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太田述正コラム#2629(2008.6.20)
<仏教雑感(その2)>(2008.12.26公開)
3 仏教に係る最新の学説
ここで、5月にニューヨークタイムスに載った論説に拠って、仏教に係る最新の学説に触れておきましょう。
「・・・ダーウィンの『種の起源』が社会思想に、そしてアインシュタインの相対性理論が芸術に影響を与えたように、神経科学における革命は人々の世界観に影響を及ぼしている。
・・・ここ数年と言うもの、ガチガチの唯物論は影を潜めつつある。大脳は冷たい機械とは違っていて、コンピューターのように動いているわけではないということになりつつある。すなわち、意味、信念、意識はおどろおどろしい神経網(idiosyncratic networks of neural firings)から神秘的に出現するのだ。感情という、つかみ所がなくて情緒的な(squishy)ものがあらゆる思考の形態において巨大な役割を演じる。研究者達は、普遍的な道徳的直感を理解するために多くの時間を費やしている。また、遺伝子は単に利己的ではないように見える。そうではなくて、人々は公平、共感(empathy)、愛着(attachment)の深い本能を持っているように見えるのだ。・・・ペンシルバニア大学のニューバーグ(Andrew Newberg)は、超越的(transcendent)経験が大脳の中で特定でき計量できることを明らかにした。(人々は頭頂葉(parietal lobe)の中の活動の低下を経験することによって、空間(space)へと誘われるのだ。)つまり、心(mind)は自分自身を超越し、より現実感があると感じるところの、より大きな存在と一体となる能力を持っているように見える。
以上のような研究の新しい動向は、戦闘的無神論の形で公共領域に浸透することにはならないだろう。そのかわり、それは、神経的仏教(neural Buddhism)とでも呼べるものへと誘うだろう。
もし皆さんが関連文献にあたれば・・最先端に追いつきたいのなら、私ならNewberg, Daniel J. Siegel, Michael S. Gazzaniga, Jonathan Haidt, Antonio Damasio、そして Marc D. Hauserの本を薦める・・いくつかの点が最大公約数的に浮かび上がってくるだろう。
第一に、自我は固定的実体(entity)ではなく諸関係の動的過程であること。
第二に、様々な宗教がまとった緑青(patina)をそぎ落とせば、世界中の人々は共通の道徳的直感を持っていること。
第三に、人々は、互いの境界を超越して愛で満たされることによって高みに昇るという瞬間を経験する装置、すなわち聖なるものを経験する装置を与えられていること。
第四に、神とは、その時々に人が経験する自然、すなわちそこにある不可知なるものの総体、であると考えるのが一番もっともらしいこと。
<戦闘的無神論者たる>ヒッチェンス(Christopher Hitchens)やドーキンス(Richard Dawkins)との議論で、信心深い人々が神の存在を守ろうとしても、守りきれるものではない。しかし、聖なるものの存在を感じる人々を論駁しようとしても容易なことではない。・・・なぜなら、これらの人々は、仏教と重なり合うところの信条を持つ科学者達が相手だからだ。
予期しなかった形で、科学と神秘主義が手を携え、相互に補強し合っている。これが聖なる法則や啓示(revelation)より自己超越(self-transcendence)を強調する新しい運動をもたらすことは必至だ。・・・」
(以上、
http://www.nytimes.com/2008/05/13/opinion/13brooks.html?ref=opinion&pagewanted=print
(5月14日アクセス)による。)
小むつかしくて読むのがさぞホネであったろうと推察しますが、要するにキリスト教を始めとする有神論は科学によって否定されつつあるけれど、仏教だけは科学が進めば進むほど、正しさが裏付けられつつある、ということを言っているのです。
最後に、「世界中の人々<が>共通の道徳的直感を持っていること」の例証を一つ挙げておきましょう。
イラクで米軍の有輪装甲兵員輸送車に銃座から手榴弾が投げ込まれたのを目撃した機関銃手たる米兵が、「手榴弾だ」と叫びながら銃座を滑り落ちてその手榴弾の上に仰向けに横たわり、爆発によって彼は即死したものの、周りにいた4人の兵士が助かり、ブッシュ大統領が、この機関銃手の遺族に名誉記念賞を授与しました(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-na-medal3-2008jun03,0,3091822.story
。6月3日アクセス)。
これはまさに仏教に言うところの、「衆生のために身命を捨てる」高貴な行為(
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/4-syasinsyako.htm。6月24日アクセス)だと思いませんか。
4 終わりに
以前にも同趣旨のことを申し上げたと思いますが、ミャンマーにおける上座部仏教僧侶達とチベット圏におけるチベット仏教僧侶達それぞれの戦いは、やや単純化して総括すれば、科学によって裏打ちされた宗教の担い手達による、アジアにおける自由民主主義確立のための戦いである、と言えるのではないでしょうか。
(完)
<仏教雑感(その2)>(2008.12.26公開)
3 仏教に係る最新の学説
ここで、5月にニューヨークタイムスに載った論説に拠って、仏教に係る最新の学説に触れておきましょう。
「・・・ダーウィンの『種の起源』が社会思想に、そしてアインシュタインの相対性理論が芸術に影響を与えたように、神経科学における革命は人々の世界観に影響を及ぼしている。
・・・ここ数年と言うもの、ガチガチの唯物論は影を潜めつつある。大脳は冷たい機械とは違っていて、コンピューターのように動いているわけではないということになりつつある。すなわち、意味、信念、意識はおどろおどろしい神経網(idiosyncratic networks of neural firings)から神秘的に出現するのだ。感情という、つかみ所がなくて情緒的な(squishy)ものがあらゆる思考の形態において巨大な役割を演じる。研究者達は、普遍的な道徳的直感を理解するために多くの時間を費やしている。また、遺伝子は単に利己的ではないように見える。そうではなくて、人々は公平、共感(empathy)、愛着(attachment)の深い本能を持っているように見えるのだ。・・・ペンシルバニア大学のニューバーグ(Andrew Newberg)は、超越的(transcendent)経験が大脳の中で特定でき計量できることを明らかにした。(人々は頭頂葉(parietal lobe)の中の活動の低下を経験することによって、空間(space)へと誘われるのだ。)つまり、心(mind)は自分自身を超越し、より現実感があると感じるところの、より大きな存在と一体となる能力を持っているように見える。
以上のような研究の新しい動向は、戦闘的無神論の形で公共領域に浸透することにはならないだろう。そのかわり、それは、神経的仏教(neural Buddhism)とでも呼べるものへと誘うだろう。
もし皆さんが関連文献にあたれば・・最先端に追いつきたいのなら、私ならNewberg, Daniel J. Siegel, Michael S. Gazzaniga, Jonathan Haidt, Antonio Damasio、そして Marc D. Hauserの本を薦める・・いくつかの点が最大公約数的に浮かび上がってくるだろう。
第一に、自我は固定的実体(entity)ではなく諸関係の動的過程であること。
第二に、様々な宗教がまとった緑青(patina)をそぎ落とせば、世界中の人々は共通の道徳的直感を持っていること。
第三に、人々は、互いの境界を超越して愛で満たされることによって高みに昇るという瞬間を経験する装置、すなわち聖なるものを経験する装置を与えられていること。
第四に、神とは、その時々に人が経験する自然、すなわちそこにある不可知なるものの総体、であると考えるのが一番もっともらしいこと。
<戦闘的無神論者たる>ヒッチェンス(Christopher Hitchens)やドーキンス(Richard Dawkins)との議論で、信心深い人々が神の存在を守ろうとしても、守りきれるものではない。しかし、聖なるものの存在を感じる人々を論駁しようとしても容易なことではない。・・・なぜなら、これらの人々は、仏教と重なり合うところの信条を持つ科学者達が相手だからだ。
予期しなかった形で、科学と神秘主義が手を携え、相互に補強し合っている。これが聖なる法則や啓示(revelation)より自己超越(self-transcendence)を強調する新しい運動をもたらすことは必至だ。・・・」
(以上、
http://www.nytimes.com/2008/05/13/opinion/13brooks.html?ref=opinion&pagewanted=print
(5月14日アクセス)による。)
小むつかしくて読むのがさぞホネであったろうと推察しますが、要するにキリスト教を始めとする有神論は科学によって否定されつつあるけれど、仏教だけは科学が進めば進むほど、正しさが裏付けられつつある、ということを言っているのです。
最後に、「世界中の人々<が>共通の道徳的直感を持っていること」の例証を一つ挙げておきましょう。
イラクで米軍の有輪装甲兵員輸送車に銃座から手榴弾が投げ込まれたのを目撃した機関銃手たる米兵が、「手榴弾だ」と叫びながら銃座を滑り落ちてその手榴弾の上に仰向けに横たわり、爆発によって彼は即死したものの、周りにいた4人の兵士が助かり、ブッシュ大統領が、この機関銃手の遺族に名誉記念賞を授与しました(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-na-medal3-2008jun03,0,3091822.story
。6月3日アクセス)。
これはまさに仏教に言うところの、「衆生のために身命を捨てる」高貴な行為(
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/4-syasinsyako.htm。6月24日アクセス)だと思いませんか。
4 終わりに
以前にも同趣旨のことを申し上げたと思いますが、ミャンマーにおける上座部仏教僧侶達とチベット圏におけるチベット仏教僧侶達それぞれの戦いは、やや単純化して総括すれば、科学によって裏打ちされた宗教の担い手達による、アジアにおける自由民主主義確立のための戦いである、と言えるのではないでしょうか。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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