太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#2462(2008.4.2)
<過去・現在・未来(続x6)/マリネラの核武装問題:消印所沢通信25(その3)>

1 阿佐ヶ谷ロフト・トークライブ出演報告

 3月31日の阿佐ヶ谷ロフトでのトークライブ出演報告をごくかいつまんでさせていただきます。
 始まる前に楽屋で東京新聞の半田さんと交わした守屋論が大変面白かったのですが、生々しすぎるので省略します。

 前半では、半田さんが、「守屋が石破防衛庁長官(当時)に訪米時に米ミサイル防衛システム開発への日本の協力をぶち上げさせ、福田官房長官(当時)がすぐにそれを打ち消したにもかかわらず、更に画策を続けて、翌年の小泉訪米で、日本が、開発に協力するだけでなくミサイル防衛システムを導入することにまでコミットするに至らしめた」という話をしたことが印象に残っています。
 私は、「守屋は宗主国米国のエージェントとして動いただけのことだろう、米国と守屋の仲介をしたのは宮崎氏や秋山氏ではないか」と述べておきました。
 守屋、宮崎は立件されたが、果たして立件が政治家まで及ぶかについて、フロアの記者の人も交えて議論になりましたが、分からない、というムードでした。
 (なお、休憩時に、楽屋で、某出演者から、連休明け頃には間違いなく政治家が立件されるのではないか、と具体的根拠を示しつつ話がありました。)
 また、イージス艦の役割が話題になり、私から、「イージス艦を含む護衛艦は、空母や揚陸強襲艦を守る以外に使い道はない」と述べた上で、米海軍と海自の日米共同訓練をやる時、海自が護衛隊群で米空母を守らせてくれと申し出てかえって邪魔だと断られたことがあるというエピソードを披露しました。半田さんがこれを受け、「最近のリムパックでは、海自部隊が米空母部隊と行動を共にさせてもらえない」とし、「冷戦時代と違って、海自護衛艦の存在意義はなくなっている」と述べました。そこで、私から、「冷戦時代だって存在意義はなかった」と指摘しておきました。
 途中で、司会の週間金曜日の伊田さんが、「太田さんは凄い内部告発者だ」と言ったのに対し、私から、「自分では内部告発者だとは思っていない、防衛省・自衛隊の実態を明らかにすることによって、自衛隊はまさに憲法第9条の下、何の役にも立たない代物であることを、気前よく大金をイージス艦等に出している皆さんに知ってもらい、喜んでもらうことが目的だ」といつもの調子で混ぜっ返しておきました。伊田さんが、「皆さんとは「左」に人々ですね」と言うので、私は、「いや、「左」だろうが「右」だろうが意識していないのだけれど、どういうわけか、「右」の皆さんは、お前はなんでそんなこと言うのか、と怒るんですよね」と答えておきました。

 後半では、佐高、鎌田、佐藤、という錚々たる出演者が三菱重工は国家そのものだ、と規定した上で、同重工をぶったたき続けるのを静かに拝聴することに努めました。
 本を出したのは鎌田さんではなく、週間金曜日が、自らの連載を本にされたのですね。 私からは、発注者である防衛省が、天下りが減ってしまうこと等から、安くて性能のよいものをつくらせる気がないところへもってきて、武器輸出禁止という自主規制を行っているため安くて性能のよいものをつくっても仕方がない上、重要な装備、例えば戦闘機、について意欲的な国産開発をしようとすると宗主国米国からダメ出しがある、ということを指摘しました。
 そして、F-2が純国産から、米国の圧力で旧式のF-16をベースにした日米共同開発に切り替えられた頃、重工の航空機製作所を訪問したところ、技術者が怒っており、これでは碌なものができないなと予感したところ、案の定、できあがったF-2はバカ高く、要求性能を充たさず、しかも危険な戦闘機になったと付け加えておきました。
 もう一つ、好むと好まざるとにかかわらず、組織革新や技術革新は軍から始まるものであることを簡単に理由を挙げて説明した上で、戦後の日本の技術革新で見るべきものは即席ラーメンとウォークマンくらいだ。これは日本の自衛隊や重工のような軍事機構がいかにダメかを示している。最近重工は小型ジェット旅客機の生産を発表したが、皆さんは、自分らにこんなちんけなリターンしかしてくれないのか、と重工を突き上げるべきだ、とアジっておきました。

2 朝鮮日報の親日狂ぶり続く
 
 「実は、安重根の抱いていたこのような考えは、安自身は気付いていなかったのでしょうが、伊藤博文の考えとほとんど同じだったのです・・。そのような伊藤の考えの実現を不可能にしたのは、当時の支那や朝鮮半島の指導者達の頑迷固陋さでした。朝鮮日報は喉まで出かかっていてもさすがにそこまで踏み込んで記していません」と(コラム#2426で)記したばかりですが、その後も朝鮮日報の親日狂ぶりは続いています(コラム#2444、2459参照)。
 
 つい最近も私の度肝を抜く記事が次々に掲載されています。

 4月1日付の東京特派員の記事は、東郷平八郎が「李舜臣将軍はわたしの師」と語った話や、司馬遼太郎も紹介するところの、日露戦争前後の日本が、李舜臣の戦法を研究するだけでなく、李舜臣の霊に祈りまでささげることを旨としたという話を紹介しつつ、

 「日露戦争での日本の勝利には、弱小国の民族運動を刺激したという世界史的な意味がある。しかしわれわれ韓国人からすれば、日本は帝国主義化、韓国は植民地化へと向かう一つの経過点だった。日本が世界から注目を浴び、強国への道を歩み始めるとき、韓国は静かに姿を消しつつあった。1909年に義士・安重根が伊藤博文を狙撃したときは、東郷艦隊の歴史的評価が最高潮に達したときでもあった。安重根義士が孤立無援の韓国を象徴するとすれば、伊藤博文は日進月歩で躍進する当時の日本を象徴していた。・・<現代韓国の>(人気小説家)キム・フンは「なぜ小説『安重根』が書けないか」で「伊藤博文の生きざまと内面に対する勉強が足りない」と<記している。>・・「勉強が足りない」というのは謙遜だろう。「当時の世界史をありのまま受け入れるには、まだ韓国社会にとって荷が重い」という表現がふさわしいのではないかと思う。東郷艦隊が敵将に祈るときのような「強国になりたい」という熱意が、自己否定に至るほどは切迫していないせいかもしれない。」

と結んでいます。(
http://www.chosunonline.com/article/20080401000039
http://www.chosunonline.com/article/20080401000040
(4月1日アクセス))

 ついに、朝鮮日報は喉まで出かかっていたことを記すに至ったわけです。
 最後のセンテンスこそ、ナショナリズムに藉口した韜晦ですが、要は、ほとんど同じ考えを抱いていた伊藤がいかに苦渋の思いで韓国の属国化を図ったか、忖度することができないまま伊藤を暗殺した安重根は愚かだった、とこの記事は言っているのです。

 3月31日付の記事にも、ただただびっくりしました。

 韓国の現行の歴史教科書の左傾化を是正するという触れ込みで『代案教科書 韓国近・現代史』が出版されたことは承知していましたが、この記事では、あるTV局が、この教科書に「従軍慰安婦が強制ではなく、大金を稼げるという言葉にだまされたものだ」との記述があると問題視したことに対し、執筆者側が、「既存の教科書の誤りを正すため、『挺身隊』と『慰安婦』が明確に別の存在であることを叙述したものであり、当時韓国の慰安婦の大多数が『就職詐欺』によって慰安婦になった点は、既に韓国国内のこれまでの研究成果によって明らかになっている」と反論したと報じているのです(
http://www.chosunonline.com/article/20080331000048
。4月1日アクセス)。

 そんな内容の教科書が韓国で出版されたこと自体もびっくりですが、この記事は、「従軍」慰安婦の実態がまさにそのようなものであったことを朝鮮日報の読者に周知させることが目的であるとしか思えないことに私は何よりもびっくりしたのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<マリネラの核武装問題:消印所沢通信25(その3)>

 --マリネラは原爆情報をいかにして入手したか?・その2--


 『精神の金羊毛を求める探検』※1なる本によれば,天才について次のように述べられている.『彼らは第一列目に立つわけでもなければ、後続の人たちより一歩先を進んでいるわけでもない。 第一級の天才は、思想的に言って、要するにどこか全然別のところにいるのだ』 そして,普通の天才は世間に歓迎されるが,一級の天才は生前は理解されず、認められるのは未来の世代によってであり,そのような天才は,特に小国において埋もれがちなのだという.
 もっともマリネラ王国は,小国ではあるものの,天才を比較的輩出しやすいところとして,生物学や自然人類学上,よく知られた存在である.※2 『ダーウィン以来 進化論への招待』(早川書房、1995年9月)などの著書で知られるスティーヴン・ジェイ・グールドは,このマリネラ王国の特性について,「マリネラ島はバミューダ・トライアングル中央に位置するため,古来より人の出入りが少なく,そのために近親婚が繰り返されたためだろう」と推測している※3 
 様々な奇行で世に知られる現マリネラ国王パタリロ8世は,しばしば「躁鬱病の躁状態だけの人物」などと言われるが,前出の元KGBスドプラトフによると,ヒギンズ3世は逆に内向的で,「ぬぼーっとした人物」だったという. また,レオ・シラードによれば,オッペンハイマーを「問題の全体を見通し,学際の問題について実際的ない解決法を見つけ出すことのできる天才」とするなら,ヒギンズ3世は「問題を引っ掻き回し,第三者には理解不能のやり方でしか解決しない天才」だったという.※4「エドワード・テラー同様※5,ヒギンズ3世もロスアラモスでは浮いた存在であり,研究をいたずらに混乱させるような着想ばかりが目立っていた. 彼が原爆開発において何か貢献できるようには思えなかった」
 しかしオッペンハイマーは,熱意を失った後のテラーに対してと同様,ヒギンズ3世についても「何かしらの役に立つ可能性が少しでもあるなら」と,彼をロスアラモスに留めた. 私的にもオッペンハイマーは,ヒギンズ3世とは気が合ったらしい. それは二人が似たような境遇の持ち主だったからだろうと,スドプラトフは言う.「オッペンハイマーは,当時のマルクス的な平等主義の風潮の中,自分が裕福な生まれであることに引け目を感じていたが,ヒギンズ3世も同じように,ダイヤモンド産業のおかげで裕福な王家の生まれであり,そのことに引け目を感じていた. また,2人とも同じように内向的だった※6」
 そのときロバート・オッペンハイマー,39歳. 一方,ヒギンズ3世は,平均年齢25歳のロスアラモス研究所の中でも最年少の18歳だった.
(つづく)

※1 2008年時点で邦訳は存在しないが,クノ・ムラチェ(Kuno Mlatje)による同書についての書評『イサカのオデュッセウス Odysseus of Ithaca 』が,書評集『完全な真空』(国書刊行会,1989/11)に収録されている.
※2 その地理的特性のせいか,マリネラ王家の天才伝説にはオカルトの趣きもただよっている.
 例えば17世紀に英国艦隊がマリネラ島に来襲した際,ロケット砲やレーザー光線で反撃され,撃退された,とするオカルト伝説が根強く囁かれている.(ロベール・ド・ラ・クロワ著『海洋奇譚集』,白水社,1983/11 など)
 常識的な歴史学者は,この「レーザー」の実態は「ギリシャ火」に似たものであろうと推測している. これはナフサ、硫黄、松やに等の混合物で、大型の鉄筒に入れて砦の上から注いだり,石や鉄の赤熱した弾丸に詰めて発射したり、布切れにつけたものを矢や槍に巻き付けて投擲するなどした. 濃い煙と大きな音を出し、火炎は水をかけても消えなかったという.
※3 『Nature』1994; 371:125-6.
※4 『シラードの証言』(みすず書房,1982)

 なお,シラードはハンガリー人であり,ハンガリー語に忠実に名前を記述するなら「シラールド・レオー」になるが,本編では一般に通用している表現に統一した.
※5 前掲『オッペンハイマー』によれば,彼は原爆開発研究の途中,より大きな爆発力を持つ核融合爆弾の可能性に気づき,そちらを研究の主体にするよう主張したという. しかしそれでは爆弾の開発自体が大幅に遅れるとして,その主張は受け入れられなかった. その結果,テラーは熱意をなくし,最後には原爆開発から外れることになったという.

 なお,テラーもハンガリー人であり,ハンガリー名では「テッレル・エデ」となるが,本編では一般に通用している表現に統一した.
※6 内向的な性格は崩御するまで変わらなかった. ヒギンズ3世の晩年の楽しみは,テレビ・ゲームに熱中することだった.
------------------------------------------------------------------

太田述正コラム#2463(2008.4.2)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続)(その1)>

→非公開

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/