太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#3461(2009.8.14)
<アーサー・ランサムの半生(その1)>(2009.12.30公開)
1 始めに
「ロアルド・ダールの半生」シリーズ(コラム#2838、2840)を覚えておられるでしょうか。有名な童話作家の、ちょっと信じられないような前半生をご紹介したわけですが、ダールが生きたのは1916〜90年であったところ、今度は、少し前の世代に属する・・生きたのは1884〜1967年・・やはり有名な童話作家のアーサー・ランサム(Arthur Ransome)の、これまたちょっと信じられないような前半生をご紹介したいと思います。
手がかりにするのは、このたび上梓された、ロランド・チェンバース(Roland Chambers)の'The Last Englishman: the Double Life of Arthur Ransome’の以下の書評です。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2009/aug/13/arthur-ransome-double-agent
(8月13日アクセス)
B:http://www.ft.com/cms/s/2/000956d8-82e2-11de-ab4a-00144feabdc0.html
(8月13日アクセス)
C:http://www.express.co.uk/posts/view/118767/The-Last-Englishman-The-Double-Life-of-Arthur-Ransome
(8月14日アクセス)
D:http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/columnists/richard_morrison/article6738918.ece?print=yes&randnum=1151003209000
(8月14日アクセス)
なお、著者のチェンバースは、イギリス人ですが、奥さんがエール大学で文学を教えているため、ロンドンとエール大学のある米コネティカット州を往復する生活を送っています。
http://www.faber.co.uk/author/roland-chambers/
(8月14日アクセス)
2 アーサー・ランサムの半生
「この本の題名はこれまで何度も使われているが、今回のランサムの<についての本の>ケースで言えば、およそ何の意味もない。
副題ですら間違っている。
というのは、彼の成人後の人生は2つではなく3つの明確に異なったフェーズから成り立っているからだ。・・・」(C)
「・・・<童話の>『ツバメ号とアマゾン号(Swallows and Amazons)』を書いた男<であるランサム>は、トロツキーの個人的秘書<・・・エフゲニア・シェレピナ(Evgenia Shelepina)・・・>と長い結婚を送ったし、ボルシェヴィキの情宣部門の長であったカール・ラデク(Karl Radek<。1885〜1939年。ユダヤ人。ソ連の諜報機関である、チェカ(下出)の後進のNKVDによって暗殺される>)とアパートで共同生活をし、大変親しい間柄であったレーニンの世界に思いをはせ、また、ある時点において、余りにも危険であると考えられたため、反逆罪による起訴を念頭に置いてロンドン訪問時に彼は逮捕された。
彼は、<できたばかりであった英諜報機関の>MI6からエージェントのS76として給与をもらっていた。
要は、二人のアーサー・ランサムがいたと言っても過言ではあるまい。
この二人の折り合いを付けることが容易ではないことは決して驚くべきことではない。
そもそも二番目のランサムは一番目のランサムをほとんど抹殺してしまった。
それはあたかも、快活なる無垢と古の世界の様々な徳なるユートピア敵世界を描出しているフィクション作品の作家が、現実の人生においては、国家安全保障にとって重大な危険であると考えられたなどと想像したくないだろうと思ってのことだったかのようだ。
一番目のランサムは、ロシア革命の無批判的な擁護者であり、情熱を込めてボルシェヴィキ寄りのパンフレットや記事を書き、粛清など存在しないとし、民主主義の抑圧を正当化し、裁判抜きの処刑も必要であると認めさえした。
彼は、チェカ(Cheka)・・ボルシェヴィキの秘密警察で<NKVD、ひいては>KGBの前身・・に協力し、レーニンは、彼を英国の政策に関する一義的諜報源と見ていた。
それと同時に、彼の忠誠度について深刻な疑義があったにもかかわらず、<ロシア>革命の指導者達の多くと公然たる親しい人物として、彼は英諜報機関の給与をもらっていた。
彼は少なくともスパイであり、恐らくは二重スパイだった。
もう一つの、二番目のランサムは、パイプを燻らす、ラグビーで教育された文学的諸生活、民話集成、魚釣り随想、そして最後のものが出版されるまでに100万部以上売れ、それからも現在に至るまで何100万部も売れた12の一連の子供のための本の著者だった。
<彼は、>いわば、1930年代の<(ハリーポッターシリーズの著者)>JK・ローリングだったのだ。
ランサムは1884年に生まれた。
彼の父親は将来リーズ(Leeds)大学となる大学の歴史と近代文学の教授だったが、無惨にも結核の一種でアーサーがまだ13歳の時に亡くなった。
学業成績がふるわなかったこともあり、ランサムは生涯父親の名前を汚したという気持ちを抱き続けた。
もっとも彼は、父親からイギリスの田舎、特に湖沼地帯のコニストン(Coniston)周辺のいくつかの丘、に対する深い愛情を受け継いだ。
この場所で、ランサムは、家族とともに毎年休日を過ごすのだが、後に随分経ってから、彼はこの場所から、『ツバメ号とアマゾン号』のセッティングを、ほんのちょっとの変更を加えた形で、拝借することになる。
作家になる決意を固めたランサムは、ヨークシャー単科大学での化学の勉強を一年間で止め、ロンドンの出版社での助手の仕事に就き、様々なジャンルの雑誌に記事を書き、自由奔放な傾向に身を委ね、最終的に彼の最初の出版契約を勝ち取る。
ほとんどあらゆるまともな知人たる女性に手当たり次第に求婚を試みた彼は、・・・大失敗に終わる結婚を1909年にする。
その4年後の1913年に、彼が書いたオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の伝記<で自分をその男色相手とされたこと等>がお気に召さなかったアルフレッド・ダグラス(Alfred Douglas)卿から訴えられた、世間を賑わせた名誉毀損訴訟に勝訴しつつも、ランサムは、英国を去ってロシアに逃亡した。・・・
その次の年に、第一次世界大戦が勃発し、ランサムは、たまたまロシアにいたために、急進的な英デイリー・ニュース紙のサンクト・ペテルブルグ駐在特派員になった。
彼は、トロツキーにインタビューした英国の最初のジャーナリストの一人であり、1917年までには、いまだかつてない最大の政治的激動の始まりを報じるためにロシアに残ったところの、選ばれた一群の記者の一人となった。
いまだに自由奔放であったランサムは、<ロシアの>2月革命とその続きである10月革命を歓迎した。
彼は、ロシア革命の原則と業績をヨイショする情熱的な記事を何本も書いた。
これは、現在進行形の民主主義であり、皇帝の下での冷酷無惨な生活に対する人々の自然発生的叛乱であるとの彼自身の気持ちの表明だったのだ。
そして、ひとたびボルシェヴィキが権力を奪取するや、彼等の決意と道徳的確信は、彼等<ボルシェヴィキ>が、その無慈悲さが極めて明白になった時点においてさえ、ロシアが無政府状態へと落ちていくのを防ぐことができる唯一の人々である、と彼に確信させたのだ。・・・」(A)
(続く)
<アーサー・ランサムの半生(その1)>(2009.12.30公開)
1 始めに
「ロアルド・ダールの半生」シリーズ(コラム#2838、2840)を覚えておられるでしょうか。有名な童話作家の、ちょっと信じられないような前半生をご紹介したわけですが、ダールが生きたのは1916〜90年であったところ、今度は、少し前の世代に属する・・生きたのは1884〜1967年・・やはり有名な童話作家のアーサー・ランサム(Arthur Ransome)の、これまたちょっと信じられないような前半生をご紹介したいと思います。
手がかりにするのは、このたび上梓された、ロランド・チェンバース(Roland Chambers)の'The Last Englishman: the Double Life of Arthur Ransome’の以下の書評です。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2009/aug/13/arthur-ransome-double-agent
(8月13日アクセス)
B:http://www.ft.com/cms/s/2/000956d8-82e2-11de-ab4a-00144feabdc0.html
(8月13日アクセス)
C:http://www.express.co.uk/posts/view/118767/The-Last-Englishman-The-Double-Life-of-Arthur-Ransome
(8月14日アクセス)
D:http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/columnists/richard_morrison/article6738918.ece?print=yes&randnum=1151003209000
(8月14日アクセス)
なお、著者のチェンバースは、イギリス人ですが、奥さんがエール大学で文学を教えているため、ロンドンとエール大学のある米コネティカット州を往復する生活を送っています。
http://www.faber.co.uk/author/roland-chambers/
(8月14日アクセス)
2 アーサー・ランサムの半生
「この本の題名はこれまで何度も使われているが、今回のランサムの<についての本の>ケースで言えば、およそ何の意味もない。
副題ですら間違っている。
というのは、彼の成人後の人生は2つではなく3つの明確に異なったフェーズから成り立っているからだ。・・・」(C)
「・・・<童話の>『ツバメ号とアマゾン号(Swallows and Amazons)』を書いた男<であるランサム>は、トロツキーの個人的秘書<・・・エフゲニア・シェレピナ(Evgenia Shelepina)・・・>と長い結婚を送ったし、ボルシェヴィキの情宣部門の長であったカール・ラデク(Karl Radek<。1885〜1939年。ユダヤ人。ソ連の諜報機関である、チェカ(下出)の後進のNKVDによって暗殺される>)とアパートで共同生活をし、大変親しい間柄であったレーニンの世界に思いをはせ、また、ある時点において、余りにも危険であると考えられたため、反逆罪による起訴を念頭に置いてロンドン訪問時に彼は逮捕された。
彼は、<できたばかりであった英諜報機関の>MI6からエージェントのS76として給与をもらっていた。
要は、二人のアーサー・ランサムがいたと言っても過言ではあるまい。
この二人の折り合いを付けることが容易ではないことは決して驚くべきことではない。
そもそも二番目のランサムは一番目のランサムをほとんど抹殺してしまった。
それはあたかも、快活なる無垢と古の世界の様々な徳なるユートピア敵世界を描出しているフィクション作品の作家が、現実の人生においては、国家安全保障にとって重大な危険であると考えられたなどと想像したくないだろうと思ってのことだったかのようだ。
一番目のランサムは、ロシア革命の無批判的な擁護者であり、情熱を込めてボルシェヴィキ寄りのパンフレットや記事を書き、粛清など存在しないとし、民主主義の抑圧を正当化し、裁判抜きの処刑も必要であると認めさえした。
彼は、チェカ(Cheka)・・ボルシェヴィキの秘密警察で<NKVD、ひいては>KGBの前身・・に協力し、レーニンは、彼を英国の政策に関する一義的諜報源と見ていた。
それと同時に、彼の忠誠度について深刻な疑義があったにもかかわらず、<ロシア>革命の指導者達の多くと公然たる親しい人物として、彼は英諜報機関の給与をもらっていた。
彼は少なくともスパイであり、恐らくは二重スパイだった。
もう一つの、二番目のランサムは、パイプを燻らす、ラグビーで教育された文学的諸生活、民話集成、魚釣り随想、そして最後のものが出版されるまでに100万部以上売れ、それからも現在に至るまで何100万部も売れた12の一連の子供のための本の著者だった。
<彼は、>いわば、1930年代の<(ハリーポッターシリーズの著者)>JK・ローリングだったのだ。
ランサムは1884年に生まれた。
彼の父親は将来リーズ(Leeds)大学となる大学の歴史と近代文学の教授だったが、無惨にも結核の一種でアーサーがまだ13歳の時に亡くなった。
学業成績がふるわなかったこともあり、ランサムは生涯父親の名前を汚したという気持ちを抱き続けた。
もっとも彼は、父親からイギリスの田舎、特に湖沼地帯のコニストン(Coniston)周辺のいくつかの丘、に対する深い愛情を受け継いだ。
この場所で、ランサムは、家族とともに毎年休日を過ごすのだが、後に随分経ってから、彼はこの場所から、『ツバメ号とアマゾン号』のセッティングを、ほんのちょっとの変更を加えた形で、拝借することになる。
作家になる決意を固めたランサムは、ヨークシャー単科大学での化学の勉強を一年間で止め、ロンドンの出版社での助手の仕事に就き、様々なジャンルの雑誌に記事を書き、自由奔放な傾向に身を委ね、最終的に彼の最初の出版契約を勝ち取る。
ほとんどあらゆるまともな知人たる女性に手当たり次第に求婚を試みた彼は、・・・大失敗に終わる結婚を1909年にする。
その4年後の1913年に、彼が書いたオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の伝記<で自分をその男色相手とされたこと等>がお気に召さなかったアルフレッド・ダグラス(Alfred Douglas)卿から訴えられた、世間を賑わせた名誉毀損訴訟に勝訴しつつも、ランサムは、英国を去ってロシアに逃亡した。・・・
その次の年に、第一次世界大戦が勃発し、ランサムは、たまたまロシアにいたために、急進的な英デイリー・ニュース紙のサンクト・ペテルブルグ駐在特派員になった。
彼は、トロツキーにインタビューした英国の最初のジャーナリストの一人であり、1917年までには、いまだかつてない最大の政治的激動の始まりを報じるためにロシアに残ったところの、選ばれた一群の記者の一人となった。
いまだに自由奔放であったランサムは、<ロシアの>2月革命とその続きである10月革命を歓迎した。
彼は、ロシア革命の原則と業績をヨイショする情熱的な記事を何本も書いた。
これは、現在進行形の民主主義であり、皇帝の下での冷酷無惨な生活に対する人々の自然発生的叛乱であるとの彼自身の気持ちの表明だったのだ。
そして、ひとたびボルシェヴィキが権力を奪取するや、彼等の決意と道徳的確信は、彼等<ボルシェヴィキ>が、その無慈悲さが極めて明白になった時点においてさえ、ロシアが無政府状態へと落ちていくのを防ぐことができる唯一の人々である、と彼に確信させたのだ。・・・」(A)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/