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太田述正コラム#3607(2009.10.26)
<「自分」は存在するのか(その2)>(2009.11.26)
さて、引き続き、今度は、エール大学の心理学教授のポール・ブルーム(Paul Bloom。1963年〜。カナダ出身)
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Bloom
の、米アトランティック誌掲載コラムに拠って話を進めましょう。
「もしあなたが人々に仕事と休暇のどちらがより幸せにするか聞けば、彼等は仕事をするのはカネのためであり、そのカネを休暇に使うの<だから後者>だと答えることだろう。
しかし、もしあなたが彼等に、時々呼び出し音が鳴るポケットベルを与えて、鳴る都度その時やっていることとその時の気分を記録するように頼むならば、彼等が仕事の時の方が幸せであることを発見する可能性が高い。
仕事はしばしば魅力的で社会性があるが、休暇はしばしば退屈でストレスがかかる。
同様、もしあなたが人々に彼等の人生における最大の幸せとは何かを尋ねたら、3分の1以上が彼等の子供達か孫達だと言うだろう。
しかし彼等に日記を使ってそこに彼等の幸せ度を記録させると、子供達の面倒を見ることはうんざりする事柄であり、家事よりほんのちょっと<幸福度が>高いだけで、それは、セックス、友人達との交わり、TV鑑賞、お祈り、食事、そして料理よりも<幸福度が>低いことが判明する。・・・
・・・一人一人の脳の中で、異なった自分が継続的に立ち現れたりかき消えたりする。 そのそれぞれが異なった欲望を持ち、支配権を巡って相争う。交渉し、だまし、相互に悪巧みをしながら・・。・・・
社会心理学者達は、我々が自分自身について考えるのと他人について考えるのとでは一種の違いがあることを発見してきた。
例えば、我々は自分の悪いふるまいを不幸な状況に、そして他人の悪いふるまいは彼等の本性に帰せしめがちだ。
しかし、このような性癖は、我々が自分の遠い過去や遠い未来を考えると減少する。
<こんな時は、>我々は、自分を他人のように見るのだ。
明朝あなたの体を占拠する人物ががあなたとは違う誰かだと考えることはむつかしいかもしれないが、今から20年後にあなたの体を占拠する人物についてそのように考えることは全くもってむつかしいことではない。
これが、多くの若い人々が引退後に備えて貯金をすることに無関心な理由かもしれない。
彼等は、それが、まるで自分のカネを見知らぬ老人にやってしまうことのように感じるのだ。
複数の自分がぶつかり合う一つの形を、我々は、かつて多重人格障害(multiple-personality disorder)と呼ばれていたところの、 解離性同一性障害(dissociative-identity disorder)として知られる精神疾患に見出すことができる。・・・
それを引き起こすものが何であれ、最近の脳スキャンによる諸研究を含め、かなりの証拠により、人々の中に潜む一つの自分からもう一つの自分へと本当に交替する人々がいることが示唆されている。
その場合のそれぞれの自分は、異なった記憶と人格を持っているのだ。・・・
多くの心理学者達と哲学者達は、解離性同一性障害は、正常な<個人における自分の>複数性の一つの極端な形であると論じてきた。・・・
・・・スタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram)によって1960年代に行われた・・現在では非倫理的過ぎて行うことはできない・・古典的な諸実験<(コラム#1303)>によって、正常な人々が、見知らぬ人に対し、彼等が権威ある科学者と信じた人物によって指示された場合は、電気ショックを与えるに至ることが示された。・・・
・・・最も普通の楽しみ(leisure activity)は、セックスでも、食事でも、飲むことでも、ヤクの使用でもないし、社交でも、スポーツでも、我々が愛する人々と一緒に過ごすことですらない。
それは、遠写しで(by a long shot)、我々が真実ではないと知っている経験・・映画やTVを鑑賞する、白日夢を見る、等々・・に参加することだ。・・・
・・・<また、自分の>他のアイデンティティーを探求することは、インターネットが発明された目的のように見える。
<ある>社会学者は、人々によく見られるのは、アバターを創り出し、比較的安全な環境の中で他の諸選択肢を探求することであることを発見した。・・・
・・・結婚満足度に関する諸調査は、カップルは最初のうちはおおむね幸せだが、子供を持つとより幸せでなくなくなり、子供達が家を去ると再び幸せになることを示している。・・・
・・・明敏な人々が、彼らの道徳的に申し分のない直感的感情を無視して、彼等が採用した注意深く考え出された信条体系によって認められているとして悪しき行為を行うこともある。
<例えば、かつての>多くの奴隷所有者達は理性的な人々だったが、彼等の知力を奴隷制を擁護するために用いた。
<彼等は、>この制度は、奴隷になった連中の利益に最もなると論じ、それは聖書に根拠がある・・アフリカ人はハム(Ham)の子孫であって神によって、「召使い達の召使い達」となれ、と非難された・・と論じたのだ。
<また、>自爆テロのようなテロリスト的行為は、典型的ケースについて言えば、感情的熱狂の下に実行に移されるわけではない。
それは、深く抱かれた信条体系と長期的熟慮的計画の帰結なのだ。
<もう一つあげよう。>
合理性(rationality)がねじ曲がった最もおぞましい例の一つがロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)のナチスの医者達についての論だ。
これらの男達は、長年にわたって意図的に自分達を自分達の感情から遠ざけるように行動した。
そうして、リフトンが描写するところの、「アウシュヴィッツ的自分」を創造することによって、彼等は、いかなる正常な生来の人間としての親切心をも彼等の仕事を妨げないようにしたのだ。
私としては、彼のふるまいが短期的な自分によって支配されている人の隣に住みたくはないし、私自身、そんな人物になりたいとも思わない。
しかし、もう一つの方向に行きすぎた人々も何かが間違っているのだ。
我々は、知的にも個人的にも、異なった自分の間のやりとり、長期的熟考と短期的衝動との均衡、から便益を受けるのだ。・・・」(D)
(続く)
<「自分」は存在するのか(その2)>(2009.11.26)
さて、引き続き、今度は、エール大学の心理学教授のポール・ブルーム(Paul Bloom。1963年〜。カナダ出身)
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Bloom
の、米アトランティック誌掲載コラムに拠って話を進めましょう。
「もしあなたが人々に仕事と休暇のどちらがより幸せにするか聞けば、彼等は仕事をするのはカネのためであり、そのカネを休暇に使うの<だから後者>だと答えることだろう。
しかし、もしあなたが彼等に、時々呼び出し音が鳴るポケットベルを与えて、鳴る都度その時やっていることとその時の気分を記録するように頼むならば、彼等が仕事の時の方が幸せであることを発見する可能性が高い。
仕事はしばしば魅力的で社会性があるが、休暇はしばしば退屈でストレスがかかる。
同様、もしあなたが人々に彼等の人生における最大の幸せとは何かを尋ねたら、3分の1以上が彼等の子供達か孫達だと言うだろう。
しかし彼等に日記を使ってそこに彼等の幸せ度を記録させると、子供達の面倒を見ることはうんざりする事柄であり、家事よりほんのちょっと<幸福度が>高いだけで、それは、セックス、友人達との交わり、TV鑑賞、お祈り、食事、そして料理よりも<幸福度が>低いことが判明する。・・・
・・・一人一人の脳の中で、異なった自分が継続的に立ち現れたりかき消えたりする。 そのそれぞれが異なった欲望を持ち、支配権を巡って相争う。交渉し、だまし、相互に悪巧みをしながら・・。・・・
社会心理学者達は、我々が自分自身について考えるのと他人について考えるのとでは一種の違いがあることを発見してきた。
例えば、我々は自分の悪いふるまいを不幸な状況に、そして他人の悪いふるまいは彼等の本性に帰せしめがちだ。
しかし、このような性癖は、我々が自分の遠い過去や遠い未来を考えると減少する。
<こんな時は、>我々は、自分を他人のように見るのだ。
明朝あなたの体を占拠する人物ががあなたとは違う誰かだと考えることはむつかしいかもしれないが、今から20年後にあなたの体を占拠する人物についてそのように考えることは全くもってむつかしいことではない。
これが、多くの若い人々が引退後に備えて貯金をすることに無関心な理由かもしれない。
彼等は、それが、まるで自分のカネを見知らぬ老人にやってしまうことのように感じるのだ。
複数の自分がぶつかり合う一つの形を、我々は、かつて多重人格障害(multiple-personality disorder)と呼ばれていたところの、 解離性同一性障害(dissociative-identity disorder)として知られる精神疾患に見出すことができる。・・・
それを引き起こすものが何であれ、最近の脳スキャンによる諸研究を含め、かなりの証拠により、人々の中に潜む一つの自分からもう一つの自分へと本当に交替する人々がいることが示唆されている。
その場合のそれぞれの自分は、異なった記憶と人格を持っているのだ。・・・
多くの心理学者達と哲学者達は、解離性同一性障害は、正常な<個人における自分の>複数性の一つの極端な形であると論じてきた。・・・
・・・スタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram)によって1960年代に行われた・・現在では非倫理的過ぎて行うことはできない・・古典的な諸実験<(コラム#1303)>によって、正常な人々が、見知らぬ人に対し、彼等が権威ある科学者と信じた人物によって指示された場合は、電気ショックを与えるに至ることが示された。・・・
・・・最も普通の楽しみ(leisure activity)は、セックスでも、食事でも、飲むことでも、ヤクの使用でもないし、社交でも、スポーツでも、我々が愛する人々と一緒に過ごすことですらない。
それは、遠写しで(by a long shot)、我々が真実ではないと知っている経験・・映画やTVを鑑賞する、白日夢を見る、等々・・に参加することだ。・・・
・・・<また、自分の>他のアイデンティティーを探求することは、インターネットが発明された目的のように見える。
<ある>社会学者は、人々によく見られるのは、アバターを創り出し、比較的安全な環境の中で他の諸選択肢を探求することであることを発見した。・・・
・・・結婚満足度に関する諸調査は、カップルは最初のうちはおおむね幸せだが、子供を持つとより幸せでなくなくなり、子供達が家を去ると再び幸せになることを示している。・・・
・・・明敏な人々が、彼らの道徳的に申し分のない直感的感情を無視して、彼等が採用した注意深く考え出された信条体系によって認められているとして悪しき行為を行うこともある。
<例えば、かつての>多くの奴隷所有者達は理性的な人々だったが、彼等の知力を奴隷制を擁護するために用いた。
<彼等は、>この制度は、奴隷になった連中の利益に最もなると論じ、それは聖書に根拠がある・・アフリカ人はハム(Ham)の子孫であって神によって、「召使い達の召使い達」となれ、と非難された・・と論じたのだ。
<また、>自爆テロのようなテロリスト的行為は、典型的ケースについて言えば、感情的熱狂の下に実行に移されるわけではない。
それは、深く抱かれた信条体系と長期的熟慮的計画の帰結なのだ。
<もう一つあげよう。>
合理性(rationality)がねじ曲がった最もおぞましい例の一つがロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)のナチスの医者達についての論だ。
これらの男達は、長年にわたって意図的に自分達を自分達の感情から遠ざけるように行動した。
そうして、リフトンが描写するところの、「アウシュヴィッツ的自分」を創造することによって、彼等は、いかなる正常な生来の人間としての親切心をも彼等の仕事を妨げないようにしたのだ。
私としては、彼のふるまいが短期的な自分によって支配されている人の隣に住みたくはないし、私自身、そんな人物になりたいとも思わない。
しかし、もう一つの方向に行きすぎた人々も何かが間違っているのだ。
我々は、知的にも個人的にも、異なった自分の間のやりとり、長期的熟考と短期的衝動との均衡、から便益を受けるのだ。・・・」(D)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
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