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太田述正コラム#2844(2008.10.11)
<ソ連における米国棄民(その1)>(2008.11.26公開)

1 始めに

 米国は、もともとアングロサクソン文明に欧州文明が混淆したキメラ的文明の国であり、選民意識及びそれと裏腹の関係にある有色人種等への差別意識を抱き、むき出しの軍事力の行使とカネの追求を是とするけれど自国以外のことには極めて疎いという偏向のある、できそこないの(bastard)アングロサクソンであるわけですが、その米国がとりわけ逸脱行動に走ったのが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる戦間期です。
 すなわち、米国は、当時既に世界一の経済大国となっていたところ、「同じ」アングロサクソンである英国(直接的にはカナダ)やアングロサクソン文明と世界で最も親和的であるところの日本文明の日本とを敵視し、大英帝国と日本帝国の瓦解を目論む一方で、本来アングロサクソン文明の仇敵たる欧州文明由来の民主主義独裁の極限形態である共産主義のソ連、ファシズムのナチスドイツに対しては宥和政策をとり、かつ自らの失政から世界大恐慌を引き起こすことによって、共産主義による長期間の、かつファシズムによる短期間の大虐殺と第二次世界大戦の惨禍という人類史上最大の悲劇の原因をつくったのです。

 今回は、この米国の対ソ宥和政策がいかに大きな悲劇を自国民にももたらしたかを、
ティム・ズリアデス(Tim Tzouliadis)が上梓した'The Forsaken: An American Tragedy in Stalin's Russia'
(の書評)を通じて明らかにしようというものです。

 (以下、書評
http://features.csmonitor.com/books/2008/10/09/the-forsaken-an-american-tragedy-in-stalins-russia
http://www.spectator.co.uk/print/the-magazine/books/852286/deluded-and-abandoned.thtml
http://www.barnesandnoble.com/bn-review/note.asp?note=18567782
http://www.washingtontimes.com/news/2008/aug/17/when-the-workers-paradise-was-not/"、
http://www.lootedart.com/N7EVN0284841_print;Y
http://www.chron.com/disp/story.mpl/life/books/reviews/5930961.html
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2008/09/01/DDPF11TTKL.DTL&type=printable
http://www.frontpagemag.com/articles/Read.aspx?GUID=DD564504-2BA1-4BD5-B5D6-C75063DF51F7
(いずれも10月11日アクセス)による。)

 ちなみに、ズリアデスは、ロンドンを拠点とした英国人たるドキュメンタリー・フィルム制作者でありジャーナリストです。

2 ソ連における米国棄民

 大恐慌のまっただ中の1930年代中頃、約10,000人の米国市民達が米国の各新聞にソ連が掲載した「助けを求む」という広告を見て、ソ連にわたりました。
 その中には、技師、自動車工、坑夫、床屋、鉛管工、塗装工、調理師、農夫、教授、芸術家、医者等がいました。共産主義者もいたものの、大部分は「労働者の天国」であるソ連におけるよりよい生活を夢見て米国を後にしたのです。
 当時、『新しいロシアの入門書:五カ年計画の話(New Russia's Primer: The Story of the Five-Year Plan)』が米国で7ヶ月にわたってベストセラーになっていました。
 また、1931年には(既にノーベル文学賞を受賞していた)英国人の劇作家バーナード・ショー(George Bernard Shaw)のソ連には希望が充ち満ちているという情熱的なラジオ講話がニューヨークタイムスに転載されていましたし、同じ1931年には米商務省が国内の強い要望に応え、「ソ連における米国市民の雇用」というパンフレットをつくっています。
 この頃だけのことですが、米国への流入人口より流出人口が上回りました。
 1931年の最初の8ヶ月だけでソ連のニューヨーク所在の貿易機関はソ連への移住を希望する人を10万人も受け付けたほどです。
 彼らは、ドイツ、ノルウェー等からソ連にやってきた人々とともに、フォード社が設計図を引いたロシアの自動車工場で働いたりアゼルバイジャンの油田の拡大作業等に従事しました。
 最初は彼らはソ連で大歓迎されました。彼らの存在そのものが不況期の米国の死につつある資本主義に比べての共産主義の優位を裏付けるもののように見えたからです。
 そうこうしているうちに、ソ連当局はこれら米国市民達のパスポートの没収を始めました。
 これは彼らが米国当局に助けを求めることを困難にする目的と、後で米国にスパイを送り込む目的にこれらのパスポートを使う目的からでした。
 それでも米国市民達は幸福感に浸っていました。
 彼らは祝宴を張られ、もてはやされ、最高のホテルの最高の部屋と子供達のための最高の学校をあてがわれました。新聞は彼らのことを書き立て、働いた工場やオフィスでは彼らは英雄扱いされました。

 しかし、やがてスターリンによる大粛正が始まり、これらの米国市民達を悲劇が襲います。
 第一に、無辜の人々がKGBの前身の秘密警察NKVDによって罪をでっちあげられて銃殺されました。合計約700万人がこうして殺されたわけですが、その中に上記米国市民達も含まれていました。
 第二に、こうしてただちに銃殺される運命を免れた、上記米国市民達を含む約3,000万人の人々が収容所(Gulag)送りになりました。そこでの死亡率はしばしば年間30%以上にも達しました。
 第三に、1933年に米ソが国交を樹立し米国がモスクワに大使館を設けたにもかかわらず、歴代の米国大使は上記米国市民達の運命を熟知ていながら何の救済措置も執りませんでした。また、米本国でもローズベルト大統領は、国務省の幹部やニューヨークタイムスのソ連特派員のワルター・デユランティ(Walter Duranty)(コラム#178)からの対ソ宥和的意見に取り囲まれており、死ぬまでスターリンを「ジョー叔父(Uncle Joe)」と呼び、ソ連と友好関係を維持したのです。

(続く)

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