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太田述正コラム#3052(2009.1.23)
<オバマの就任演説(続)>(2009.3.7公開)
1 始めに
表記の続きです。
2 ワシントンポスト
「・・・保守派の多くは、オバマは彼の左翼の友人達をがっかりさせることは必至だと主張している。というのは、大統領は今や権力をふるう立場となり、大統領候補として修辞をあれほども陶酔的に展開した立場とは違ってより用心深くなるだろうというのだ。
彼らはその証拠の一つとして、オバマが古流の価値である「正直と勤勉、勇気と公正、寛容と好奇心、忠誠と愛国心」を頑強に擁護していることを挙げる。
オバマは、「これらの価値は古いけれど真実だ」と宣言した。実際それは、すべての米大統領が口にしたことのうち、最も強力な保守的心情であると言える。
しかしこのリストの本質に留意すべきだろう。
特に、「寛容と好奇心」は、新しくて新奇なものを追求する人々を連想させるものだ。
また、「勤勉」と「公正(fair play)」はつつましい人々(the salt of the earth)のために平等主義者達によって援用されたものだ。
そしてオバマは、我々に直截的に、彼がどうして古い徳に言及したのかを語っている。
「これらの徳は、我々の歴史を通じて進歩をもたらした静かな力だった」と。
色んな意味で革新的(radical)なこの演説に満ちているのは進歩の強調だ。
オバマは、明確に保守的であった<米国の>過去・・ジョージ・W・ブッシュを、そして更に昔に遡るとロナルド・レーガンを連想させるところの過去・・と決別したのだ。
彼がこれまで実に何度も語ったことだが、オバマは政府の規模についての議論は不適切だと言明した。大事なことは「それが機能しているかどうか」だというのだ。「静かに、しかし意図的に、彼はレーガン革命を覆しつつあるのだ。
彼は国内の安全に関するブッシュ=チェイニー的アプローチを、以下の言葉で廃棄すると言明した。
「我々は、安全と我々の理想のどちらかの選択<という観念>を拒否する」と。
そして、米国の持っている力を言祝ぎつつも、彼は、「力だけで我々を守ることはできないし、力があるからと言って我々は好きなことをやる権利はない」と述べることで過去と決別したのだ。
そして最後に、これまでの米国の大統領達は「市場は良い力か悪い力か」ということをはっきりと問いかけたことはなかったところ、オバマは、市場が「富の創造と自由の拡大」をもたらすことを認めつつも、規制を行わなければ、市場は「統制不能」になりかねないと警告した。
彼はまた、ひどい不平等についても物申している。
「国家が豊かな者(the prosperous)」だけを優遇したならば、繁栄は長くは続かないと主張したのだ。
オバマを革新にしているところのものは、彼の注意深さと韜晦さにごまかされなければ、それは恐らく40年間にわたって米国の政治的思潮を満たしてきた2種類の極端な個人主義の流れを逆流させようとする努力なのだ。
彼は、自由の最高形態として「自分だけのことをやっていればよい」と定義されたところの1960年代のこれ見よがしの個人主義と対峙する。
すなわち、これに対してオバマは、「親が子供を養育する意欲」という古典的ブルジョワ的義務さえ含むところの、他人に対して何かを行う責任を口にした。
彼は同時に、1980年代に根を下ろした経済的自由主義も否定する。
彼は、我々の経済的苦境をもたらした一つの原因である「一部の人々の貪欲と無責任」を特に摘出した。彼は、「カネと名声の享受」をたしなめた。また彼は、米国民について、彼らを消費者ではなく市民として語った。更に彼は、自由を持ち上げたが、自由の恩沢よりも自由を守る「義務」の方をはるかに強調した。
この地域社会的ビジョンは、オバマが非難したところの、リベラルと保守派との間の「不毛な政治的議論」とは相容れない。なぜならば、それは実際のところ以上の2種類の個人主義の間での議論でしかなかったからだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/21/AR2009012103091_pf.html
(1月23日アクセス。以下同じ。)
3 ガーディアン
「・・・仮にジェラード・マンレー・ホプキンス(Gerard Manley Hopkins)がかつて示唆したように、詩とは「高められた日常言語(the common language heightened)」であるとすれば、オバマ大統領(って文句を初めてタイプするのが何とうれしいことか)はこの演説で詩人となったと言えよう。
彼は言語自身を響かせた。彼はそれを、華麗な文章や表面的に高められた文句や構文(syntax)における意識的対句(parallelism)によってやってのけたわけではない。
誰でも彼の演説を注意深く読み返してみよ。そうすれば、彼が「新しい」「国」「今」「世代」「共通の」「勇気」「世界」といった最も単純な言葉しか使っていないことが分かる。
しかも彼は、これらの言葉を、既に我々のお馴染みになったところの素直なリズム(cadences)でどんぴしゃの正しい長さで紡ぎ出すように語ったのだ。・・・
この演説は、真の詩だけができるように、私を心底から感動させた。
泣かすような演説では本来ないはずなのに、聴きながら私は涙でほほをぬらした。それは私だけではなかった。口にするのはばかげていることは分かっているが、私はこの就任式で自分が米国人であることを誇りに思った。
この誇りの気持ちはそんなに長くは続かないかもしれないし、第一こんな形で続いて欲しいとも思わない。
しかしオバマが語ると、あたかも詩人が素晴らしい真の詩を読んだ場合と同様、聴いている人はその言葉自身となる。語り手と聴衆が一つとなって呼応するのだ。
すべてはパーフォーマンスではあったけれど、しかしそれでもこの演説は純粋で、単純で、直截的な詩の純粋形式であったと言える。
もちろん、歴史の風はオバマ大統領の背中に激しく吹き付け、彼の言葉をワシントンとその外に広がっている世界に送り届けた。
彼はたくさんのことを極めて短く言わなければならなかった。
しかし、良い詩人がみんなそうであるように、彼は語るためには最低でどれだけの分量が必要かを理解していた。この焦燥感にかられている世界において、そしてあの瞬間において、いかなる必要最最小限度の言語、すなわち、いかなる分量の言語の断片、いかなる的確な言葉の断片が必要にして十分であるかを彼は理解していたのだ。」
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2009/jan/22/poetry-obama-inauguration
4 終わりに
革新的(radical)詩人たる政治家、オバマ。
日本を米国から「独立」させて、政治を復権させるためには、まずもって、ラディカルな思想の復権と現代詩の復権を図らなければならないのかもしれませんね。
そう言えば、オックスフォードに、5年ごとに同大学のOBの投票で新たに選ばれる詩学教授(professor of poetry)の制度がある
http://www.guardian.co.uk/books/2009/jan/22/oxford-poetry-professor
ことを思い出しました。
<オバマの就任演説(続)>(2009.3.7公開)
1 始めに
表記の続きです。
2 ワシントンポスト
「・・・保守派の多くは、オバマは彼の左翼の友人達をがっかりさせることは必至だと主張している。というのは、大統領は今や権力をふるう立場となり、大統領候補として修辞をあれほども陶酔的に展開した立場とは違ってより用心深くなるだろうというのだ。
彼らはその証拠の一つとして、オバマが古流の価値である「正直と勤勉、勇気と公正、寛容と好奇心、忠誠と愛国心」を頑強に擁護していることを挙げる。
オバマは、「これらの価値は古いけれど真実だ」と宣言した。実際それは、すべての米大統領が口にしたことのうち、最も強力な保守的心情であると言える。
しかしこのリストの本質に留意すべきだろう。
特に、「寛容と好奇心」は、新しくて新奇なものを追求する人々を連想させるものだ。
また、「勤勉」と「公正(fair play)」はつつましい人々(the salt of the earth)のために平等主義者達によって援用されたものだ。
そしてオバマは、我々に直截的に、彼がどうして古い徳に言及したのかを語っている。
「これらの徳は、我々の歴史を通じて進歩をもたらした静かな力だった」と。
色んな意味で革新的(radical)なこの演説に満ちているのは進歩の強調だ。
オバマは、明確に保守的であった<米国の>過去・・ジョージ・W・ブッシュを、そして更に昔に遡るとロナルド・レーガンを連想させるところの過去・・と決別したのだ。
彼がこれまで実に何度も語ったことだが、オバマは政府の規模についての議論は不適切だと言明した。大事なことは「それが機能しているかどうか」だというのだ。「静かに、しかし意図的に、彼はレーガン革命を覆しつつあるのだ。
彼は国内の安全に関するブッシュ=チェイニー的アプローチを、以下の言葉で廃棄すると言明した。
「我々は、安全と我々の理想のどちらかの選択<という観念>を拒否する」と。
そして、米国の持っている力を言祝ぎつつも、彼は、「力だけで我々を守ることはできないし、力があるからと言って我々は好きなことをやる権利はない」と述べることで過去と決別したのだ。
そして最後に、これまでの米国の大統領達は「市場は良い力か悪い力か」ということをはっきりと問いかけたことはなかったところ、オバマは、市場が「富の創造と自由の拡大」をもたらすことを認めつつも、規制を行わなければ、市場は「統制不能」になりかねないと警告した。
彼はまた、ひどい不平等についても物申している。
「国家が豊かな者(the prosperous)」だけを優遇したならば、繁栄は長くは続かないと主張したのだ。
オバマを革新にしているところのものは、彼の注意深さと韜晦さにごまかされなければ、それは恐らく40年間にわたって米国の政治的思潮を満たしてきた2種類の極端な個人主義の流れを逆流させようとする努力なのだ。
彼は、自由の最高形態として「自分だけのことをやっていればよい」と定義されたところの1960年代のこれ見よがしの個人主義と対峙する。
すなわち、これに対してオバマは、「親が子供を養育する意欲」という古典的ブルジョワ的義務さえ含むところの、他人に対して何かを行う責任を口にした。
彼は同時に、1980年代に根を下ろした経済的自由主義も否定する。
彼は、我々の経済的苦境をもたらした一つの原因である「一部の人々の貪欲と無責任」を特に摘出した。彼は、「カネと名声の享受」をたしなめた。また彼は、米国民について、彼らを消費者ではなく市民として語った。更に彼は、自由を持ち上げたが、自由の恩沢よりも自由を守る「義務」の方をはるかに強調した。
この地域社会的ビジョンは、オバマが非難したところの、リベラルと保守派との間の「不毛な政治的議論」とは相容れない。なぜならば、それは実際のところ以上の2種類の個人主義の間での議論でしかなかったからだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/21/AR2009012103091_pf.html
(1月23日アクセス。以下同じ。)
3 ガーディアン
「・・・仮にジェラード・マンレー・ホプキンス(Gerard Manley Hopkins)がかつて示唆したように、詩とは「高められた日常言語(the common language heightened)」であるとすれば、オバマ大統領(って文句を初めてタイプするのが何とうれしいことか)はこの演説で詩人となったと言えよう。
彼は言語自身を響かせた。彼はそれを、華麗な文章や表面的に高められた文句や構文(syntax)における意識的対句(parallelism)によってやってのけたわけではない。
誰でも彼の演説を注意深く読み返してみよ。そうすれば、彼が「新しい」「国」「今」「世代」「共通の」「勇気」「世界」といった最も単純な言葉しか使っていないことが分かる。
しかも彼は、これらの言葉を、既に我々のお馴染みになったところの素直なリズム(cadences)でどんぴしゃの正しい長さで紡ぎ出すように語ったのだ。・・・
この演説は、真の詩だけができるように、私を心底から感動させた。
泣かすような演説では本来ないはずなのに、聴きながら私は涙でほほをぬらした。それは私だけではなかった。口にするのはばかげていることは分かっているが、私はこの就任式で自分が米国人であることを誇りに思った。
この誇りの気持ちはそんなに長くは続かないかもしれないし、第一こんな形で続いて欲しいとも思わない。
しかしオバマが語ると、あたかも詩人が素晴らしい真の詩を読んだ場合と同様、聴いている人はその言葉自身となる。語り手と聴衆が一つとなって呼応するのだ。
すべてはパーフォーマンスではあったけれど、しかしそれでもこの演説は純粋で、単純で、直截的な詩の純粋形式であったと言える。
もちろん、歴史の風はオバマ大統領の背中に激しく吹き付け、彼の言葉をワシントンとその外に広がっている世界に送り届けた。
彼はたくさんのことを極めて短く言わなければならなかった。
しかし、良い詩人がみんなそうであるように、彼は語るためには最低でどれだけの分量が必要かを理解していた。この焦燥感にかられている世界において、そしてあの瞬間において、いかなる必要最最小限度の言語、すなわち、いかなる分量の言語の断片、いかなる的確な言葉の断片が必要にして十分であるかを彼は理解していたのだ。」
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2009/jan/22/poetry-obama-inauguration
4 終わりに
革新的(radical)詩人たる政治家、オバマ。
日本を米国から「独立」させて、政治を復権させるためには、まずもって、ラディカルな思想の復権と現代詩の復権を図らなければならないのかもしれませんね。
そう言えば、オックスフォードに、5年ごとに同大学のOBの投票で新たに選ばれる詩学教授(professor of poetry)の制度がある
http://www.guardian.co.uk/books/2009/jan/22/oxford-poetry-professor
ことを思い出しました。
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
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