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太田述正コラム#2792(2008.9.15)
<ナチスの占領地統治(その2)>(2009.3.14)
(3)ナチスの占領地統治が失敗した理由
ナポレオンが欧州中を席巻した時、彼らは進歩的な民事法であるところのナポレオン法典を各地に普及させただけでなく、市場経済の発展の足枷となっていたギルドも各地で廃止しましたし、各地において聖職重視主義(clericalism)も打倒しました。(例えば、ナポレオンによる征服以前にはナポリの人口の20分の1は僧か尼僧でした。)
過去においては、ナポレオンの帝国だけでなく、およそ帝国たるものは少しは進歩的な役割も果たしたものです。
ところがナチスの帝国に関しては、進歩的要素は皆無でした。
それは傲慢、冷徹、野蛮、無能(arrogance, callousness, brutality and ineptitude)なる帝国だったのです。
まず、傲慢、冷徹、野蛮についてです。
ナチスは新たに支配下に置いた人々を飢えさせることに積極的意義を認めていました。
ウクライナ総督(Reichskommissar)に任命されたエリッヒ・コッホ(Erich Koch)は、「私はこの国から搾り取れる全てを搾り取る。私がここに来たのは至福を与えるためではない」と宣言したものです。
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Goring)は「もし非ドイツ人が飢えでばたばた倒れたとしても、全く気にはならない」と嘯きました。
対ソ・バルバロッサ作戦(Operation Barbarossa)の後、赤軍の捕虜は鉄条網で囲まれた収容所にぶち込まれ、栄養不良と疾病で、1942年2月時点で、390万人中生き残っていたのはわずか110万人だけという有様でした。
支配下に置かれた人々は、飢えに苦しんだだけでなく、突然理由もなく殴られたりし、果てはジェノサイドの対象になったりもしたのです。
ヒットラー自身が、対ソ戦開始直後に「東方における征服地の広大さに鑑み、抵抗運動を法廷での判決によって処罰するのではなく、占領当局が地域住民の間のあらゆる抵抗の意思を恐怖をまきちらすことによって粉砕することによってしか、これら地域において治安を確立する物理的力の少なさをカバーすることはできない」と述べています。
ヒットラーは、「怪しげな者は誰でも撃て」とも述べています。
傲慢、冷徹、野蛮なら、ソ連だって良い勝負だと思われるかもしれません。
確かに赤軍だって1940年3月、カチンの森で15,000人のポーランド人将校を虐殺しましたし、ソ連とポーランドの境界領域では大量の住民の他地域への移動が行われました。
しかし、少なくともソ連による占領はロシア人等による植民を目的とするものでもジェノサイドを目的とするものでもありませんでした。逆にソ連は、社会主義革命に向けて支配下に置かれた人々の最大限の動員を行いました。
次に無能についてです。
東方の占領政策の主要部分の責任を負ったのは、親衛隊(SS=Schutzstaffel)の長、ハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)でした。彼は支配下に置かれた人々を死に至らしめるか追い払い、その後にドイツ人を植民させる計画をつくりました。
この計画にはナチス内部からも批判の声がありました。「ドイツは人種的純粋性と帝国的支配のどちらかを追求することができるが、両方を同時に追求することはできない」というのです。
実際、住民の間で死者を続出させ住民を追い払う一方で、戦争遂行のためにドイツ人を動員すればするほど、支配領域こそ広大だが、帝国は労働人口の稀少さに直面することになりました。
そして皮肉にも、1944年末にはドイツ本国の鉱工業生産は500万人もの外国人徴用労働者達に完全に依存することになり、事実上ナチス帝国はドイツ人とスラブ人からなる多民族国家へと変貌を遂げるに至るのですが、その期に及んでも親衛隊が管理する労働収容所では、このうち165万人もの人々が飢えで緩慢に死に至らしめられながら強制労働に従事していたのです。
もともとは、東方占領地域担当相であったアルフレッド・ローゼンベルグ(Alfred Rosenberg)は、ウクライナ人に対して将来は独立させると約束すべきだという考えを抱いていましたし、親衛隊の内部にも上記のようなヒムラーの方針に疑義を呈する管理理論家のヴェルナー・ベストのような者がいました。ヴェルナーは、「劣等」人種といえども奴隷化して緩慢に死に至らしめるのではなく、自治を与えて利用すべきだと主張したのです。
しかし、ヒットラー自身がバルト沿海の諸民族やウクライナ人に自治権を与えることを拒絶していた以上、こんな主張が通るわけがありませんでした。
(続く)
<ナチスの占領地統治(その2)>(2009.3.14)
(3)ナチスの占領地統治が失敗した理由
ナポレオンが欧州中を席巻した時、彼らは進歩的な民事法であるところのナポレオン法典を各地に普及させただけでなく、市場経済の発展の足枷となっていたギルドも各地で廃止しましたし、各地において聖職重視主義(clericalism)も打倒しました。(例えば、ナポレオンによる征服以前にはナポリの人口の20分の1は僧か尼僧でした。)
過去においては、ナポレオンの帝国だけでなく、およそ帝国たるものは少しは進歩的な役割も果たしたものです。
ところがナチスの帝国に関しては、進歩的要素は皆無でした。
それは傲慢、冷徹、野蛮、無能(arrogance, callousness, brutality and ineptitude)なる帝国だったのです。
まず、傲慢、冷徹、野蛮についてです。
ナチスは新たに支配下に置いた人々を飢えさせることに積極的意義を認めていました。
ウクライナ総督(Reichskommissar)に任命されたエリッヒ・コッホ(Erich Koch)は、「私はこの国から搾り取れる全てを搾り取る。私がここに来たのは至福を与えるためではない」と宣言したものです。
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Goring)は「もし非ドイツ人が飢えでばたばた倒れたとしても、全く気にはならない」と嘯きました。
対ソ・バルバロッサ作戦(Operation Barbarossa)の後、赤軍の捕虜は鉄条網で囲まれた収容所にぶち込まれ、栄養不良と疾病で、1942年2月時点で、390万人中生き残っていたのはわずか110万人だけという有様でした。
支配下に置かれた人々は、飢えに苦しんだだけでなく、突然理由もなく殴られたりし、果てはジェノサイドの対象になったりもしたのです。
ヒットラー自身が、対ソ戦開始直後に「東方における征服地の広大さに鑑み、抵抗運動を法廷での判決によって処罰するのではなく、占領当局が地域住民の間のあらゆる抵抗の意思を恐怖をまきちらすことによって粉砕することによってしか、これら地域において治安を確立する物理的力の少なさをカバーすることはできない」と述べています。
ヒットラーは、「怪しげな者は誰でも撃て」とも述べています。
傲慢、冷徹、野蛮なら、ソ連だって良い勝負だと思われるかもしれません。
確かに赤軍だって1940年3月、カチンの森で15,000人のポーランド人将校を虐殺しましたし、ソ連とポーランドの境界領域では大量の住民の他地域への移動が行われました。
しかし、少なくともソ連による占領はロシア人等による植民を目的とするものでもジェノサイドを目的とするものでもありませんでした。逆にソ連は、社会主義革命に向けて支配下に置かれた人々の最大限の動員を行いました。
次に無能についてです。
東方の占領政策の主要部分の責任を負ったのは、親衛隊(SS=Schutzstaffel)の長、ハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)でした。彼は支配下に置かれた人々を死に至らしめるか追い払い、その後にドイツ人を植民させる計画をつくりました。
この計画にはナチス内部からも批判の声がありました。「ドイツは人種的純粋性と帝国的支配のどちらかを追求することができるが、両方を同時に追求することはできない」というのです。
実際、住民の間で死者を続出させ住民を追い払う一方で、戦争遂行のためにドイツ人を動員すればするほど、支配領域こそ広大だが、帝国は労働人口の稀少さに直面することになりました。
そして皮肉にも、1944年末にはドイツ本国の鉱工業生産は500万人もの外国人徴用労働者達に完全に依存することになり、事実上ナチス帝国はドイツ人とスラブ人からなる多民族国家へと変貌を遂げるに至るのですが、その期に及んでも親衛隊が管理する労働収容所では、このうち165万人もの人々が飢えで緩慢に死に至らしめられながら強制労働に従事していたのです。
もともとは、東方占領地域担当相であったアルフレッド・ローゼンベルグ(Alfred Rosenberg)は、ウクライナ人に対して将来は独立させると約束すべきだという考えを抱いていましたし、親衛隊の内部にも上記のようなヒムラーの方針に疑義を呈する管理理論家のヴェルナー・ベストのような者がいました。ヴェルナーは、「劣等」人種といえども奴隷化して緩慢に死に至らしめるのではなく、自治を与えて利用すべきだと主張したのです。
しかし、ヒットラー自身がバルト沿海の諸民族やウクライナ人に自治権を与えることを拒絶していた以上、こんな主張が通るわけがありませんでした。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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