太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#3525(2009.9.15)
<友人の効用(続)(その2)>(2009.10.19公開)

 「・・・最も不思議な発見は、ふるまい<の伝播>はリンクを飛び越えることができるという観念だ。
 つまり、彼等をつなげている人に影響を及ぼすことなく、友人の友人へと広まることがあるということだ。
 <こんなことがどうして可能か、まだきちんとは分かってはいない。>
 ただ、あなたの職場での友人達が肥満になったとして、あなた自身の体重が増えなくても、あなたは肥満を正常な状態としてより受け入れやすくなったかもしれず、かかる信号をあなたの家族に無意識下に伝播するかもしれず、そうすると彼等は自分達自身の体重が増加することに一種の許可を得たと感じるかもしれない。あなたからの一種の検閲に直面することがないことを知って・・。
 我々が三次の関係の人々にまで影響を及ぼす能力があることについては、そして人間の社会的ネットワークの形そのものについても、進化的背景(roots)があるのかもしれないとも・・・考えられる。
 緊密につながりあった部族集団はそうではない部族集団に比べて正の様々なふるまいを継承していくことがより可能であったと考えられる。
 ・・・社会的感染は利他主義の存在すら説明できるかもしれない・・・。
 もしも我々が利他主義をネットワークの遠い結節点にまで伝達することができるとすれば、利他的な人々が、彼等のコミュニティーの他の構成員達によって単につけ入れられてばかり、ということにはならない理由を説明することに役立つだろう。・・・
 
 <以上のような発見に対しては、>少なくとも二つ、他の説明が可能であるとの意見がある。
 一つは「同種親和性(homophily)」、すなわち、人々は自分達と似通っている人々の方に引力によって引き寄せられていく、というものだ。
 体重が増加しつつある人々は他の同じように体重が増加しつつある人々と一緒にいることを好むのかもしれず、また同様に、幸せな人々は他の幸せな人々を求めるのかもしれない、というわけだ。
 もう一つの考えられる説明は、集団内での・・・人々の変化を引き起こしているのは、社会的感染ではなく、彼等が共有しているところの環境である、というものだ。・・・
 <しかし、>人々が引っ越しをして行っても、彼等の体重の増加は引き続き<元住んでいた州の>友人達に影響を及ぼし続けるように見えた。
 このようなケースに関しては、地域的環境では<、とどまっても引っ越しをしても、>どちらにおいても<友人達の>体重の増加をもたらすことを説明できない。・・・

 <また、>友情はいつも対称的とは限らない。
 例えば、スティーヴンがピーターを友人であると名指ししても、ピーターはスティーヴンのことを同じようには考えていないかもしれず、スティーヴンを友人とは決して名指ししないかもしれない。
 ・・・この「方向性(directionality)」は、大きな意味を持っていることが発見された。
 ・・・<まず、>仮にスティーヴンが肥満になったとしても、ピーターには何の影響も及ぼさない。ピーターは、スティーヴン親しいな友人とは考えていないからだ。
 反対に、仮にピーターの体重が増大するとスティーヴンが肥満になるリスクは100%近く増大する。
 そして、もしこの二人の男性がお互いに友人だとみなしている場合は、その効果は巨大であり、一方の体重が増大するともう一方がそうなるリスクは3倍近く高まる。・・・
 ここからも、<共通の>環境が・・・太らせているはずがない。なぜなら、環境はこれらの友人達に等しく影響するはずだからだ。・・・
 
 <これを検証するために行われた一卵性双生児を対象とする研究によると、>つながり度の違いのほとんど半分・・46%・・がDNAによって説明できる<ことが判明した。>・・・
 もっと不思議なことに、一卵性双生児達は、同じくらいの「他動性(transitivity)」を持つ傾向がある。
 すなわち、彼等の友情集団の相互つながり度・・互いに知っている友人達の数・・はびっくりするくらい似通っていた。
 一般的に言って、・・・最も緊密に凝集した人々はうまくやっている・・より健康、幸せ、そして豊かですらある・・傾向があった。(良いつながりを持つ人々がより収入が多いことが、他の様々な経済に係る諸研究によって発見されつつある。)・・・
 
 <このような>社会的ネットワーク科学は、究極的には、昔からある論点、すなわち、我々はどの程度自律的な(autonomous)個人なのか、に新しい展望を与える。
 「仮に誰かが良いことをするのは単に彼等が他人達<のふるまい>を写し取っているだけだとすれば、そしてまた、仮に彼等が何か悪いことをするのも単に彼等が他人達<のふるまい>を写しとっているだけだとすれば、彼等はどの程度褒められるべきか、或いはどの程度非難されるべきか、<分からなくなってしまう>。・・・
 ・・・厳格な功利主義的観点からは、我々は良くつながった個人達に対し、<例えば、>よりよい医療を与えるべきだということになる。
 というのは、彼等は諸便益を感染的に他の人々により伝播させる可能性が高いからだ。・・・
 ・・・このようなネットワーク<科学>の意味するところは二様だ。
 すなわち、それは我々の自由意思など余り重要ではないということになる、とも言えるけれど、もしあなたがそう思うのなら、我々が自由意思を持つことがますます重要になったことになる、とも言えるのだ・・・。
 ・・・もしあなたが自分の良いふるまいによって世界を改善したいと欲するのであれば、数学はあなたの味方だ。
 というのは、我々の大部分は、三次まで勘案すれば、<1人が平均して>1000人以上の人々とつながっているからだ。
 その大部分に対して、我々は、理論上、我々の感染的模範を示すことによって、より健康、元気(fit)、そして幸せにすることを助けてあげることができるのだ。
 ・・・もし誰かがあなたに、あなたが1000人の人々に影響を及ぼすことができると伝えたとすれば、あなたの世界の見方は変わるに違いない・・・。」


3 終わりに

 我々が人間(じんかん)的存在であることは、ほぼ証明されたと言って良いでしょう。
 我々は、文字通り、友人達によって生かされているわけです。

 さて、我々が危機において人間主義的に行動する傾向があることは、既にソルニット(コラム#3491(未公開)、3506、3524)によって示されています。
 これに加えて、平時においても、我々は人間主義的(利他的)に行動すれば、我々の友人達の少なからざる部分もまた人間主義的に行動するようになることとなり、回り回って、最初に人間主義的に行動した人々も必ずしも損をするとは限らない、ということもまた、このシリーズで紹介した研究によってほぼ明らかになったと言えるでしょう。
 ですから、少しでも余裕のある方は、「自由意思」に基づき、勇気を持って人間主義的行動をとろうではありませんか。
 友人のネットワークが充実している方であればなおさらです。
 このような人間主義的な小さな犠牲の積み重ねのおかげで、世の中は、少しずつ「進歩」してきたのだ、と言えるのではないでしょうか。
 
(完)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/