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太田述正コラム#3371(2009.7.2)
<バイロンの短く激しい生涯(その1)>(2009.11.3公開)
1 始めに
英国の詩人のバイロン(George Gordon Byron, later Noel, 6th Baron Byron。1788〜1824年)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Gordon_Byron,_6th_Baron_Byron
の名前くらい聞いたことがある人は多いでしょう。
このたび、アイルランドの女性作家のエドナ・オブライエン(Edna O'Brien。1930年〜)
http://en.wikipedia.org/wiki/Edna_O'Brien
がバイロンの伝記、'Byron in Love: A Short Daring Life'を上梓しました。
この本のいくつかの書評を手がかりに、バイロンの短く激しい生涯を紹介しましょう。
2 バイロンの激しく短い生涯
「・・・オブライエンは、彼女自身、情熱的かつ偶像破壊的な作家であって、若い頃に書いた性的に赤裸々な「Country Girls」という小説シリーズは、彼女の生まれたアイルランドで1960年代に初めて出版された時に発禁となり燃やされた。・・・
<そんな彼女は、バイロンの伝記の著者としてはうってつけだと言えるだろう。>
バイロンが捨てた沢山の愛人の一人であるキャロライン・ラム(Caroline Lamb)夫人は、バイロンのことを「狂っていて、悪漢で、知り合うだけで危険」な男と呼んだ。
オブライエンが描くように、バイロンは、才気のある、魅力一杯の怪獣のような、かつ傲慢な男だった。飽くことを知らない両刀使いの誘惑者であり、近親相姦的不倫者であり、吝嗇であり、驚くほど独創性があり、人気があり、悪漢視された詩人だった。また、狂っていて子供の面倒をみない父親だった。情熱的な旅行家でもあった。そして、寛大な友人でもあった。彼はナポレオンを偶像視し、ギリシャを愛した。
オブライエンは記す。「バイロン的(Byronic)という言葉は、今日に至るまで、異常性(excess)、悪魔的所行、そして国王も庶民もお構いなしの叛乱的言葉遣い、といった意味を持つ。バイロンは、他のいかなる詩人よりもずっと、詩人が叛乱的で、想像力豊かで無法者であることを体現している」と。
ジョージ・ゴードン・バイロンは、<スコットランド国王>ジェームス1世<(1394〜1437年)>・・・の子孫である22歳のスコットランド人女性・・・キャサリン・・・の息子として1788年にロンドンで生まれた。
バイロンが生まれた時には、キャサリンの放浪者たる夫、「狂った(Mad)ジャック」バイロンは、彼女のカネを使い尽くし、借金で投獄されることを回避するためにフランスに既に逃亡していた。・・・
「狂ったジャック」は、以前の結婚でバイロンの姉をつくっていたが、この母親違いの姉は、間違いなくバイロンの生涯における最愛の相手になることになる。
1798年に「ワル(Wicked)殿様(Lord)」バイロンとして知られた大伯父が死ぬと、バイロンは10歳で第六代バイロン卿となり、ニューステッド(Newstead)の12世紀に建てられたゴシック様式の廃屋のような邸宅を相続した。
彼が殿様として臨んだうちの一人が彼の魅力のない母親だった。
オブライエンは、「彼の彼女に対する要求は息子としてのものではなく、暴虐な夫としてのものだった」と記している。
この新しい地位にふさわしく、彼はハロー寄宿学校に通い、それからケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに入学する。
彼は、そこで、15歳の聖歌隊の男の子と禁じられた関係になる。
・・・男色の嫌疑がかけられると投獄されてしまう。
そこで彼は、ロンドンから、そして更に海外へと学位をとることなく、逃亡する。・・・
バイロンは「君主のように生きようと決心した」ことから、金貸し達から次から次へと借金をする必要が生じ、常に借金漬けだった。
こんな危うい財政状況だったというのに、彼は気前よくも、彼の最も成功した「Childe Harold」を含む出版物からあがる収入のすべてを彼の編集者達や出版者達に譲渡してしまい、この状況を更に悪化させた。・・・
<こういった背景の下で>出現したのは、熱烈な書簡体の愛の人だった。彼は、彼自身よりも紙の上でよりロマンティックだった。
彼が、夫のいる母違いの姉への情熱を克服するために、愚かにも廉直なアナベラ・ミルバンク(Annabella Milbanke)・・後にバイロンのひどい仕打ちに対して復讐を企てることになる・・と結婚したように、うまくいかなくなった恋愛沙汰から次々に逃げるというのが彼の習慣となった。
彼は大勢の女性を苛め破滅させたが、とりわけ彼が悪いことをしたのがメアリー・シェリー(Mary Shelley)(コラム#71)のまま姉妹のクレール・クレアモント(Claire Clairmont)だった。
彼は、二人の間にできた子供の完全な親権を得るのに固執した挙げ句、イタリアの修道院にその子を置き去りにし、そこでその子は5歳で亡くなってしまう。
彼は、にっちもさっちもいかなくなると、1816年もそうだったが、イギリスから逃亡した。
彼は、最後の8年間を海外で過ごした。そのうちの何年かを過ごしたのはイタリア<のヴェニス>であり、最後にはギリシャをトルコから救出するための軍事的活動を開始する。
彼は、熱病にかかり、1824年に独立戦争最中のギリシャで亡くなる。
既に最盛期を36歳にして過ぎていた彼は、その地で、求愛した少年に拒絶されている。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/06/17/byron-in-love/
(6月19日アクセス)
(続く)
<バイロンの短く激しい生涯(その1)>(2009.11.3公開)
1 始めに
英国の詩人のバイロン(George Gordon Byron, later Noel, 6th Baron Byron。1788〜1824年)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Gordon_Byron,_6th_Baron_Byron
の名前くらい聞いたことがある人は多いでしょう。
このたび、アイルランドの女性作家のエドナ・オブライエン(Edna O'Brien。1930年〜)
http://en.wikipedia.org/wiki/Edna_O'Brien
がバイロンの伝記、'Byron in Love: A Short Daring Life'を上梓しました。
この本のいくつかの書評を手がかりに、バイロンの短く激しい生涯を紹介しましょう。
2 バイロンの激しく短い生涯
「・・・オブライエンは、彼女自身、情熱的かつ偶像破壊的な作家であって、若い頃に書いた性的に赤裸々な「Country Girls」という小説シリーズは、彼女の生まれたアイルランドで1960年代に初めて出版された時に発禁となり燃やされた。・・・
<そんな彼女は、バイロンの伝記の著者としてはうってつけだと言えるだろう。>
バイロンが捨てた沢山の愛人の一人であるキャロライン・ラム(Caroline Lamb)夫人は、バイロンのことを「狂っていて、悪漢で、知り合うだけで危険」な男と呼んだ。
オブライエンが描くように、バイロンは、才気のある、魅力一杯の怪獣のような、かつ傲慢な男だった。飽くことを知らない両刀使いの誘惑者であり、近親相姦的不倫者であり、吝嗇であり、驚くほど独創性があり、人気があり、悪漢視された詩人だった。また、狂っていて子供の面倒をみない父親だった。情熱的な旅行家でもあった。そして、寛大な友人でもあった。彼はナポレオンを偶像視し、ギリシャを愛した。
オブライエンは記す。「バイロン的(Byronic)という言葉は、今日に至るまで、異常性(excess)、悪魔的所行、そして国王も庶民もお構いなしの叛乱的言葉遣い、といった意味を持つ。バイロンは、他のいかなる詩人よりもずっと、詩人が叛乱的で、想像力豊かで無法者であることを体現している」と。
ジョージ・ゴードン・バイロンは、<スコットランド国王>ジェームス1世<(1394〜1437年)>・・・の子孫である22歳のスコットランド人女性・・・キャサリン・・・の息子として1788年にロンドンで生まれた。
バイロンが生まれた時には、キャサリンの放浪者たる夫、「狂った(Mad)ジャック」バイロンは、彼女のカネを使い尽くし、借金で投獄されることを回避するためにフランスに既に逃亡していた。・・・
「狂ったジャック」は、以前の結婚でバイロンの姉をつくっていたが、この母親違いの姉は、間違いなくバイロンの生涯における最愛の相手になることになる。
1798年に「ワル(Wicked)殿様(Lord)」バイロンとして知られた大伯父が死ぬと、バイロンは10歳で第六代バイロン卿となり、ニューステッド(Newstead)の12世紀に建てられたゴシック様式の廃屋のような邸宅を相続した。
彼が殿様として臨んだうちの一人が彼の魅力のない母親だった。
オブライエンは、「彼の彼女に対する要求は息子としてのものではなく、暴虐な夫としてのものだった」と記している。
この新しい地位にふさわしく、彼はハロー寄宿学校に通い、それからケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに入学する。
彼は、そこで、15歳の聖歌隊の男の子と禁じられた関係になる。
・・・男色の嫌疑がかけられると投獄されてしまう。
そこで彼は、ロンドンから、そして更に海外へと学位をとることなく、逃亡する。・・・
バイロンは「君主のように生きようと決心した」ことから、金貸し達から次から次へと借金をする必要が生じ、常に借金漬けだった。
こんな危うい財政状況だったというのに、彼は気前よくも、彼の最も成功した「Childe Harold」を含む出版物からあがる収入のすべてを彼の編集者達や出版者達に譲渡してしまい、この状況を更に悪化させた。・・・
<こういった背景の下で>出現したのは、熱烈な書簡体の愛の人だった。彼は、彼自身よりも紙の上でよりロマンティックだった。
彼が、夫のいる母違いの姉への情熱を克服するために、愚かにも廉直なアナベラ・ミルバンク(Annabella Milbanke)・・後にバイロンのひどい仕打ちに対して復讐を企てることになる・・と結婚したように、うまくいかなくなった恋愛沙汰から次々に逃げるというのが彼の習慣となった。
彼は大勢の女性を苛め破滅させたが、とりわけ彼が悪いことをしたのがメアリー・シェリー(Mary Shelley)(コラム#71)のまま姉妹のクレール・クレアモント(Claire Clairmont)だった。
彼は、二人の間にできた子供の完全な親権を得るのに固執した挙げ句、イタリアの修道院にその子を置き去りにし、そこでその子は5歳で亡くなってしまう。
彼は、にっちもさっちもいかなくなると、1816年もそうだったが、イギリスから逃亡した。
彼は、最後の8年間を海外で過ごした。そのうちの何年かを過ごしたのはイタリア<のヴェニス>であり、最後にはギリシャをトルコから救出するための軍事的活動を開始する。
彼は、熱病にかかり、1824年に独立戦争最中のギリシャで亡くなる。
既に最盛期を36歳にして過ぎていた彼は、その地で、求愛した少年に拒絶されている。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/06/17/byron-in-love/
(6月19日アクセス)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/