太田述正ブログは移転しました 。
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太田述正コラム#2440(2008.3.23)
<読者の声>
<読者AH>
3月15日の桜チャンネルを拝見しました。
以下、感想を述べます。
(1)日本はアメリカの属国なのか、自衛隊は軍隊ではないのか
【私見】出席者の多くはこの見識に反発していました。わたくしは太田さんの見識に同意します。
とくに荒木氏の“法律的には太田さんの言う通りかもそうかもしれないが、日本は独立国であり、自衛隊は軍隊である。自衛隊は国のために働く覚悟である。太田さん意見は官僚的論議である。”という趣旨の発言には同意できません。現下の安全保障問題の根本は憲法9条の問題です。まさに“法律”が問題なのではないでしょうか?
しかし、かつてもいまも、法律家たちが、憲法9条関連の法解釈あるいは集団的自衛権の議論において、常識で受け入れることが困難な論理を展開するのを目撃するとき、荒木氏の肩を持ちたくもなります。
にもかかわらず、ここはキッパリ割り切るべきです。“そうあってはならない”ことは“ない”のだという「事実と願望のすりかえ」をかかえていては“戦争”に勝てないと思うからです。
(2)国土防衛か世界の平和と安定の維持か
太田さんは“現在の日本に脅威はない、それよりも世界の安定と平和のために貢献することが日本の国益を実現する”という趣旨の発言をしました。これに対して、出席者すべてが、“現に日本は、尖閣列島、竹島、北方領土などの領土の問題、中国や北朝鮮の核ミサイルの問題など眼前の脅威に曝されている。その中でのこのような意見は、サヨクの平和論選ぶところがない”とでも思ったか、太田見解に強く反発しました。
日本の国土を守るということにのみ専心することは問題を矮小化する、とする太田さんの見解を、わたくしはつぎのように理解して、同意します。
【私見】戦争とは、正規の軍隊で侵略するばかりではない。孫子は「上兵は謀を伐つ、其次は交を伐つ、其次は兵を伐つ、其下は城を攻む」と言います(謀攻篇)。敵国の侵攻は、計画のうちに叩き潰すのが最高の戦争で、次善は、敵の条約関係を分断することである。最低の戦争は敵が堅固に守っている城を攻めることだ(城攻めは金がかかって、犠牲も大きい)、というのです。
現代では、“宣伝戦”“洗脳戦”が戦争リストの重要アイテムに加わっています。
出席者の頭には、北朝鮮や中国が“国土を侵す”脅威で大きく占められているように思えました。孫子のいうところの低次元の戦争(城攻め=誰の目にも明らかな戦争・侵略)です。
そのような脅威は確かに存在し、それへの備えは不可欠です。しかし、地政学的に好条件にある日本にとって、しかも現代においては、この種の脅威よりも、“謀を伐たれない”(防諜)こと、“交を守る”(日米同盟)こと、さらには宣伝戦、洗脳戦に負けないことのほうがはるかに重要です。
戦争の局面は多彩であるのに、“領土を守る”ことに熱中するのは、“問題の矮小化”といえます。
イラク、アフガニスタンなどにおいて軍事的存在感を示し、国際社会の平和に影響力を示すことは、日本の国威を発揚して、国の安全の保障に寄与するものと考えます。
(3)国民は変わったか
荒木氏も潮氏も“拉致以来国民は変わった”という意見でした。
【私見】変わったことは事実です。しかし、この変化は“表面的”なものであり、“実体の変化を生むエネルギーを孕む”変化には至っていないと思います。
したがって、“国民はまだ変わっていない”というべきであると思います。
(4)議論の在り方
わたくしは、かねてからチャンネル桜や、ブログでの佐藤守氏の話に興味をもっていました。そうしたことで、太田・佐藤の取り合わせには期待していました。佐藤氏も“私は彼のこの著書(防衛庁再生宣言)から、今回は大いに現場の実態を腹の底から語り合える内容が濃い討論会になるものと期待していた”と言っています。
しかし、その後に“討論は堂々巡りを繰り返すだけでなかなか進まないうちに時間切れで終わってしまった。それが視聴者にも不快感を与えたのであろう。”という文章が続いています。
わたくしは、議論の基礎の違いが極めて明白で、そうした意味ではとても分かりやすく、“不快”ではありませんでした。討論者が(もちろん視聴者も)、議論の基礎あるいは前提の違い、あるいは理論の射程の違いを実感することが、この番組の意義であると思います。議論を深めるためには、このような過程は不可避であり、これを避けようとすれば、仲良しクラブになってしまいます。
(以上、いずれも引用は、http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20080316)
(5)結び
コラム#2422に“私は「左」の人々とはおおむね意見を同じくし、結論だけが正反対になるのに対し、本日のように「右」の人々とは結論だけが一致する”とあります。
現下の日本において、焦眉の急は「国の自立」です。このことについて一致している人たちが、そこに至る道すがらもめていては困ります。なんとかならないものでしょうか。
福沢諭吉はこう言っています。
「かくの如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、その趣はあたかも武用に弓矢劍鎗の得失を争うが如く際限あるべからず。もしこれを和睦せしめんと欲せば、その各主張する所のものより一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢劍鎗の争論も、かつて一時は喧しきことなりしが、小銃の行われてより以来は世上にこれを談ずる者なし。」(文明論之概略 岩波文庫 p17)
太田さんの見識は、ここで言う“一層高尚なる新説”に当てはまります。しかし新説は、多くのエモーショナルな反応をよび起こします。この拒絶反応をいかに解消して、前進のエネルギーに転換できるか、工夫のしどころと考えます。
最後に、『防衛庁再生宣言』のおかげで福沢諭吉に出会いました。有難うございました。
<Papa Meilland>
2週間ほど前のコラム#2422で、
「私は「左」の人々とはおおむね意見を同じくし、結論だけが正反対になるのに対し、「右」の人々とは結論だけが一致する、何とも悩ましいですね。私と同じスタンスの人、名乗り出て下さい!」
という太田さんのボヤキに近い発言があったことを気に留めていました。
「居ますよ!」そういう人。
「太田さんの主張や見解、そして結論は、私にとっては余りに当たり前過ぎて、当然過ぎて、大きな声で論じるほどの価値も無い! 論じる必要があるのは、その価値観や判断基準を当然の前提として、今日本が持っている力を今後どの様な方向に優先順位を付けて振り向けて行くかの議論である。」と考えている者がここに少なくとも一人は居ます。
そして、多分私の周りに居る人達はほとんど皆そう考えています。
でも、そのことを声を大にして騒ぐ人は少なくとも私の周りには一人も居ません。
大丈夫、サイレント マイノリティーの存在を信じてください。
普通の教育を受け、普通の(日本語の)新聞とテレビ程度の情報を得、人類が辿ったと思われる歴史を高校の歴史教科書のレベルで学び、ここ100年ほどの世界の動きを中学生レベルの常識を持って俯瞰すれば、当然の帰結として太田さんの主張の通りになると思うのですが、そうではないのですかね。
太田さんの主張や見解は高度の情報源に接してのご判断と拝察しますが、少なくとも私は平均的な日本人として、普通の新聞とテレビと低俗週刊誌からの情報以外は何も得ておらず、その限りに於いてさえも太田さんの結論以外の結論には成り得ないのです。
私の思考方法は人間社会の日常の生活で起こるごく当たり前の出来事の展開とその顛末を世界情勢に引き直して観察しているだけですが、太田さんの主張と全く同じ結論に至るのです。
他の主張をする人は余程高度で特殊な情報を入手しての判断なのだろうか?
それとも、私には他の日本人が常識としている何か決定的な知識や情報が欠落しているのだろうか?
要するに、平素何のコメントも反論もしませんが、それは普通に仕事を持ち普通に生活している者の通常の行動であり、一々そうだそうだと言って騒ぎ立てたりはしません。
一生懸命著述をなさり世論に訴え掛けても何の反応も無いというのはご不満とは思いますが恐らく私と同様の考え方をしている人は結構多数居られると想像しています。
なぜなら私と同程度の教育と環境で育った人は五万と居る筈だからです。
「ゴキブリ一匹見つけたら数百匹居ると思え」の例えの通りサイレント マイノリティーはかなり居るとお考えになって良いのではありませんか。
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<太田>
どうもありがとうございました。
それぞれほんの少しずつ、体裁を整えさせていただきました。
<読者の声>
<読者AH>
3月15日の桜チャンネルを拝見しました。
以下、感想を述べます。
(1)日本はアメリカの属国なのか、自衛隊は軍隊ではないのか
【私見】出席者の多くはこの見識に反発していました。わたくしは太田さんの見識に同意します。
とくに荒木氏の“法律的には太田さんの言う通りかもそうかもしれないが、日本は独立国であり、自衛隊は軍隊である。自衛隊は国のために働く覚悟である。太田さん意見は官僚的論議である。”という趣旨の発言には同意できません。現下の安全保障問題の根本は憲法9条の問題です。まさに“法律”が問題なのではないでしょうか?
しかし、かつてもいまも、法律家たちが、憲法9条関連の法解釈あるいは集団的自衛権の議論において、常識で受け入れることが困難な論理を展開するのを目撃するとき、荒木氏の肩を持ちたくもなります。
にもかかわらず、ここはキッパリ割り切るべきです。“そうあってはならない”ことは“ない”のだという「事実と願望のすりかえ」をかかえていては“戦争”に勝てないと思うからです。
(2)国土防衛か世界の平和と安定の維持か
太田さんは“現在の日本に脅威はない、それよりも世界の安定と平和のために貢献することが日本の国益を実現する”という趣旨の発言をしました。これに対して、出席者すべてが、“現に日本は、尖閣列島、竹島、北方領土などの領土の問題、中国や北朝鮮の核ミサイルの問題など眼前の脅威に曝されている。その中でのこのような意見は、サヨクの平和論選ぶところがない”とでも思ったか、太田見解に強く反発しました。
日本の国土を守るということにのみ専心することは問題を矮小化する、とする太田さんの見解を、わたくしはつぎのように理解して、同意します。
【私見】戦争とは、正規の軍隊で侵略するばかりではない。孫子は「上兵は謀を伐つ、其次は交を伐つ、其次は兵を伐つ、其下は城を攻む」と言います(謀攻篇)。敵国の侵攻は、計画のうちに叩き潰すのが最高の戦争で、次善は、敵の条約関係を分断することである。最低の戦争は敵が堅固に守っている城を攻めることだ(城攻めは金がかかって、犠牲も大きい)、というのです。
現代では、“宣伝戦”“洗脳戦”が戦争リストの重要アイテムに加わっています。
出席者の頭には、北朝鮮や中国が“国土を侵す”脅威で大きく占められているように思えました。孫子のいうところの低次元の戦争(城攻め=誰の目にも明らかな戦争・侵略)です。
そのような脅威は確かに存在し、それへの備えは不可欠です。しかし、地政学的に好条件にある日本にとって、しかも現代においては、この種の脅威よりも、“謀を伐たれない”(防諜)こと、“交を守る”(日米同盟)こと、さらには宣伝戦、洗脳戦に負けないことのほうがはるかに重要です。
戦争の局面は多彩であるのに、“領土を守る”ことに熱中するのは、“問題の矮小化”といえます。
イラク、アフガニスタンなどにおいて軍事的存在感を示し、国際社会の平和に影響力を示すことは、日本の国威を発揚して、国の安全の保障に寄与するものと考えます。
(3)国民は変わったか
荒木氏も潮氏も“拉致以来国民は変わった”という意見でした。
【私見】変わったことは事実です。しかし、この変化は“表面的”なものであり、“実体の変化を生むエネルギーを孕む”変化には至っていないと思います。
したがって、“国民はまだ変わっていない”というべきであると思います。
(4)議論の在り方
わたくしは、かねてからチャンネル桜や、ブログでの佐藤守氏の話に興味をもっていました。そうしたことで、太田・佐藤の取り合わせには期待していました。佐藤氏も“私は彼のこの著書(防衛庁再生宣言)から、今回は大いに現場の実態を腹の底から語り合える内容が濃い討論会になるものと期待していた”と言っています。
しかし、その後に“討論は堂々巡りを繰り返すだけでなかなか進まないうちに時間切れで終わってしまった。それが視聴者にも不快感を与えたのであろう。”という文章が続いています。
わたくしは、議論の基礎の違いが極めて明白で、そうした意味ではとても分かりやすく、“不快”ではありませんでした。討論者が(もちろん視聴者も)、議論の基礎あるいは前提の違い、あるいは理論の射程の違いを実感することが、この番組の意義であると思います。議論を深めるためには、このような過程は不可避であり、これを避けようとすれば、仲良しクラブになってしまいます。
(以上、いずれも引用は、http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20080316)
(5)結び
コラム#2422に“私は「左」の人々とはおおむね意見を同じくし、結論だけが正反対になるのに対し、本日のように「右」の人々とは結論だけが一致する”とあります。
現下の日本において、焦眉の急は「国の自立」です。このことについて一致している人たちが、そこに至る道すがらもめていては困ります。なんとかならないものでしょうか。
福沢諭吉はこう言っています。
「かくの如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、その趣はあたかも武用に弓矢劍鎗の得失を争うが如く際限あるべからず。もしこれを和睦せしめんと欲せば、その各主張する所のものより一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢劍鎗の争論も、かつて一時は喧しきことなりしが、小銃の行われてより以来は世上にこれを談ずる者なし。」(文明論之概略 岩波文庫 p17)
太田さんの見識は、ここで言う“一層高尚なる新説”に当てはまります。しかし新説は、多くのエモーショナルな反応をよび起こします。この拒絶反応をいかに解消して、前進のエネルギーに転換できるか、工夫のしどころと考えます。
最後に、『防衛庁再生宣言』のおかげで福沢諭吉に出会いました。有難うございました。
<Papa Meilland>
2週間ほど前のコラム#2422で、
「私は「左」の人々とはおおむね意見を同じくし、結論だけが正反対になるのに対し、「右」の人々とは結論だけが一致する、何とも悩ましいですね。私と同じスタンスの人、名乗り出て下さい!」
という太田さんのボヤキに近い発言があったことを気に留めていました。
「居ますよ!」そういう人。
「太田さんの主張や見解、そして結論は、私にとっては余りに当たり前過ぎて、当然過ぎて、大きな声で論じるほどの価値も無い! 論じる必要があるのは、その価値観や判断基準を当然の前提として、今日本が持っている力を今後どの様な方向に優先順位を付けて振り向けて行くかの議論である。」と考えている者がここに少なくとも一人は居ます。
そして、多分私の周りに居る人達はほとんど皆そう考えています。
でも、そのことを声を大にして騒ぐ人は少なくとも私の周りには一人も居ません。
大丈夫、サイレント マイノリティーの存在を信じてください。
普通の教育を受け、普通の(日本語の)新聞とテレビ程度の情報を得、人類が辿ったと思われる歴史を高校の歴史教科書のレベルで学び、ここ100年ほどの世界の動きを中学生レベルの常識を持って俯瞰すれば、当然の帰結として太田さんの主張の通りになると思うのですが、そうではないのですかね。
太田さんの主張や見解は高度の情報源に接してのご判断と拝察しますが、少なくとも私は平均的な日本人として、普通の新聞とテレビと低俗週刊誌からの情報以外は何も得ておらず、その限りに於いてさえも太田さんの結論以外の結論には成り得ないのです。
私の思考方法は人間社会の日常の生活で起こるごく当たり前の出来事の展開とその顛末を世界情勢に引き直して観察しているだけですが、太田さんの主張と全く同じ結論に至るのです。
他の主張をする人は余程高度で特殊な情報を入手しての判断なのだろうか?
それとも、私には他の日本人が常識としている何か決定的な知識や情報が欠落しているのだろうか?
要するに、平素何のコメントも反論もしませんが、それは普通に仕事を持ち普通に生活している者の通常の行動であり、一々そうだそうだと言って騒ぎ立てたりはしません。
一生懸命著述をなさり世論に訴え掛けても何の反応も無いというのはご不満とは思いますが恐らく私と同様の考え方をしている人は結構多数居られると想像しています。
なぜなら私と同程度の教育と環境で育った人は五万と居る筈だからです。
「ゴキブリ一匹見つけたら数百匹居ると思え」の例えの通りサイレント マイノリティーはかなり居るとお考えになって良いのではありませんか。
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<太田>
どうもありがとうございました。
それぞれほんの少しずつ、体裁を整えさせていただきました。
太田述正ブログは移転しました 。
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