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太田述正コラム#2138(2007.10.21)
<あの英帝国を興し滅ぼした米国(その1)>(2008.5.13公開)

1 始めに

 上梓されたばかりの、英国人のブレンドン(Piers Brendon)による『大英帝国の衰亡(The Decline and Fall of the British Empire)』は、いわずと知れた、ギボン(Edward Gibbon。1737〜94年)の『ローマ帝国衰亡史(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)』をもじったタイトルですが、それは単なるもじり以上の意味を持ったネーミングなのです。
 というのは、ギボンが何巻にもわたるこの本の第1巻を刊行したのは、1776年という米独立宣言が発せられ、英領北米植民地と英国が戦争を行っていた時であり、ブレンドンは『大英帝国の衰亡』の記述を、この米独立戦争から始めているからです。
 米独立戦争が始まった時、英国は既に世界帝国でしたが、その海外領土の大部分を西の北米植民地が占めており、この北米植民地を失うことで、英国の第一次世界帝国は瓦解し、その後、今度は英国が東に海外領土を獲得して第二次世界帝国を形成するわけです。これこそがわれわれのおなじみのあの大英帝国です。
 ブレンドンはこの大英帝国が衰亡するまでを描いたわけです。

 (以下、ここまでを含め、特に断っていない限り、ブレンドンの本の書評である
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2195096,00.html
(10月19日アクセス)、と
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2195833,00.html
(10月21日アクセス)、及び米独立戦争に関する
http://www.nytimes.com/2007/07/05/opinion/05rose.html?pagewanted=print
(7月6日アクセス)、と
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/09/AR2007080901914.html
(8月12日アクセス)による。)

2 あの大英帝国を興すことになった米独立戦争

 英国が米独立戦争で直面した状況は、現在米国がイラクで直面している状況と極めて似通ったものがありました。
 すなわち、英国は、十分でない兵力を北米植民地に送り込み、植民地の独立派のゲリラ戦術に悩まされたのです。しかも、私に言わせれば、独立派の多くは宗教原理主義者だったのです。
 独立派はこのゲリラ戦術を、インディアンとの戦いを通じて習得しました。
 インディアンが英領植民地人に対して行った待ち伏せ攻撃、ヒットアンドラン作戦、機動的戦略、テロや拷問、女性や子供や老人の殺戮、村の破壊や食糧の焼き討ち、を独立派は今度は英軍や英軍への協力者に対して行ったのです。
 当然英軍も独立派の兵士達に対して残虐な行為でお返しをしました。
 捕虜になった独立派の兵士は、手や足を切り落とされ、頭蓋骨を粉砕され、動脈を切開され、或いは騎兵によって首を切り落とされ、馬で踏みにじられて虐殺され、銃剣で腹を切り裂かれました(注1)。

 (注1)これは日本軍が支那事変の際に支那でやったとされていることを彷彿とさせる。ゲリラまたはゲリラ的に戦う正規軍とれっきとした正規軍が戦うと、どこでも似たようなことが起きる、ということではないか。

 しかし、1781年に至って、バージニア植民地のヨークタウン(Yorktown)でコーウォリス(Charles Cornwallis。1738〜1805年)卿率いる英軍が手ひどい敗北を喫した時点で、当時の英国の野党であったホイッグ党のロッキンガム(Charles Watson-Wentworth。1730〜82年)卿党首以下が、独立を認めるように英国王のジョージ3世(George 3。1738〜1820年)及びその閣僚達を説得し、英国は13の北米植民地からの撤退を決断するのです。
 英軍は、軍楽隊が「世界の天と地がひっくり返った(The World Turned Upside Down.)」という楽曲を奏でながら撤退していきました。
 この時点では、ジョージ3世もその閣僚達も、そしてコーンウォレスも、北米は無秩序な世界になるだろうし、英帝国全体が瓦解するだろうと思いこんでいました。
 首相のノース(Frederick North。1732〜92年)卿は、両腕を突き出して「神よ、全ては終わった」と叫んだと伝えられています。
 彼らは、フランスやスペイン等が北米と西インド諸島の残りの英領植民地を奪取するだろうし、北米植民地の独立に勇気づけられてアイルランドも叛乱を起こすだろうし、早晩英国はブリテン島だけの取るに足らない存在になってしまうかもしれない、と思っていたのです。
 しかし、後になって振り返れば、この時英国が13北米植民地から撤退していなかったならば、第2次英帝国、すなわちあの大英帝国が築かれることはありえず、例えばインド人などは、フランス語かポルトガル語をしゃべることになっていたことでしょう。インドが世界最大の民主主義国家になっていたかどうかだって分かったものではありません。
 英国の当時日の出る勢いであった政治家の小ピット(William Pitt the Younger。1759〜1806年)は、米独立戦争等の戦費のために英国は破産寸前であったけれど、英国は産業革命期に入っていたので高い経済成長が見込めると思っており、1783年に首相になると、さっそく英国が再び帝国を築くために必要な経済政策を採用します。
 それに加えてピットは、1784年にインド法を成立させ、北米植民地行政におけるような失敗を他の植民地で繰り返すことがないようにしました。(コーンウォレスは、インド総督に任じられます。)
 最も大事なことは、ピットが英国の海軍と陸軍を再建したことです。
 直接その任にあたったのは、海軍はネルソン(Horatio Nelson。1758〜1805年)であり、陸軍はジョージ3世の第2子であるヨーク公爵(Frederick, Duke of York。1763〜1827年)とウェリントン(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington。1769〜1852年)であり、彼らは北米植民地での失敗を二度と繰り返すまいと決意したのです。
 このおかげで、英国はナポレオンのフランスに最終的に軍事的勝利を収めることができ、その結果文字通りの世界の覇権国になるのです。

(続く)

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