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太田述正コラム#2402(2008.3.4)
<アブラハム系宗教の好戦性>(2008.9.12公開)
1 始めに
米国ニューヨーク州の名門リベラルアーツ大学であるバード大学(Bard College)の宗教学教授である米国人チルトン(Bruce Chilton)が'Abraham's Curse: The Roots of Violence in Judaism, Christianity and Islam'を上梓したので、そのエッセンスをお伝えしましょう。 バード大学はもともとは、ニューヨーク市の英国教会系の大学でしたし、チルトン自身、英国教会の牧師(rector)です。しかも、彼は英ケンブリッジ大学で博士号をとっているのですから、彼はイギリス人の視点で物事を見ていると考えてよいのではないでしょうか。
(以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bard_College
(3月4日アクセス)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Chilton、
http://www.westarinstitute.org/Fellows/chilton.html
(どちらも3月3日アクセス)による。)
2 アブラハム系宗教の好戦性
20世紀は、人類史上最も多数の青年達が生け贄(犠牲)として神に捧げられた世紀だったと言えよう。
アブラハム系宗教の世界においては、戦争やテロ等は、獲物を得たり防衛したりするためと言うよりは、人間、とりわけ青年を神の犠牲に供するためのものなのだ。
それは21世紀の今日においても変わらない。
キリスト教徒はイラクやアフガニスタンで戦い、ユダヤ教徒はレバントで戦い、イスラム過激派はテロ行為にあけくれている。
人間を神の犠牲に供する儀式は石器時代の終わりに都市が生まれた頃に始まった。
注目すべきは旧約聖書の創世記22に出てくるアブラハムとその子イサク(Isaac)の挿話だ。
「イサクは父アブラハムに言った。「お父さん・・焼いて捧げるべき子羊はどこにいるの?」 アブラハムは答えた。「息子よ、神は焼いて捧げるべき子羊を自ら与えてくださるのだ。」・・アブラハムは手を伸ばし、ナイフをとって彼の息子を殺そうとした。」
がそのさわりの箇所だ。
神はアブラハムに彼の息子をモリア(Moriah)山で犠牲に供するよう命じたのだが、最後の瞬間に天使がアブラハムを押しとどめ、アブラハムの信仰ぶりは証明されたので代わりにその子羊を犠牲に供せよと告げたのだった。
この挿話を素直に読めば、人間の犠牲を神はお望みになっておられないということなのだが、旧約聖書を聖典とする、いわゆるアブラハム系宗教であるところの、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、この挿話の解釈を180度ねじまげ、殉教を褒め称えるに至った。
紀元前2世紀(BC167〜160年)、ユダヤ教徒はアレキサンダー大王の帝国の末裔の一つであるセレウコス朝(Seleucid dynasty)からの独立運動(マカベー=Maccabees)を起こし、自己犠牲的ゲリラ戦争を行って独立に成功する。
このことが、ユダヤ教徒をして、ヘブライ語でアケダ(Aqedah=binding=約束)と呼ばれるところの、上記旧約挿話を変形させた。アブラハムの高貴さとイサクの死を望む気持ちを強調するもの、アブラハムがイサクを殺してから神がイサクを蘇生させるもの、が現れたのだ。
このマカベー精神に基づき、ユダヤ教徒はローマ軍に紀元後73年にマサダ(Masada)で包囲された時に集団自殺を決行し、中世に欧州でポグロムが起きるとキリスト教徒に殺される前に親は自分の子供達を殺し、19世紀末には戦闘的シオニズムを生んだ。つい最近では、パレスティナ人に土地を割譲しすぎるとして1995年にイスラエル首相のラビン(Yitzhak Rabin)を極右のユダヤ教徒が暗殺した。
また、キリスト教徒は、イエスが、自分に従う者は必要と思えば進んで「十字架にかかれ」と述べたことを踏まえ、ローマ帝国によって残虐に迫害された時には慫慂として殉教し、感嘆したローマ人達をキリスト教への改宗へと誘った。そして、カトリック教会は、イサクが犠牲として捧げられる寸前まで行ったことを、イエスの十字架刑という究極の犠牲の不完全な前兆と解釈するようになった。
キリスト教がローマ帝国の国教になってからは、キリスト教徒たるローマ軍兵士は、殉教の装いの下で戦い始めた。これが、十字軍、ポグロム、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争、ナショナリズムに藉口した戦争等をもたらすことになる。
イスラム教の場合も、コーランそのものには特段好戦性を見出せないものの、やはり後にアケダ挿話に変形が施される。アブラハムは攻撃的な人物であって神しかアブラハムを押し止めることはできなかったとか、アブラハムのもう一人の息子で、アラブ人の祖先とされるイシュマエル(Ishmael)が実は犠牲に供されたとかいった変形だ。そしてこの後者の変形が、危機と目される時に、極端な手段に訴えることを正当化してきたのだ。
自爆テロとか米国に対する9.11同時多発テロが現代におけるその発現形態だ。
つまり、アブラハム系宗教の世界では、戦争やテロ等は、人間の生理、心理、政治、経済、地理、宗教的要因で起きるというより、神に青年の犠牲を捧げるという文化によって起きているということだ。
だから、アブラハム系宗教の世界で戦争やテロ等を大幅に減少させるためには、神に青年の犠牲を捧げるという文化を変えるしかない。
このことは、文化を変えることはできるのだから、決して不可能ではない。
ユダヤ、キリスト、イスラム教という三つの宗教の信者が、旧約聖書の創世記22を素直かつ正しく読むことに努めれば、いつかきっとこの悪しき文化を擲つことができるはずなのだ。
(以上、
http://www.latimes.com/features/books/la-et-book26feb26,0,4237107,print.story
(2月28日アクセス)、
http://www.amazon.com/Abrahams-Curse-Violence-Judaism-Christianity/dp/B0013TX6PS、
http://www.bookloons.com/cgi-bin/Review.asp?bookid=9258、
疑問
http://targuman.org/blog/?p=1165
(いずれも3月3日アクセス)による。)
3 終わりに
私の言うところの欧州文明の起源はローマ文明であり、ローマ文明の淵源はギリシャ文明とキリスト教です。
このキリスト教が欧州文明に与えた負の遺産の一つがチルトンの指摘する、青年を犠牲として神に捧げるというエートスである、というわけです。
チルトンによれば、キリスト教はイスラム教にも同じエートスを継受させることでイスラム教を「汚染」したことになります。
私には、イギリス人がチルトンの口を借りて、欧州文明やイスラム文明、更にはアングロサクソン文明と欧州文明のキメラである米国の野蛮さを冷笑しているように思えるのですが、皆さんいかがですか。
<アブラハム系宗教の好戦性>(2008.9.12公開)
1 始めに
米国ニューヨーク州の名門リベラルアーツ大学であるバード大学(Bard College)の宗教学教授である米国人チルトン(Bruce Chilton)が'Abraham's Curse: The Roots of Violence in Judaism, Christianity and Islam'を上梓したので、そのエッセンスをお伝えしましょう。 バード大学はもともとは、ニューヨーク市の英国教会系の大学でしたし、チルトン自身、英国教会の牧師(rector)です。しかも、彼は英ケンブリッジ大学で博士号をとっているのですから、彼はイギリス人の視点で物事を見ていると考えてよいのではないでしょうか。
(以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bard_College
(3月4日アクセス)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Chilton、
http://www.westarinstitute.org/Fellows/chilton.html
(どちらも3月3日アクセス)による。)
2 アブラハム系宗教の好戦性
20世紀は、人類史上最も多数の青年達が生け贄(犠牲)として神に捧げられた世紀だったと言えよう。
アブラハム系宗教の世界においては、戦争やテロ等は、獲物を得たり防衛したりするためと言うよりは、人間、とりわけ青年を神の犠牲に供するためのものなのだ。
それは21世紀の今日においても変わらない。
キリスト教徒はイラクやアフガニスタンで戦い、ユダヤ教徒はレバントで戦い、イスラム過激派はテロ行為にあけくれている。
人間を神の犠牲に供する儀式は石器時代の終わりに都市が生まれた頃に始まった。
注目すべきは旧約聖書の創世記22に出てくるアブラハムとその子イサク(Isaac)の挿話だ。
「イサクは父アブラハムに言った。「お父さん・・焼いて捧げるべき子羊はどこにいるの?」 アブラハムは答えた。「息子よ、神は焼いて捧げるべき子羊を自ら与えてくださるのだ。」・・アブラハムは手を伸ばし、ナイフをとって彼の息子を殺そうとした。」
がそのさわりの箇所だ。
神はアブラハムに彼の息子をモリア(Moriah)山で犠牲に供するよう命じたのだが、最後の瞬間に天使がアブラハムを押しとどめ、アブラハムの信仰ぶりは証明されたので代わりにその子羊を犠牲に供せよと告げたのだった。
この挿話を素直に読めば、人間の犠牲を神はお望みになっておられないということなのだが、旧約聖書を聖典とする、いわゆるアブラハム系宗教であるところの、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、この挿話の解釈を180度ねじまげ、殉教を褒め称えるに至った。
紀元前2世紀(BC167〜160年)、ユダヤ教徒はアレキサンダー大王の帝国の末裔の一つであるセレウコス朝(Seleucid dynasty)からの独立運動(マカベー=Maccabees)を起こし、自己犠牲的ゲリラ戦争を行って独立に成功する。
このことが、ユダヤ教徒をして、ヘブライ語でアケダ(Aqedah=binding=約束)と呼ばれるところの、上記旧約挿話を変形させた。アブラハムの高貴さとイサクの死を望む気持ちを強調するもの、アブラハムがイサクを殺してから神がイサクを蘇生させるもの、が現れたのだ。
このマカベー精神に基づき、ユダヤ教徒はローマ軍に紀元後73年にマサダ(Masada)で包囲された時に集団自殺を決行し、中世に欧州でポグロムが起きるとキリスト教徒に殺される前に親は自分の子供達を殺し、19世紀末には戦闘的シオニズムを生んだ。つい最近では、パレスティナ人に土地を割譲しすぎるとして1995年にイスラエル首相のラビン(Yitzhak Rabin)を極右のユダヤ教徒が暗殺した。
また、キリスト教徒は、イエスが、自分に従う者は必要と思えば進んで「十字架にかかれ」と述べたことを踏まえ、ローマ帝国によって残虐に迫害された時には慫慂として殉教し、感嘆したローマ人達をキリスト教への改宗へと誘った。そして、カトリック教会は、イサクが犠牲として捧げられる寸前まで行ったことを、イエスの十字架刑という究極の犠牲の不完全な前兆と解釈するようになった。
キリスト教がローマ帝国の国教になってからは、キリスト教徒たるローマ軍兵士は、殉教の装いの下で戦い始めた。これが、十字軍、ポグロム、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争、ナショナリズムに藉口した戦争等をもたらすことになる。
イスラム教の場合も、コーランそのものには特段好戦性を見出せないものの、やはり後にアケダ挿話に変形が施される。アブラハムは攻撃的な人物であって神しかアブラハムを押し止めることはできなかったとか、アブラハムのもう一人の息子で、アラブ人の祖先とされるイシュマエル(Ishmael)が実は犠牲に供されたとかいった変形だ。そしてこの後者の変形が、危機と目される時に、極端な手段に訴えることを正当化してきたのだ。
自爆テロとか米国に対する9.11同時多発テロが現代におけるその発現形態だ。
つまり、アブラハム系宗教の世界では、戦争やテロ等は、人間の生理、心理、政治、経済、地理、宗教的要因で起きるというより、神に青年の犠牲を捧げるという文化によって起きているということだ。
だから、アブラハム系宗教の世界で戦争やテロ等を大幅に減少させるためには、神に青年の犠牲を捧げるという文化を変えるしかない。
このことは、文化を変えることはできるのだから、決して不可能ではない。
ユダヤ、キリスト、イスラム教という三つの宗教の信者が、旧約聖書の創世記22を素直かつ正しく読むことに努めれば、いつかきっとこの悪しき文化を擲つことができるはずなのだ。
(以上、
http://www.latimes.com/features/books/la-et-book26feb26,0,4237107,print.story
(2月28日アクセス)、
http://www.amazon.com/Abrahams-Curse-Violence-Judaism-Christianity/dp/B0013TX6PS、
http://www.bookloons.com/cgi-bin/Review.asp?bookid=9258、
疑問
http://targuman.org/blog/?p=1165
(いずれも3月3日アクセス)による。)
3 終わりに
私の言うところの欧州文明の起源はローマ文明であり、ローマ文明の淵源はギリシャ文明とキリスト教です。
このキリスト教が欧州文明に与えた負の遺産の一つがチルトンの指摘する、青年を犠牲として神に捧げるというエートスである、というわけです。
チルトンによれば、キリスト教はイスラム教にも同じエートスを継受させることでイスラム教を「汚染」したことになります。
私には、イギリス人がチルトンの口を借りて、欧州文明やイスラム文明、更にはアングロサクソン文明と欧州文明のキメラである米国の野蛮さを冷笑しているように思えるのですが、皆さんいかがですか。
太田述正ブログは移転しました 。
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