太田述正コラム#3365(2009.6.29)
<バターン死の行進(その2)>(2009.11.2公開)

 「・・・<バターン死の行進>は、<行進させられた者達にとって、>日本の捕虜として待ち構えていた恐怖の単なる始まりでしかなかった。
 過熱した貨車での死ぬような列車での旅、見かけだけの捕虜収容所と死にかけている男達で一杯の病院、「瓶に詰め込まれた漬け物」のような輸送船の中への積載、死の行進と同じ類の次から次への作業、といった話が語り継がれている。
 死ななかった多くの男達は単に頭がおかしくなった。
 <この本の中には>日本人の声もたくさん登場する。
 ノーマン夫妻は、日本がやったことを許しはしないが、それを注意深いコンテクストの中に置く。
 日本の兵士達は、「世界で最も暴力的な軍隊規律の下で暴力の閉ざされた世界の中に置かれていた」と彼等は記す。
 これらの兵士達は、「野蛮な意図を持った軍隊をつくるべく野蛮化されたのだ」と。・・・
 ・・・夫妻は、フィリピンにおける日本軍の司令官であった本間雅晴将軍には同情的だ。
 彼の戦争犯罪人としての1946年の裁判と処刑はどれだけ帝国陸軍が、本間もそのうちの一人であったところの上級士官達を、熱狂的な右翼が脅迫することによって、異常なこと(excesses)に駆り立てられたかを示すものだ。
 しかし、最近の他の批判者達と同様、彼等は、米国で1942年にユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant)以来の米国の軍事的英雄と称えられた(注1)ところの、フィリピンにおける米側の司令官であったダグラス・マッカーサー将軍に対してはほとんど尊敬の念を示さない。

 (注1)「・・・真珠湾攻撃の屈辱に沈むアメリカで、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」というニュースは国民を勇気付け、マッカーサーは英雄となった・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1941-1942%E5%B9%B4)(フィリピンの戦いに係る日本語ウィキペディア)

 著者達に言わせると、1月15日、マッカーサーは、彼のバターンの弱り果てた部隊の士気を高揚させるために、米国から部隊と航空機が来援する途上にあると言明した。
 「それはウソであり、ユダの<イエスに対する>接吻だった」と彼等は記す。
 「フィリピンは切り捨てられたのだ。ワシントンはそのことを知っていたし、マッカーサーも同様だった」と。・・・」
http://www.kansascity.com/402/story/1252389.html

→ソ連軍等と戦ったことがない、著者夫妻等の米国人インテリには、最近の軍隊の中では日本の旧軍が世界で最も暴力的であるように見えるらしい点はご愛敬ですが、それはともかく、ニューヨークタイムスの書評子よりは、この「田舎」新聞(失礼!)の書評子の方がよほどまともです。(太田)

 「・・・<バターン死の行進>は10,000人以上の死をもたらしたが、<捕虜達に対しては、>それから何年もの飢餓、奴隷労働、拷問、疾病、そして絶え間ない殴打が続くことになった。・・・
 著者達は、捕虜達の無検閲の話を紹介するとともに、日本側からの回想も盛り込んでいる。後者については、読者の中には不愉快に思う者もいるだろう。
 また、彼等はいくつかの鋭くかつ詳細な批判を米国の司令官のダグラス・マッカーサーについて記している。
 これもまた、<読者の間で>否定的な反応を引き起こしてきたところだ。・・・」
http://www.nashvillecitypaper.com/content/lifestyles/new-book-takes-chilling-look-bataan-death-march-and-its-aftermath

→この「田舎」新聞の書評子のスタンスは、上記書評子とニューヨークタイムスの書評子の中間といったところでしょうか。(太田)

→既に何度か引用した英語ウィキペディアから、最後にもう一度引用しておきましょう。(太田)

 「・・・1942年4月9日、バターンの戦いの最終場面において、・・・約76,000人のフィリピンと米国の部隊が・・・54,000人の日本軍に降伏した。・・・
 日本側は、戦闘がまだ続くと考えており、約25,000人の捕虜が出るものと予想していた。
 だから、彼等は準備不足でもあったし、予想のほとんど3倍にも達した捕虜達を人道的に輸送する気も起きなかったわけだ。・・・
 1945年に日本が降伏すると、連合国は、バターン死の行進という残虐行為、及び、それに引き続くキャンプ・オドンネル(Camp O'Donnell)とカバナツアン(Cabanatuan)<両収容所>における残虐行為等の戦争犯罪で本間将軍に対して有罪を宣告した。
 将軍は、バターンが陥落した後、コレヒドールを落とすことに努力を傾注しており、彼は死の行進の犠牲者数をその2ヶ月後まで知らなかったと弁明した。
 彼はマニラの郊外で1946年4月3日に処刑された。
 理由は定かではないが、連合国は戦争犯罪で<バターン死の行進の首謀者である>辻政信は起訴しなかった。・・・」(バターン死の行進に係る英語ウィキペディア前掲)

3 終わりに

 第二次世界大戦参戦直後の米陸軍は、極めて準備不足でした。
 「北アフリカでの戦いにおいて、米軍の未熟さと臆病さは英軍を呆れさせ、彼らは米軍を「我がイタリア人達」と呼んだ」(コラム#1830)のを思い出して下さい。
 フィリピンの米比軍も同様であったと思われます。
 欧州派遣米軍と違って、フィリピンとの混成軍であったことも理由にはなりません。
 第二次世界大戦の時、英国は大英帝国の自治領や植民地の部隊を束ねて最初から健闘しています。
 他方、日本軍は、満州や支那での戦いで鍛え上げられていました。ただし、それは特殊な戦いであり、満州や支那での戦いは戦争ではなく事変であり、物資を基本的に現地調達でき、かつまた、相手が匪賊や、国際法順守意識が高かったとはお世辞にも言えない国民党軍や中国共産党軍が中心であったために、更にはまた、下克上の気風が陸軍等において充ち満ちていたこともあり、国際法順守意識は弛緩し規律も厳正とは言えませんでしたし、兵站も軽視されがちでした。
 こんな米比軍と日本軍が初めて地上において相まみえた結果が、攻めていた日本軍よりも大兵力の米比軍(注2)、しかも日本軍より損害が少なかった米比軍(注3)が、あっけなく降伏してしまったわけであり、このために死の行進という悲劇が起こってしまったわけです。
 
 (注2)在フィリピン総兵力で見ても、日本軍:43,110、米比軍:米軍 22,532(うち、米本国の兵士は8,500)、フィリピン軍 120,000。(フィリピンの戦いに係る日本語ウィキペディア前掲)
 なお、各書評の中に登場する数字と食い違いがあるが、詮索しないことにする。
 (注3)フィリピンの戦い(後の米国によるフィリピン奪回作戦とは違うので注意)での全損害は、日本軍:戦死 4,130、行方不明 287、戦傷 6,808 米比軍:戦死 2,500、戦傷 5,000、捕虜 83,631。(日本語ウィキペディア上掲)

 それにしても、米国民一般の対日戦争観の正常化への歩みは、遅々たるものがあるようです。

(完)