欲な企業人どもと対決し、出し抜いた。・・・」(A)
(2)シュリーヴァーという人物
「・・・2005年に亡くなったシュリーヴァー大将は、すこぶる魅力的な人物であり、・・・米国が第一次世界大戦に参戦する直前、6歳の時にドイツからやってきた移民であり、ゴルフの<アマ>チャンピオンであり、パイロットにして航空エンジニアであり、自分の目標を達成する天才だった。・・・」(C)
「・・・シュリーヴァーは、第一次世界大戦勃発の4年前にドイツで生まれ、・・・<米国にやってきた>1年後に彼のエンジニアの父親が産業事故で死亡する。
彼の肝っ玉母さんが、彼を・・<一人で>育て上げたのだ。・・・」(E)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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