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太田述正コラム#3058(2009.1.26)
<オバマの就任演説(続々)>(2009.3.9公開)
1 始めに
表記について、その後も記事が毎日のように英米の主要紙に掲げられるのには呆れるほかありません。
そのいくつかをご紹介しましょう。
2 記事
「・・・それはそれは平易(plain)な演説だった。昔の何人かの米国の大統領の演説のようであり、聞くよりは読んだ方が味わいが出てくる演説だ。
大向こうをうならせるような名文句が出てくるわけではない。彼は点数を稼ごうなどと思っていないのだ。彼は単に、米国が今どういう状態にあってどの方向に進むべきかについて、つらい話も含め、真実を語ったのだ。これ以上はっきりと言えないほどに。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/20/AR2009012003500_pf.html
(1月22日アクセス)
「・・・慇懃なる決まり文句で装いつつ、オバマは殺人をやって逃げおおせたのだ。
よく出てくる口当たりの良い言葉でもって、これまでの慣習を覆すような声明を発したのだ。・・・
<オバマが演説で述べたところの、>(建国の際の様々な文書に忠実な)「我々国民」と(これらの文書を踏みにじったと非難されるべき)「高官達」との区別は一見不分明なように見える。もし聴衆がそれを見破ろうとすれば見破れるが、見破ろうとしなければ見破ることはできない。・・・
このベールをかぶせたような様は演説全体を満たしていた。
この演説のテーマは、初めのあたりに出てくる。すなわち、「子供っぽいことは止める時が来た。我々に通底する精神を再確認し、より良い歴史を選択すべきだ」と。・・・<ブッシュは>子供っぽいことをやらかすことで有名だった<ことを思いだそう>・・・。 要するに13日の就任演説は、異例なことだが、米国内向け、及びそれと同じくらい対外向けにも、ブッシュ時代が終わったことを<宣言したものなのだ。>・・・
このテーマは、緻密に計算された間隔を置いて何度もオバマが触れ、しばらく別の話をし、それからまた触れ、埋めてしまったかと思えば、また掘り返したものだから、この演説は散漫だったという批判があったくらいだが、それはお門違いだ。
これは、静かに、慇懃に、執拗に目的を追求した演説なのだ。・・・
<この後、いかにこの筆者が演説の行間を読んで行ったかが、歴史を縦横無尽に引用しつつ、これ以上ないような精緻さで説明される。これは決して深読みとは思えない。オバマの恐るべき知識と知性にただただ舌を巻くほかはない。(太田)>
私は、ジョージ・ワシントン以来のすべての米大統領就任演説を読んだ、というか少なくとも斜め読みした。しかし、今回ほど、ホワイトハウスの前の住人の政治哲学と立法実績を決然と否定したものはない。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/24/barack-obama-inauguration-speech-presidency-president-review-jonathan-raban
(1月24日アクセス)
「・・・何故にイリノイ州・・・のシカゴからかくも文学的、そして政治的才能を持った人物が輩出してきたのだろうか。
それは、・・・<米国の>「中西部」だからだ。
<中西部は、>米国の散文の中心地帯なのだ。
リンカーン以降も、中西部人達は、入れ替わり立ち替わり、米国人であるとはいかなる意味があるのかについて、米語を形作りながらその米語に真正なる新しい声をあげさせつつ、語り続けた。マーク・トウェイン、F・スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェー、ソール・ベロー、という具合に・・。・・・
中西部人達は、その定義からして、間に存在する人々であり、アイデンティティーを探している。・・・
<ある人いわく、>「我々は我々自身の物語を、この物語の内包する意味を理解している人間<(オバマ)>から聞かされたのだ」と。
オバマは、良い作家として、そしてより良い政治家として、華麗な言葉や大きな考えもさることながら、一番大事なのは物語、物語、つまり国民的叙事詩(narrative)であることを理解しているように見える。
それこそ、皆が注目する心理劇の中で、彼が首都の演台の上から提供したものなのだ。 彼の18分間の演説は、修辞はほとんど施されていないものだったが、とにかく残酷きわまりない(brutal)ものだった。
彼は、文字通り、世界中の聴衆の前で彼の前任者を屠ったのだ。
つまり彼は、外科的効率性をもって礼儀正しく行われたとはいえ、就任時の慇懃さという伝統をなげうち、拒絶された指導者の内蔵をメスで切り刻んだのだ。
致命的な突きが沢山入れられたが、そのうち最も凄まじかったのが、「我々は、安全と理想との間の選択という観念は誤りであるので拒絶する」というくだりだった。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/jan/25/mccrum-obama-storytelling-speeches
(1月26日アクセス)
3 終わりに
以上を総括すれば、オバマが大統領になったことで、「退行する米国」シリーズ(実にコラム#2017から2095まで、断続的に25回にわたった)で描いたところの、ファシズムへの道を歩んでいた米国のいまわしい時代が完全に幕を下ろしたと言ってよいことが、彼の大統領就任演説によって確認できた、ということです。
本当に危ないところでした。
改めてオバマの大統領就任に祝杯を挙げたいと思います。
<オバマの就任演説(続々)>(2009.3.9公開)
1 始めに
表記について、その後も記事が毎日のように英米の主要紙に掲げられるのには呆れるほかありません。
そのいくつかをご紹介しましょう。
2 記事
「・・・それはそれは平易(plain)な演説だった。昔の何人かの米国の大統領の演説のようであり、聞くよりは読んだ方が味わいが出てくる演説だ。
大向こうをうならせるような名文句が出てくるわけではない。彼は点数を稼ごうなどと思っていないのだ。彼は単に、米国が今どういう状態にあってどの方向に進むべきかについて、つらい話も含め、真実を語ったのだ。これ以上はっきりと言えないほどに。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/20/AR2009012003500_pf.html
(1月22日アクセス)
「・・・慇懃なる決まり文句で装いつつ、オバマは殺人をやって逃げおおせたのだ。
よく出てくる口当たりの良い言葉でもって、これまでの慣習を覆すような声明を発したのだ。・・・
<オバマが演説で述べたところの、>(建国の際の様々な文書に忠実な)「我々国民」と(これらの文書を踏みにじったと非難されるべき)「高官達」との区別は一見不分明なように見える。もし聴衆がそれを見破ろうとすれば見破れるが、見破ろうとしなければ見破ることはできない。・・・
このベールをかぶせたような様は演説全体を満たしていた。
この演説のテーマは、初めのあたりに出てくる。すなわち、「子供っぽいことは止める時が来た。我々に通底する精神を再確認し、より良い歴史を選択すべきだ」と。・・・<ブッシュは>子供っぽいことをやらかすことで有名だった<ことを思いだそう>・・・。 要するに13日の就任演説は、異例なことだが、米国内向け、及びそれと同じくらい対外向けにも、ブッシュ時代が終わったことを<宣言したものなのだ。>・・・
このテーマは、緻密に計算された間隔を置いて何度もオバマが触れ、しばらく別の話をし、それからまた触れ、埋めてしまったかと思えば、また掘り返したものだから、この演説は散漫だったという批判があったくらいだが、それはお門違いだ。
これは、静かに、慇懃に、執拗に目的を追求した演説なのだ。・・・
<この後、いかにこの筆者が演説の行間を読んで行ったかが、歴史を縦横無尽に引用しつつ、これ以上ないような精緻さで説明される。これは決して深読みとは思えない。オバマの恐るべき知識と知性にただただ舌を巻くほかはない。(太田)>
私は、ジョージ・ワシントン以来のすべての米大統領就任演説を読んだ、というか少なくとも斜め読みした。しかし、今回ほど、ホワイトハウスの前の住人の政治哲学と立法実績を決然と否定したものはない。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/24/barack-obama-inauguration-speech-presidency-president-review-jonathan-raban
(1月24日アクセス)
「・・・何故にイリノイ州・・・のシカゴからかくも文学的、そして政治的才能を持った人物が輩出してきたのだろうか。
それは、・・・<米国の>「中西部」だからだ。
<中西部は、>米国の散文の中心地帯なのだ。
リンカーン以降も、中西部人達は、入れ替わり立ち替わり、米国人であるとはいかなる意味があるのかについて、米語を形作りながらその米語に真正なる新しい声をあげさせつつ、語り続けた。マーク・トウェイン、F・スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェー、ソール・ベロー、という具合に・・。・・・
中西部人達は、その定義からして、間に存在する人々であり、アイデンティティーを探している。・・・
<ある人いわく、>「我々は我々自身の物語を、この物語の内包する意味を理解している人間<(オバマ)>から聞かされたのだ」と。
オバマは、良い作家として、そしてより良い政治家として、華麗な言葉や大きな考えもさることながら、一番大事なのは物語、物語、つまり国民的叙事詩(narrative)であることを理解しているように見える。
それこそ、皆が注目する心理劇の中で、彼が首都の演台の上から提供したものなのだ。 彼の18分間の演説は、修辞はほとんど施されていないものだったが、とにかく残酷きわまりない(brutal)ものだった。
彼は、文字通り、世界中の聴衆の前で彼の前任者を屠ったのだ。
つまり彼は、外科的効率性をもって礼儀正しく行われたとはいえ、就任時の慇懃さという伝統をなげうち、拒絶された指導者の内蔵をメスで切り刻んだのだ。
致命的な突きが沢山入れられたが、そのうち最も凄まじかったのが、「我々は、安全と理想との間の選択という観念は誤りであるので拒絶する」というくだりだった。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/jan/25/mccrum-obama-storytelling-speeches
(1月26日アクセス)
3 終わりに
以上を総括すれば、オバマが大統領になったことで、「退行する米国」シリーズ(実にコラム#2017から2095まで、断続的に25回にわたった)で描いたところの、ファシズムへの道を歩んでいた米国のいまわしい時代が完全に幕を下ろしたと言ってよいことが、彼の大統領就任演説によって確認できた、ということです。
本当に危ないところでした。
改めてオバマの大統領就任に祝杯を挙げたいと思います。
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/