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太田述正コラム#3398(2009.7.16)
<皆さんとディスカッション(続x541)>
<南>
まず最初に英語版ウィキペディアについて。
太田さんは英語版ウィキペディアが信頼できるとという前提で引用されているようですが、少なくとも内陸アジア史に関する英語版ウィキペディアの記述はレベルが低いです。
少なくとも日本語版よりも信頼できるということはありません。
言語分野は専門家が多少いますが、歴史系は素人が好き勝手に書いています。
できれば他のまともな資料を参照するようお願いします。
ウィキペディアの記事を引用されますと、本筋でないところまでツッコミを入れる誘惑にかられてしまいます。
<太田>
私の父親は、戦前、商社員としての勤務先が支那であったこと、現地召集で先の大戦において支那で日本軍の将校を務めたこと等から、父親の蔵書に諸子百家から始まる支那に関する思想、文学書や地誌書や歴史書が多く、私も自然にこれらに目を通したり支那関係の本を求めるようになり、私自身、かなりの支那通であると思っています。
現在、これらの本を近くに置いていないのと、「ディスカッション」シリーズには余り手間をかけられないこともあり、「ディスカッション」で支那について論じる場合は、その都度典拠にはあたっていません。
しかし、それでは年代等細部において誤りなきを期し難いので、原則英語ウイキペディアで私の記憶を検証するよう努めている、ということです。(読者の便宜にもなりますからね。)
私が、日本語ではなく英語ウイキペディアに原則拠っているのは、とにかく、より詳細に記されているからです。
あなたも支那通でいらっしゃるようですが、これまでのやりとりを通じ、失礼ながら、ご記憶の検証が必ずしも十分でない場合があるという印象を受けました。
<南>
さて、議論が拡散してしまっていますが、最大の争点は、新疆省設置以前の清の新疆支配の性格かと思います。
新疆支配の性格以前に、そもそも清朝の統治体制の構造に関する太田さんの認識が怪しいのですが、この問題は私の手に余るところです。
とりあえず前出の『清朝とは何か』でも読んでくださいとお願いしておきます。
引用されたウィキペディアの清朝 (Qing Dynasty) の記事は、支那の支配について述べているだけで、モンゴル人やトルコ人の支配については何も言っていません。
記事を書いてるのが中国人ばかりなのでどうしようもないです。
「この征服を支えた官僚機構の担い手の大部分は漢人(前述)でした」という主張が、どうして漢人の新疆支配の根拠となるのか不明です。
清の帝国経営は、支那から吸い上げた富を藩部にばらまくことで維持されていました。
しかし、ばらまいていたのは満洲人の皇帝なわけで、漢人は関係ないですよね?
ちなみに、中央で藩部の事務を行っていたのは理藩院ですが、これは明にはない清独自の機関です。
そして、理藩院のポストは旗人、それも八旗満洲と八旗蒙古によって占められていました。
<太田>
より正確には、清においては、皇帝はもちろん満州族ですが、漢人に関する行政は基本的に満州族と漢人が責任を負う形で行い、非漢人に関する行政は基本的に蒙古族が責任を負う形で行った、ということではないですか。↓
「・・・中国内地を統轄する機関の重要官職には満洲缺<(ポスト)>と漢人缺が設けられ,・・・これに対し、藩部を統轄する中央の機関である理藩院の尚書(長官)・侍郎(次官)の職は蒙古缺とされ<た。>・・・。また,尚書・侍郎の下で実務処理を担当する郎中・員外郎・主事等についても,中国内地の統轄機関では満洲缺が多数設けられたのに対し,蒙古缺はほんのわずかしか存在しなかった。しかし理藩院郎中・員外郎・主事の職は,満洲旗人が任用されるケースもあったが,基本的には蒙古缺であった。これらの事実は,清朝が満洲旗人を中国内地の統治の担当者,蒙古旗人を藩部統治の担当者と位置づけていたことを示している。・・・」
http://74.125.153.132/search?q=cache:9jVbN1ScT2YJ:matsushita-kokusai-z.or.jp/zaidan/ajisukalist/2001/01-005.pdf+%E7%90%86%E8%97%A9%E9%99%A2&cd=23&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
いずれにせよ、蒙古族がすべての行政について責任を担ったところの元・・しかも元は全く漢化しなかった。だからこそ、元は「漢人的」王朝とは言えない!・・と清とは違う、ということです。
<南>
藩部の現地の支配については、清朝は、既に述べたように、従来の統治機構を大きく変えずに温存しました。
新疆のオアシス都市では、現地の有力者がベグとよばれる官吏に任命されて行政にあたっていました。
また、漢人が藩部に移住することは原則として禁止されていました。
もちろん、細かい話をすれば、漢人の人口爆発を背景に、隣接する甘粛・陝西から東路へ植民が行われましたが、人口構成が激変する規模のものではありません。
さらに、中央から派遣された官吏や軍隊は、現地人との接触を避けて離れた場所に駐屯していました。
新疆の古い地図を見れば、主要都市には城壁に囲まれた町が二つあるのが確認できると思います。
そういうわけで、トルコ系の平民や知識人は、漢語や儒教と無縁で、辮髪も禁止され、支那とは別の法体系のもとにありました。
要するに、新疆は、支那の一部になったのではなく、支那と別に帝国の版図になったと考えるのが自然です (モンゴルやチベットにも同じことが言えます)。
後になって帝国を乗っ取った漢人が、藩部を当然のように自分の領土と考え、さらにその認識を過去に投影して、「漢代から中華に属すわが領土だ」と言いだしたわけです。それにまんまと引っ掛かる人が日本にまでいるのは残念なことです。
<太田>
だけどそれは、清以前の歴とした漢人王朝における女真人地域、契丹人地域(後述)、蒙古人地域等の支配形態と基本的に同じでありませんか?
清とは、これら地域に関する行政を行ったのが漢人であった、という点で異なっていますがね・・。
ところで、
>まんまと引っ掛かる人が日本にまでいる
ってひょっとして私のことですか?
それじゃ、あえて更に刺激的な話をしましょう。
以下を読まれた上で、改めてご感想をお聞かせ下さい。
これまで漢人(基本的に農耕民)と非漢人(基本的に遊牧民)とを区別して論じてきましたが、濃淡はあるものの、漢人そのものが遊牧民との混淆的存在である
http://books.google.co.jp/books?id=jqb7L-pKCV8C&pg=PA199&lpg=PA199&dq=A+history+of+Chinese+civilization%3BMongolia+and+Central+Asia&source=bl&ots=VRPE6MNKCw&sig=TOTx7jaDGUjUXBNJLRls-ZqLA18&hl=ja&ei=ysxeSrKIDKTm6gOaxdSSCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2
ことを忘れてはならないでしょう。(英語の典拠で失礼!)
この程度の話を裏付けるのであれば、日本語ウイキペディアで十分です。
「西戎(せいじゅう)あるいは戎(じゅう)は・・・チベット系ともテュルク系ともいわれる・・・古代中国の西方にいた遊牧民族・・・秦は元々戎の一派であるという説もある。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E
「鮮卑・・・は中国北部に存在していた遊牧騎馬民族。魏晋南北朝時代には南下して中国に北魏などの国を建てた
。・・・鮮卑は・・・言語学的にはモンゴル語系統という定説が根強いが、同時にテュルク系とツングース系との混血とする説もかなり有力である。
・・・鮮卑<の>六つの部族(氏族)<の一つである>拓跋部の北魏<が>439年に華北を統一し、これ以降は南北朝時代となる。
その後隋の楊堅により中国が統一されるが、楊堅は<上記六つの部族の一つである>宇文部が立てた北周の外戚であり、自身も鮮卑の出身である可能性がある。
同じく北周の貴族であった唐の<高祖>李淵もまた鮮卑出身である可能性が考えられる。
北斉の高歓については、漢化した鮮卑系の可能性が高いとされるが、鮮卑化した漢人という説もある。・・・
隋統一後の鮮卑族は漢民族に同化して行き、民族としてのまとまった動きは見せなくなった。・・・」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
この関連で興味深いのが契丹(遼)です。
「契丹・・・は満州から中央アジアにかけて存在した遊牧民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。
しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。
契丹人の一部は女真に取り込まれ、また一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ=キタイ)を建てた。
『魏書』によると契丹、高句麗、室韋、庫莫奚、豆莫婁(扶余の後継国家)の言語が同じとされる。
種族としては諸説がある。定説ではモンゴル系とされる。あるいはツングース・テュルクに近い種族という見方もある。・・・
金滅亡後はチンギス・ハーンの下で漢人に組み入れられた。元来遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中にモンゴル帝国に仕えた耶律楚材がいる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
この遼の二重の統治機構は、後の清のそれとよく似ています。
ここも英語文献で失礼しますが、下掲↓の引用の中に出てくる「北院」の統治機構は清の「理藩院」とよく似ていますし、「南院」の統治機構は清の漢人統治機構とよく似ています。
・・・The Khitan(契丹) chose their Great Khan(大汗), or khaghan, at triennial councils(3年ごとに開かれる会議). ・・・ However, Abaoji(阿保機)’s successes resulted in his rising status among the Khitan.・・・Abaoji introduced a revolutionary new system of governing both nomadic(遊牧的) and sedentary(農耕的) populations simultaneously. His concept was to divide the empire into two sections called Chancelleries. The Northern Chancellery (北院) consisted of nomadic steppe peoples, including the Khitan and conquered steppe tribes. The Southern Chancellery(南院), by contrast, included territories incorporated into Khitan domains that was populated by Chinese(漢人) and the people of Balhae(渤海).
The Northern Chancellery was run on a steppe military model. Abaoji was known as the Great Khan of the Northern Chancellery. The entire steppe population was constantly mobilized, ready for military action should it be required. The Khitan language(契丹語)・・・was the official language of the Northern Chancellery. The Xiao family, the consort family to the new imperial family, would govern the North.
The Southern Chancellery was run on a civil model. Here Abaoji served as an emperor(皇帝) more in line with the Chinese model of leadership. The vast majority of the administrative work was done by the sedentary populations themselves under the leadership of Abaoji’s family, who at some point adopted the surname Yelu(耶律). Chinese(支那語) was the official administrative language of the region. The Southern Chancellery even adopted the Tang(唐) practice of competitive civil service examinations(科挙) to staff the various bureaucracies of government required to govern a large sedentary population. However, due to suspicions over this overtly Chinese system, initially small numbers of jinshi(進士) degree holders were actually appointed to government posts. Loyalty, a holdover of common steppe practices, was still a more important means of appointment, even in the Southern Chancellery.・・・
In 916, Abaoji began his attempt to institute another stabilizing innovation, borrowing the Chinese notion of primogeniture(長子相続制). He named his eldest son, Prince Bei, heir apparent, a first in the history of the Khitan. ・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Liao_Dynasty
この遼は、北宋の北に位置していましたが、私は遼を、清の先達的な漢人的王朝と考えています。
この遼は女真族の金に滅ぼされ、金と南宋が並立する時代になりますが、金は急速に漢化して行きます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
長くなったので、後は簡単にしましょう。
「女真<族>は、・・・主に狩猟採集・牧畜・農耕に従事し」た半遊牧民」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9C%9F
であるところ、「・・・<1626年に後金初代の皇帝のヌルハチは亡くなるが、>生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子ホンタイジ・・・が後を継ぐことになった。・・・後継者を定めなかったの<は>、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81
と、清と名乗る直前の後金の頃まで、女真族では遊牧民的な首長選定方式が受け継がれていたことが分かります。
要するに私が何が言いたいかというと、もともとは遊牧民たる蒙古族、鮮卑族、契丹族、女真族(ただし半遊牧民)更にはウイグル族といった漢人王朝と密接な関わりを持った諸民族について、広義の漢人と見ることもあながち不可能ではない、ということが第一点です。(現在のモンゴル共和国の蒙古族もそうか、という問題には立ち入らない。)
(仮にそうだとすると、「・・・西遼・・・は、1132年から1211年までトルキスタンに存在した国・・・。1125年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が西に逃れて建てたのでこう呼ばれる。・・・<西遼は、>天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ、中継貿易で栄えた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%81%BC
という西遼(カラ=キタイ)の歴史も支那史、より端的には漢人史の一環であると言えないこともない、ということになりましょうか。)
また、かねてより累次申し上げてきたことですが、支那もその遊牧民的な歴史においては、若干なりとも民主主義的要素を見いだすことができる、と思われたでしょう。
中共が、北朝鮮のような血縁による首長継承制に堕さなかったのは、かかる歴史があったからこそではないか、と私は見ており、この伝統を掘り起こすことで、中共が今後自ら民主主義化する可能性がないわけではない、というのが第二点です。
<ΙΑΑΙ>(「たった一人の反乱」より)
それにしても隣で核兵器開発やってる敵対的な独裁国家があるってのに、選挙で国防が政治の争点にならんてのは、不可思議な話。
北朝鮮関連法だけは通すのが、野党とはいえ日本の政党の取るべき態度だろう。
民主党もゴミだな。自民の後をすぐ追わせて解党させたるわ。
<太田>
2番目のセンテンスは同感ですが、1番目のセンテンスは、属国だから当然でしょっちゅうことです。
<民主党は朝鮮人の政党>
民主党の鉢呂吉雄は日教組の反日政治組織「日本民主教育政治連盟」に所属している。かつ、民主党の次の内閣の外相である。反日親朝の政治家が外相になれば、日本の外交はどのようなものになるのだろうか。
日本の領土である竹島は、韓国に譲るだろう。
<太田>
鉢呂を次の外相に任命したのは小沢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E5%91%82%E5%90%89%E9%9B%84
だよな。
彼はもともと日本社会党議員でしょ。
自民と社会がどちらも吉田ドクトリン政党であったことを改めて思い出させる話だよね。
だけど、私は全然心配してない。
とにかく、政権交代をして第一革命・・政治家主導の中央政治の確立と地方分権の推進・・を実現すれば、第二革命・・米国からの「独立」・・への展望が論理的に開ける、という二段階革命論に私は立脚しているワケ。
第二革命までの間は、日本の外交・安保の基本は宗主国米国が決めるんだから、民主党中心の政権になったって、外交・安保は基本的には何も変わらないし変えられないよ。
記事の紹介です。
「自民党総裁選の前倒しを目指して両院議員総会開催を求める署名集めをしてきた中川秀直元幹事長らは15日夜、総会開催に必要な人数が集まったとし<た>・・・。・・・
署名に応じた議員は、与謝野、石破両氏を含む130人余で、総会開催に必要な党所属国会議員の3分の1にあたる128人を超え、現職の副大臣もいるという。16日に党執行部に署名を提出し、17日開催を求める方針。
署名者には「麻生降ろし」とは一線を画し、選挙の総括や首相の反省を求める声もあるが、首相に批判的な議員らは党総裁交代に向け、総裁選前倒しを可能とする党則改定を提案する考えだ。出席者の過半数の賛成で改定できる。・・・」
http://www.asahi.com/politics/update/0716/TKY200907150457.html
「・・・与謝野、石破両氏は15日、首相官邸の執務室で首相と向き合い、与謝野氏の地元・東京都、石破氏の地元・鳥取県の選挙情勢の厳しさを説明しながら、衆院選への強い危機感を示した。・・・
石破氏は15日、周囲に「(生還の見込みなく沖縄戦に出撃した)戦艦大和には納得してから乗らないといけないのに、全く説明がない」とこぼした。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090716-OYT1T00144.htm?from=main3
「・・・与謝野氏周辺は15日、会談の目的について「首相に自発的な辞任を求めるものだった」と述べた。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090716-OYT1T00015.htm?from=main2
「・・・自民党の小池百合子元防衛相は・・・「戦いを総括し、戦略・戦術を見直すことなく、そのまま『突入!』ではガダルカナルではないか・・・開戦日程だけが設定され、マニフェスト(政権公約)という武器もなく、赤紙一枚で戦場に赴く兵士の思いは複雑だ」と心情を吐露。麻生首相について「戦後処理にあたった吉田茂の孫は、『失敗の本質』をご存じではないようだ」と皮肉った。・・・」
http://www.asahi.com/politics/update/0715/TKY200907150348.html
「・・・中川氏らが配った署名に「呼びかけ人」として名を連ねた中心メンバーからさえも「麻生さんを今更代えられない。中川氏と思惑が違う」と冷ややかな声が出ている。総会を求める目的に「同床異夢」の側面があるようだ。
一方、麻生首相は退陣につながる両院議員総会の開催要求には耳を貸さず、あくまで21日にも衆院解散を断行する構えだ。与謝野財務相が自発的な退陣が望ましいとの考えを暗に伝えたことに対しても、周辺は「意に介していない」と強調する。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090608-145056/news/20090716-OYT1T00163.htm
果たして自民党の議員総会が開かれるか? 開かれたとしてどうなるか?
それにしても、麻生は、「麻生氏が安倍、福田に続く元首相の七光り組の掉尾を飾る、戦後最低の首相として、自民党を崩壊に導くことを心から期待しています。」という私の期待(コラム#2781)にほぼ完全に答えてくれました。
ホントいいやっちゃ。
後は、せめて掉尾をホントにまっとうしてくれることだけだね。
なお、石破と小池がどちらも戦史を引き合いに出してたけど、小池の認識が甘いのが気になるなあ。計算の上での表現ならいいけど。
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太田述正コラム#3399(2009.7.16)
<文明的とは何ぞや(その3)>
→非公開
<皆さんとディスカッション(続x541)>
<南>
まず最初に英語版ウィキペディアについて。
太田さんは英語版ウィキペディアが信頼できるとという前提で引用されているようですが、少なくとも内陸アジア史に関する英語版ウィキペディアの記述はレベルが低いです。
少なくとも日本語版よりも信頼できるということはありません。
言語分野は専門家が多少いますが、歴史系は素人が好き勝手に書いています。
できれば他のまともな資料を参照するようお願いします。
ウィキペディアの記事を引用されますと、本筋でないところまでツッコミを入れる誘惑にかられてしまいます。
<太田>
私の父親は、戦前、商社員としての勤務先が支那であったこと、現地召集で先の大戦において支那で日本軍の将校を務めたこと等から、父親の蔵書に諸子百家から始まる支那に関する思想、文学書や地誌書や歴史書が多く、私も自然にこれらに目を通したり支那関係の本を求めるようになり、私自身、かなりの支那通であると思っています。
現在、これらの本を近くに置いていないのと、「ディスカッション」シリーズには余り手間をかけられないこともあり、「ディスカッション」で支那について論じる場合は、その都度典拠にはあたっていません。
しかし、それでは年代等細部において誤りなきを期し難いので、原則英語ウイキペディアで私の記憶を検証するよう努めている、ということです。(読者の便宜にもなりますからね。)
私が、日本語ではなく英語ウイキペディアに原則拠っているのは、とにかく、より詳細に記されているからです。
あなたも支那通でいらっしゃるようですが、これまでのやりとりを通じ、失礼ながら、ご記憶の検証が必ずしも十分でない場合があるという印象を受けました。
<南>
さて、議論が拡散してしまっていますが、最大の争点は、新疆省設置以前の清の新疆支配の性格かと思います。
新疆支配の性格以前に、そもそも清朝の統治体制の構造に関する太田さんの認識が怪しいのですが、この問題は私の手に余るところです。
とりあえず前出の『清朝とは何か』でも読んでくださいとお願いしておきます。
引用されたウィキペディアの清朝 (Qing Dynasty) の記事は、支那の支配について述べているだけで、モンゴル人やトルコ人の支配については何も言っていません。
記事を書いてるのが中国人ばかりなのでどうしようもないです。
「この征服を支えた官僚機構の担い手の大部分は漢人(前述)でした」という主張が、どうして漢人の新疆支配の根拠となるのか不明です。
清の帝国経営は、支那から吸い上げた富を藩部にばらまくことで維持されていました。
しかし、ばらまいていたのは満洲人の皇帝なわけで、漢人は関係ないですよね?
ちなみに、中央で藩部の事務を行っていたのは理藩院ですが、これは明にはない清独自の機関です。
そして、理藩院のポストは旗人、それも八旗満洲と八旗蒙古によって占められていました。
<太田>
より正確には、清においては、皇帝はもちろん満州族ですが、漢人に関する行政は基本的に満州族と漢人が責任を負う形で行い、非漢人に関する行政は基本的に蒙古族が責任を負う形で行った、ということではないですか。↓
「・・・中国内地を統轄する機関の重要官職には満洲缺<(ポスト)>と漢人缺が設けられ,・・・これに対し、藩部を統轄する中央の機関である理藩院の尚書(長官)・侍郎(次官)の職は蒙古缺とされ<た。>・・・。また,尚書・侍郎の下で実務処理を担当する郎中・員外郎・主事等についても,中国内地の統轄機関では満洲缺が多数設けられたのに対し,蒙古缺はほんのわずかしか存在しなかった。しかし理藩院郎中・員外郎・主事の職は,満洲旗人が任用されるケースもあったが,基本的には蒙古缺であった。これらの事実は,清朝が満洲旗人を中国内地の統治の担当者,蒙古旗人を藩部統治の担当者と位置づけていたことを示している。・・・」
http://74.125.153.132/search?q=cache:9jVbN1ScT2YJ:matsushita-kokusai-z.or.jp/zaidan/ajisukalist/2001/01-005.pdf+%E7%90%86%E8%97%A9%E9%99%A2&cd=23&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
いずれにせよ、蒙古族がすべての行政について責任を担ったところの元・・しかも元は全く漢化しなかった。だからこそ、元は「漢人的」王朝とは言えない!・・と清とは違う、ということです。
<南>
藩部の現地の支配については、清朝は、既に述べたように、従来の統治機構を大きく変えずに温存しました。
新疆のオアシス都市では、現地の有力者がベグとよばれる官吏に任命されて行政にあたっていました。
また、漢人が藩部に移住することは原則として禁止されていました。
もちろん、細かい話をすれば、漢人の人口爆発を背景に、隣接する甘粛・陝西から東路へ植民が行われましたが、人口構成が激変する規模のものではありません。
さらに、中央から派遣された官吏や軍隊は、現地人との接触を避けて離れた場所に駐屯していました。
新疆の古い地図を見れば、主要都市には城壁に囲まれた町が二つあるのが確認できると思います。
そういうわけで、トルコ系の平民や知識人は、漢語や儒教と無縁で、辮髪も禁止され、支那とは別の法体系のもとにありました。
要するに、新疆は、支那の一部になったのではなく、支那と別に帝国の版図になったと考えるのが自然です (モンゴルやチベットにも同じことが言えます)。
後になって帝国を乗っ取った漢人が、藩部を当然のように自分の領土と考え、さらにその認識を過去に投影して、「漢代から中華に属すわが領土だ」と言いだしたわけです。それにまんまと引っ掛かる人が日本にまでいるのは残念なことです。
<太田>
だけどそれは、清以前の歴とした漢人王朝における女真人地域、契丹人地域(後述)、蒙古人地域等の支配形態と基本的に同じでありませんか?
清とは、これら地域に関する行政を行ったのが漢人であった、という点で異なっていますがね・・。
ところで、
>まんまと引っ掛かる人が日本にまでいる
ってひょっとして私のことですか?
それじゃ、あえて更に刺激的な話をしましょう。
以下を読まれた上で、改めてご感想をお聞かせ下さい。
これまで漢人(基本的に農耕民)と非漢人(基本的に遊牧民)とを区別して論じてきましたが、濃淡はあるものの、漢人そのものが遊牧民との混淆的存在である
http://books.google.co.jp/books?id=jqb7L-pKCV8C&pg=PA199&lpg=PA199&dq=A+history+of+Chinese+civilization%3BMongolia+and+Central+Asia&source=bl&ots=VRPE6MNKCw&sig=TOTx7jaDGUjUXBNJLRls-ZqLA18&hl=ja&ei=ysxeSrKIDKTm6gOaxdSSCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2
ことを忘れてはならないでしょう。(英語の典拠で失礼!)
この程度の話を裏付けるのであれば、日本語ウイキペディアで十分です。
「西戎(せいじゅう)あるいは戎(じゅう)は・・・チベット系ともテュルク系ともいわれる・・・古代中国の西方にいた遊牧民族・・・秦は元々戎の一派であるという説もある。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E
「鮮卑・・・は中国北部に存在していた遊牧騎馬民族。魏晋南北朝時代には南下して中国に北魏などの国を建てた
。・・・鮮卑は・・・言語学的にはモンゴル語系統という定説が根強いが、同時にテュルク系とツングース系との混血とする説もかなり有力である。
・・・鮮卑<の>六つの部族(氏族)<の一つである>拓跋部の北魏<が>439年に華北を統一し、これ以降は南北朝時代となる。
その後隋の楊堅により中国が統一されるが、楊堅は<上記六つの部族の一つである>宇文部が立てた北周の外戚であり、自身も鮮卑の出身である可能性がある。
同じく北周の貴族であった唐の<高祖>李淵もまた鮮卑出身である可能性が考えられる。
北斉の高歓については、漢化した鮮卑系の可能性が高いとされるが、鮮卑化した漢人という説もある。・・・
隋統一後の鮮卑族は漢民族に同化して行き、民族としてのまとまった動きは見せなくなった。・・・」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
この関連で興味深いのが契丹(遼)です。
「契丹・・・は満州から中央アジアにかけて存在した遊牧民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。
しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。
契丹人の一部は女真に取り込まれ、また一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ=キタイ)を建てた。
『魏書』によると契丹、高句麗、室韋、庫莫奚、豆莫婁(扶余の後継国家)の言語が同じとされる。
種族としては諸説がある。定説ではモンゴル系とされる。あるいはツングース・テュルクに近い種族という見方もある。・・・
金滅亡後はチンギス・ハーンの下で漢人に組み入れられた。元来遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中にモンゴル帝国に仕えた耶律楚材がいる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
この遼の二重の統治機構は、後の清のそれとよく似ています。
ここも英語文献で失礼しますが、下掲↓の引用の中に出てくる「北院」の統治機構は清の「理藩院」とよく似ていますし、「南院」の統治機構は清の漢人統治機構とよく似ています。
・・・The Khitan(契丹) chose their Great Khan(大汗), or khaghan, at triennial councils(3年ごとに開かれる会議). ・・・ However, Abaoji(阿保機)’s successes resulted in his rising status among the Khitan.・・・Abaoji introduced a revolutionary new system of governing both nomadic(遊牧的) and sedentary(農耕的) populations simultaneously. His concept was to divide the empire into two sections called Chancelleries. The Northern Chancellery (北院) consisted of nomadic steppe peoples, including the Khitan and conquered steppe tribes. The Southern Chancellery(南院), by contrast, included territories incorporated into Khitan domains that was populated by Chinese(漢人) and the people of Balhae(渤海).
The Northern Chancellery was run on a steppe military model. Abaoji was known as the Great Khan of the Northern Chancellery. The entire steppe population was constantly mobilized, ready for military action should it be required. The Khitan language(契丹語)・・・was the official language of the Northern Chancellery. The Xiao family, the consort family to the new imperial family, would govern the North.
The Southern Chancellery was run on a civil model. Here Abaoji served as an emperor(皇帝) more in line with the Chinese model of leadership. The vast majority of the administrative work was done by the sedentary populations themselves under the leadership of Abaoji’s family, who at some point adopted the surname Yelu(耶律). Chinese(支那語) was the official administrative language of the region. The Southern Chancellery even adopted the Tang(唐) practice of competitive civil service examinations(科挙) to staff the various bureaucracies of government required to govern a large sedentary population. However, due to suspicions over this overtly Chinese system, initially small numbers of jinshi(進士) degree holders were actually appointed to government posts. Loyalty, a holdover of common steppe practices, was still a more important means of appointment, even in the Southern Chancellery.・・・
In 916, Abaoji began his attempt to institute another stabilizing innovation, borrowing the Chinese notion of primogeniture(長子相続制). He named his eldest son, Prince Bei, heir apparent, a first in the history of the Khitan. ・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Liao_Dynasty
この遼は、北宋の北に位置していましたが、私は遼を、清の先達的な漢人的王朝と考えています。
この遼は女真族の金に滅ぼされ、金と南宋が並立する時代になりますが、金は急速に漢化して行きます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
長くなったので、後は簡単にしましょう。
「女真<族>は、・・・主に狩猟採集・牧畜・農耕に従事し」た半遊牧民」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9C%9F
であるところ、「・・・<1626年に後金初代の皇帝のヌルハチは亡くなるが、>生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子ホンタイジ・・・が後を継ぐことになった。・・・後継者を定めなかったの<は>、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81
と、清と名乗る直前の後金の頃まで、女真族では遊牧民的な首長選定方式が受け継がれていたことが分かります。
要するに私が何が言いたいかというと、もともとは遊牧民たる蒙古族、鮮卑族、契丹族、女真族(ただし半遊牧民)更にはウイグル族といった漢人王朝と密接な関わりを持った諸民族について、広義の漢人と見ることもあながち不可能ではない、ということが第一点です。(現在のモンゴル共和国の蒙古族もそうか、という問題には立ち入らない。)
(仮にそうだとすると、「・・・西遼・・・は、1132年から1211年までトルキスタンに存在した国・・・。1125年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が西に逃れて建てたのでこう呼ばれる。・・・<西遼は、>天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ、中継貿易で栄えた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%81%BC
という西遼(カラ=キタイ)の歴史も支那史、より端的には漢人史の一環であると言えないこともない、ということになりましょうか。)
また、かねてより累次申し上げてきたことですが、支那もその遊牧民的な歴史においては、若干なりとも民主主義的要素を見いだすことができる、と思われたでしょう。
中共が、北朝鮮のような血縁による首長継承制に堕さなかったのは、かかる歴史があったからこそではないか、と私は見ており、この伝統を掘り起こすことで、中共が今後自ら民主主義化する可能性がないわけではない、というのが第二点です。
<ΙΑΑΙ>(「たった一人の反乱」より)
それにしても隣で核兵器開発やってる敵対的な独裁国家があるってのに、選挙で国防が政治の争点にならんてのは、不可思議な話。
北朝鮮関連法だけは通すのが、野党とはいえ日本の政党の取るべき態度だろう。
民主党もゴミだな。自民の後をすぐ追わせて解党させたるわ。
<太田>
2番目のセンテンスは同感ですが、1番目のセンテンスは、属国だから当然でしょっちゅうことです。
<民主党は朝鮮人の政党>
民主党の鉢呂吉雄は日教組の反日政治組織「日本民主教育政治連盟」に所属している。かつ、民主党の次の内閣の外相である。反日親朝の政治家が外相になれば、日本の外交はどのようなものになるのだろうか。
日本の領土である竹島は、韓国に譲るだろう。
<太田>
鉢呂を次の外相に任命したのは小沢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E5%91%82%E5%90%89%E9%9B%84
だよな。
彼はもともと日本社会党議員でしょ。
自民と社会がどちらも吉田ドクトリン政党であったことを改めて思い出させる話だよね。
だけど、私は全然心配してない。
とにかく、政権交代をして第一革命・・政治家主導の中央政治の確立と地方分権の推進・・を実現すれば、第二革命・・米国からの「独立」・・への展望が論理的に開ける、という二段階革命論に私は立脚しているワケ。
第二革命までの間は、日本の外交・安保の基本は宗主国米国が決めるんだから、民主党中心の政権になったって、外交・安保は基本的には何も変わらないし変えられないよ。
記事の紹介です。
「自民党総裁選の前倒しを目指して両院議員総会開催を求める署名集めをしてきた中川秀直元幹事長らは15日夜、総会開催に必要な人数が集まったとし<た>・・・。・・・
署名に応じた議員は、与謝野、石破両氏を含む130人余で、総会開催に必要な党所属国会議員の3分の1にあたる128人を超え、現職の副大臣もいるという。16日に党執行部に署名を提出し、17日開催を求める方針。
署名者には「麻生降ろし」とは一線を画し、選挙の総括や首相の反省を求める声もあるが、首相に批判的な議員らは党総裁交代に向け、総裁選前倒しを可能とする党則改定を提案する考えだ。出席者の過半数の賛成で改定できる。・・・」
http://www.asahi.com/politics/update/0716/TKY200907150457.html
「・・・与謝野、石破両氏は15日、首相官邸の執務室で首相と向き合い、与謝野氏の地元・東京都、石破氏の地元・鳥取県の選挙情勢の厳しさを説明しながら、衆院選への強い危機感を示した。・・・
石破氏は15日、周囲に「(生還の見込みなく沖縄戦に出撃した)戦艦大和には納得してから乗らないといけないのに、全く説明がない」とこぼした。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090716-OYT1T00144.htm?from=main3
「・・・与謝野氏周辺は15日、会談の目的について「首相に自発的な辞任を求めるものだった」と述べた。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090716-OYT1T00015.htm?from=main2
「・・・自民党の小池百合子元防衛相は・・・「戦いを総括し、戦略・戦術を見直すことなく、そのまま『突入!』ではガダルカナルではないか・・・開戦日程だけが設定され、マニフェスト(政権公約)という武器もなく、赤紙一枚で戦場に赴く兵士の思いは複雑だ」と心情を吐露。麻生首相について「戦後処理にあたった吉田茂の孫は、『失敗の本質』をご存じではないようだ」と皮肉った。・・・」
http://www.asahi.com/politics/update/0715/TKY200907150348.html
「・・・中川氏らが配った署名に「呼びかけ人」として名を連ねた中心メンバーからさえも「麻生さんを今更代えられない。中川氏と思惑が違う」と冷ややかな声が出ている。総会を求める目的に「同床異夢」の側面があるようだ。
一方、麻生首相は退陣につながる両院議員総会の開催要求には耳を貸さず、あくまで21日にも衆院解散を断行する構えだ。与謝野財務相が自発的な退陣が望ましいとの考えを暗に伝えたことに対しても、周辺は「意に介していない」と強調する。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090608-145056/news/20090716-OYT1T00163.htm
果たして自民党の議員総会が開かれるか? 開かれたとしてどうなるか?
それにしても、麻生は、「麻生氏が安倍、福田に続く元首相の七光り組の掉尾を飾る、戦後最低の首相として、自民党を崩壊に導くことを心から期待しています。」という私の期待(コラム#2781)にほぼ完全に答えてくれました。
ホントいいやっちゃ。
後は、せめて掉尾をホントにまっとうしてくれることだけだね。
なお、石破と小池がどちらも戦史を引き合いに出してたけど、小池の認識が甘いのが気になるなあ。計算の上での表現ならいいけど。
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太田述正コラム#3399(2009.7.16)
<文明的とは何ぞや(その3)>
→非公開
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
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