太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#3453(2009.8.10)
<アテネ・海軍・民主主義(その3)>(2009.12.29公開)

 「・・・あの有名な<アテネの>黄金時代は、紀元前448年のペルシャ戦争の終結から429年のペリクレスの死までのわずか19年しか続かなかった。
 それは、短い黄金時代がペロポネソス戦争によって取って代わられてしまったからだ。・・・
 <黄金時代到来の理由の>一つは、経済であり、銀に関連していた。
 都市国家のアテネは、ラウリウム(Laurium)と呼ばれた場所にあった、最も生産的な一連の銀鉱を集団的に所有していた。
 これらの鉱山は、よく知られていることだが、トライリームと呼ばれた彼等の戦闘艦艇の建造の資金を提供した。
 この本は、世界第一級の海軍は、資本集約的な代物であって、国庫によって資金を提供されなければならない、という重要な点を指摘している。・・・
 ・・・海軍は、何千もの人々に、高度に人気のあった職を提供し、悪くない給与、そして冒険と地位を与えた。
 <トライリームの>名誉ある水夫になるためには、特別委員会に出頭して自分がアテネ市民であることを証明しなければならなかった。
 水夫達が経験することとなる危険、肉体的艱難、そして会陰血腫(perianal hematoma)を考えると、それがどうして高度に人気があったのか驚かざるをえない。
 <黄金時代到来の>二番目の絶対必要条件は、アテネ人の性格に関わっていた。
 彼等は、考える人であるとともに行動の人でもあった。(それは男性優位の文化だった。)
 ペリクレスは、「我々<アテネ市民>は、放縦に陥ることなき洗練さ、柔弱さなき知識を培っている」と語ったと伝えられている。
 
 彼等は、新機軸(innovation)を好み、とりわけそれが自分達のポリスのためのものである時は、喜んでプロジェクトにその肉体的・知的エネルギーを投じた。・・・
 <黄金時代到来の>三番目の絶対必要条件は、ペルシャ人達がアテネ人達に絶えることなく与えた脅威によって、市民達にこれだけの資源を何が何でも海軍に投じさせたことだ。・・・
 もちろん、繁栄がこれほどの規模と速度で招来された結果、そこに倨傲が生まれた。
 ペロポネソス戦争が<アテネにおける市民>生活と国庫にもたらしたコストは、長く続かなかった黄金時代の終わりを予告するものだった。
 アテネ人達は、しばしば種々雑多な諸都市において部隊を駐屯させてまでして、いずこにおいても民主主義を推進したが、後になって部隊を撤退させると、いつも<これらの諸都市は>寡頭支配に戻ってしまった。
 彼等は、手を広げすぎただけでなく、一方的に行動することによって同盟者達の間で怒りを生んだ。
 最終的には、アテネ人達はカリスマと大衆的魅力に基づいて経験の乏しい指導者達を選んだが、これらの指導者達は戦争に対してはるかに侵略的なアプローチをとり、より以前の指導者達が行ったような思慮深い外交を放棄してしまった。
 結局、上納金が入らなくなり、しかもスパルタが和平を乞うた時にこれを拒否したためにペロポネソス戦争での勝利を機会を逸し、ついには戦争に敗れ帝国も失ってしまうのだ。
 世界史上初の民主主義は、こうして無惨な最後を迎えたわけだが、その大きな理由は、選挙が、いばって歩くこと以外にほとんど能がない、無責任な指導者を輩出させたからだ。・・・
 当時のすべての社会は、通常、明確に区分された階級によって構成されていた。
 アテネの社会もその例外ではなかった。
 アテネ<市民>の最下層の階級はテテス(Thetes)だった。
 テミストクレスの計画は、少なくとも一見したところでは、極めて単純なものだった。
 トライリームからなる大艦隊を、アテネがたまたま持ち合わしていた銀を使って建造する。
 100隻のトライリームは17,000人の漕ぎ手を必要とする。
 誰がこれらの戦闘艦艇のオールを漕ぐのか。
 奴隷か、はたまた捕虜か。
 テミストクレスは頭のいい男だった。
 テテスにオールを漕がせよう。
 そうすれば、階級構造における最下層の市民達を雇用し、これほどの収入を見たことがない連中にカネを効果的に注入することになる。
 これは、原初的な、<経済学で言うところの>「したたり落ち(trickle down)」理論だったが、それはうまく行ったのだ。・・・
 こうして、アルテミシウム(Artemisium<。BC480年のギリシャ連合軍とペルシャ軍との海戦。ギリシャ側劣勢のまま終わる>)とサラミス(Salamis<。同年に次いで行われた両陣営の海戦。ギリシャ側の大勝利に終わる>)の戦闘での勝利とアモルゴス(Amorgos)での屈辱的敗北(注)がもたらされたのだ。・・・

 (注)アレキサンダー大王の死後、アテネがマケドニア帝国に叛乱を起こしたが、紀元前322年のこの海戦で壊滅的敗北を喫した。
http://www.historyofwar.org/articles/battles_amorgos.html
             -------------------------

 ・・・アテネ海軍の要員となった階級の男達は、陸軍の背骨を形成した重装歩兵(ホプライト=hoplite)ないしは騎兵よりも地位が低かったため、海軍の力が増強されるとともに、アテネにおける「寡頭的」要素に対して相対的に民主主義的要素が増強されることとなった。
 これは、海軍を維持すると多額の出費の過半が労働階級たる工人や労働者達の懐に流れ込み、彼等の力(lot)を増強させたことによって補強された。
 しかし、これらの出費は、アテネをして帝国的拡大路線をとることを強いることになったところ、そのような路線をずっと続けることはできなかったのだ。・・・
            ----------------------------

 「・・・陸上戦争においては、戦場は重武装したホプライトが支配していた。
 伝統的にホプライトは自分達の武器と防具を自ら調達しなければならなかった。
 だから、相当程度のカネがないとそのような役割を務めることはできなかった。
 しかし、アテネのトライリームの漕ぎ手達には防具も武器も必要なかった。
 いや、自分達の装備代金を支払う責任がないどころか、彼等は実際にはその軍役に対して給与を支払われたのであって、最も貧しい市民達にさえ海軍軍役の道を開き、彼等の公共生活上での役割を大きく増大させたのだ。
 ヘールの中心的テーマは、アテネの民主主義とアテネの海軍による支配は、同じコインの両面であるということだ、と言っても単純化し過ぎるものではない。・・・」(C)

3 終わりに

 古典ギリシャ時代のアテネは、(総人口25〜30万人、このうち参政権等を持っていたのは、市民たる男子成人人口3〜6万人だったと考えられており、しかも直接民主制であったところ、
http://en.wikipedia.org/wiki/Athenian_democracy
そんなものを真正な民主主義と呼べるかどうかはともかく、)人類史上おおむね初めて民主主義の実験をやってくれたわけです。
 そこから我々は何を学ぶべきなのでしょうか。
 順不同であげると次のとおりです。

一、戦争がなければ、人類史上ほぼ最初の民主主義は生まれなかった。
 ここから、一般論として、戦争は民主主義的傾向がある社会においては、その民主主義を助長する、と言えそうだ。
二、戦争と民主主義(というより自由主義)のどちらが欠けても、高度の文化を創造したり、維持したりすることはできない。
三、民主主義が成立したばかりの国には、好戦的傾向がある。
 このコインの反面とも言えるが、そのような国は、戦争には強い。
四、上記の系とも言えるが、生まれたばかりの民主主義国は非民主主義国群を従えて帝国を形成する傾向がある。
五、民主主義的傾向のない国に民主主義を移植することは容易ではない。
六、民主主義国において、選挙で選ばれる指導者は、人気がある人物ではあっても、能力や人柄において、その任にふさわしい人物でない場合の方が多い。
七、こうして、民主主義が成立したばかりの国が帝国を形成した場合、その状態が長続きはせず、帝国を失うとともに民主主義も挫折することになる。

 ほとんど同じことが、18世紀末から19世紀初頭のフランスで起こりましたよね。
 20世紀の前半の日本にも、一定程度あてはまると思います。

(完)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/