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太田述正コラム#2102(2007.10.3)
<歴史の教訓の陥穽>(2008.4.12公開)
1 始めに
私は情勢分析を、グローバルな視点から、歴史を踏まえて行うように努めていますが、「グローバルな視点から」の方はともかくとして、「歴史を踏まえて」の方はよほど慎重にしないといけない、という話を今回はしようと思います。
2 歴史は繰り返さない
まず気をつけなければならないことは、歴史は全く同じ形で繰り返されることはない、ということです。
1914年に第一次世界大戦が始まった時、まだ参戦していなかった米国のウィルソン(Woodrow Wilson)大統領は、私信の中で次のように記しました。
「<英国の欧州の国に対する海上封鎖をめぐって米英間で緊張が高まっているという点で、>1812年の<米英>戦争の時と現在とはそっくりだ。このまま事態が進んでいくことのないことを祈っている」と(注)。
(注)米英戦争の時の大統領はマディソン(James Madison)だったが、マディソン同様自分もプリンストン大学卒(の2番目の大統領)であったことがウィルソンのこの心配に拍車をかけた。なお、このエピソードは、英国が、第二次世界大戦直前まで米国の第一の潜在敵国であった(コラム#1621、1633)ことを改めて想起させてくれる。
ところが、このウィルソンの心配は杞憂に終わり、米国が英国の側に立って第一次世界大戦に参戦することになったことは皆さんご存じの通りです。
また、1962年のキューバ危機の時、ケネディ(John F. Kennedy)政権の閣僚の中には、ただちにキューバのソ連ミサイル基地を爆撃しないと1938年の英国首相チェンバレン(Neville Chamberlain)による対ヒットラー宥和政策の二の舞になると主張した人々がいました。
これに対し、ケネディ大統領は、それでは真珠湾の逆のケースになってしまうと反論し、海上封鎖で対応することを選択し、最終的に危機は回避されることになりました。
更に、米国のベトナム戦争への本格介入の前、ジョンソン(Lyndon B. Johnson)政権内では、朝鮮戦争を教訓とする者や上記の対ヒットラー融和策を教訓とする者が多く、1954年のフランスのベトナムからの撤退を教訓とする者が少なかったため、結局米国は本格介入することとなり、その結果は惨憺たるものになりました。
うまくいった前者は適切な歴史を教訓としたからだし、失敗した後者は不適切な歴史を教訓としたからだ、と思われるかもしれません。
しかし、ウィルソンの事例も併せ勘案すると、歴史は全く同じ形で繰り返されることはありえないのであって、歴史を教訓的に用いることには自ずから限界がある、ということではないでしょうか。
(以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/08/26/weekinreview/26kirkpatrick.html?ref=world&pagewanted=print
(8月27日アクセス)による。)
3 歴史が歪曲されていることもある
次に気をつけなければならないことは、われわれはしばしば歴史を歪曲して身につけているということです。
歪曲された歴史は、教訓的に用いることの限界を論ずる以前に、そもそも教訓的に用いてはならないのです。
本稿中でさえ既に2度も登場したことからもお分かりのように、チェンバレンの対ヒットラー(Adolf Hitler)融和策は、歴史の教訓の定番になっていますが、チェンバレンに対するこのような見方は誤りだ、と英ファイナンシャルタイムスの首席国際問題コラムニストのラックマン(Gideon Rachman)が、次のように噛みついています。
チェンバレンはミュンヘンでのヒットラーとの首脳会談で、第一に弱小国(チェコスロバキア)を犠牲として独裁者に捧げるという不名誉を犯した、第二にヒットラーに対して宥和したことによってヒットラーをより侵略的にしてしまい、必然的に、より大規模で血腥い戦争をもたらした、と一般に非難されている。
しかし、第一について言えば、チェンバレンが世界戦争を回避しようとしたことは決して非難されるべきではないし、そもそもフランスと違って英国はチェコスロバキアに対して何ら条約上の義務を負っていなかった。つまり、彼はより大きな悪を回避するために小悪を甘受したのだ。
第二について言えば、ヒットラーはあの時点で戦争が起きるのを望んでいたのであり、ミュンヘン会談の結果臍をかんだのはヒットラーの方であったことがこのところの研究で明らかになっている。
実際、戦争を1939年まで引き延ばしたことで、英国は空軍力の増強を図ることができ、おかげで英本土の制空権をめぐるドイツとの戦い(Battle of Britain)に勝利することができたのだ。
それに、1938年の時点では英国の世論は圧倒的に戦争反対だった。だからこの時点で開戦していたら、英国の国論は分裂していただろう。ヒットラーがミュンヘン協定を破り、更にポーランドに侵攻したことによって、1939年に英国の世論はこぞって開戦に賛成したのだ。
更に、百歩譲って英国は1938年に開戦すべきだったとしても、それでもなおチェンバレンを責めるのは酷というものだ。
というのは、ナチスドイツのように好戦的で向こう見ずな独裁体制は歴史上稀だからだ。
スターリンのソ連だって、毛沢東の中共だって、サダム・フセインのイラクだって、ヒットラーほど好戦的でも向こう見ずでもなかったことを想起して欲しい。
ここのところが分かっていなかったために、1956年にイーデン(Anthony Eden)英首相は、スエズ運河を国有化したエジプトのナセル(Gamal Abdel Nasser)をヒットラーだと思いこんで、エジプトに先制攻撃を仕掛けるという過ちを犯したのであるし、1964年にジョンソンは、自身が後に語っているように、ホーチミン(Ho Chi Minh)がヒットラーだと思いこんでベトナムに本格介入する決定を行うという過ちを犯したのだ。
(以上、
http://www.ft.com/cms/s/0/9680de94-6aaf-11dc-9410-0000779fd2ac.html
(9月25日アクセス)による。)
4 終わりに
一筋縄でいかないからこそ、歴史は面白い、と思いませんか?
<歴史の教訓の陥穽>(2008.4.12公開)
1 始めに
私は情勢分析を、グローバルな視点から、歴史を踏まえて行うように努めていますが、「グローバルな視点から」の方はともかくとして、「歴史を踏まえて」の方はよほど慎重にしないといけない、という話を今回はしようと思います。
2 歴史は繰り返さない
まず気をつけなければならないことは、歴史は全く同じ形で繰り返されることはない、ということです。
1914年に第一次世界大戦が始まった時、まだ参戦していなかった米国のウィルソン(Woodrow Wilson)大統領は、私信の中で次のように記しました。
「<英国の欧州の国に対する海上封鎖をめぐって米英間で緊張が高まっているという点で、>1812年の<米英>戦争の時と現在とはそっくりだ。このまま事態が進んでいくことのないことを祈っている」と(注)。
(注)米英戦争の時の大統領はマディソン(James Madison)だったが、マディソン同様自分もプリンストン大学卒(の2番目の大統領)であったことがウィルソンのこの心配に拍車をかけた。なお、このエピソードは、英国が、第二次世界大戦直前まで米国の第一の潜在敵国であった(コラム#1621、1633)ことを改めて想起させてくれる。
ところが、このウィルソンの心配は杞憂に終わり、米国が英国の側に立って第一次世界大戦に参戦することになったことは皆さんご存じの通りです。
また、1962年のキューバ危機の時、ケネディ(John F. Kennedy)政権の閣僚の中には、ただちにキューバのソ連ミサイル基地を爆撃しないと1938年の英国首相チェンバレン(Neville Chamberlain)による対ヒットラー宥和政策の二の舞になると主張した人々がいました。
これに対し、ケネディ大統領は、それでは真珠湾の逆のケースになってしまうと反論し、海上封鎖で対応することを選択し、最終的に危機は回避されることになりました。
更に、米国のベトナム戦争への本格介入の前、ジョンソン(Lyndon B. Johnson)政権内では、朝鮮戦争を教訓とする者や上記の対ヒットラー融和策を教訓とする者が多く、1954年のフランスのベトナムからの撤退を教訓とする者が少なかったため、結局米国は本格介入することとなり、その結果は惨憺たるものになりました。
うまくいった前者は適切な歴史を教訓としたからだし、失敗した後者は不適切な歴史を教訓としたからだ、と思われるかもしれません。
しかし、ウィルソンの事例も併せ勘案すると、歴史は全く同じ形で繰り返されることはありえないのであって、歴史を教訓的に用いることには自ずから限界がある、ということではないでしょうか。
(以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/08/26/weekinreview/26kirkpatrick.html?ref=world&pagewanted=print
(8月27日アクセス)による。)
3 歴史が歪曲されていることもある
次に気をつけなければならないことは、われわれはしばしば歴史を歪曲して身につけているということです。
歪曲された歴史は、教訓的に用いることの限界を論ずる以前に、そもそも教訓的に用いてはならないのです。
本稿中でさえ既に2度も登場したことからもお分かりのように、チェンバレンの対ヒットラー(Adolf Hitler)融和策は、歴史の教訓の定番になっていますが、チェンバレンに対するこのような見方は誤りだ、と英ファイナンシャルタイムスの首席国際問題コラムニストのラックマン(Gideon Rachman)が、次のように噛みついています。
チェンバレンはミュンヘンでのヒットラーとの首脳会談で、第一に弱小国(チェコスロバキア)を犠牲として独裁者に捧げるという不名誉を犯した、第二にヒットラーに対して宥和したことによってヒットラーをより侵略的にしてしまい、必然的に、より大規模で血腥い戦争をもたらした、と一般に非難されている。
しかし、第一について言えば、チェンバレンが世界戦争を回避しようとしたことは決して非難されるべきではないし、そもそもフランスと違って英国はチェコスロバキアに対して何ら条約上の義務を負っていなかった。つまり、彼はより大きな悪を回避するために小悪を甘受したのだ。
第二について言えば、ヒットラーはあの時点で戦争が起きるのを望んでいたのであり、ミュンヘン会談の結果臍をかんだのはヒットラーの方であったことがこのところの研究で明らかになっている。
実際、戦争を1939年まで引き延ばしたことで、英国は空軍力の増強を図ることができ、おかげで英本土の制空権をめぐるドイツとの戦い(Battle of Britain)に勝利することができたのだ。
それに、1938年の時点では英国の世論は圧倒的に戦争反対だった。だからこの時点で開戦していたら、英国の国論は分裂していただろう。ヒットラーがミュンヘン協定を破り、更にポーランドに侵攻したことによって、1939年に英国の世論はこぞって開戦に賛成したのだ。
更に、百歩譲って英国は1938年に開戦すべきだったとしても、それでもなおチェンバレンを責めるのは酷というものだ。
というのは、ナチスドイツのように好戦的で向こう見ずな独裁体制は歴史上稀だからだ。
スターリンのソ連だって、毛沢東の中共だって、サダム・フセインのイラクだって、ヒットラーほど好戦的でも向こう見ずでもなかったことを想起して欲しい。
ここのところが分かっていなかったために、1956年にイーデン(Anthony Eden)英首相は、スエズ運河を国有化したエジプトのナセル(Gamal Abdel Nasser)をヒットラーだと思いこんで、エジプトに先制攻撃を仕掛けるという過ちを犯したのであるし、1964年にジョンソンは、自身が後に語っているように、ホーチミン(Ho Chi Minh)がヒットラーだと思いこんでベトナムに本格介入する決定を行うという過ちを犯したのだ。
(以上、
http://www.ft.com/cms/s/0/9680de94-6aaf-11dc-9410-0000779fd2ac.html
(9月25日アクセス)による。)
4 終わりに
一筋縄でいかないからこそ、歴史は面白い、と思いませんか?
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/