太田述正コラム#2371(2008.2.18)
<日本論記事抄(その2)>

 (2)シェフ

 ワシントンポストの外信部記者のハルデン(Blaine Harden)がとりあげているのは日本のシェフ達です。
 彼の記事(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/14/AR2008021403921_pf.html
。2月16日アクセス)の概要は次のとおりです。

 日本政府の最近の調査によれば、外国人観光客の日本観光の目的は10人中7人までが食だ。
 昨年11月ミシュランが初めて東京のレストランのガイドブックを出したが、このガイドブックによれば、パリ約2万店、ニューヨーク約2万3000店に対し、東京にはレストランが16万店もある。
 しかも、ミシュランが一つ星以上を与えたレストランは、パリ98店、ニューヨーク54店に対し、東京は191店もあった。
 最高の三つ星が与えられた東京のレストランは8店あり、そのうち5店が日本料理店、3店がフランス料理店であり、星が与えられたレストランの中にはイタリア料理店、スペイン料理店、中華料理店やステーキハウスもあった。
 これほども日本の料理の質が高いのは、魚文化のせいだという意見がある。
 漁師達は鮮度を維持するため、水揚げしてすぐ血抜きをし、とれた海域と同じ温度と塩度の水の中に、しかも傷がつかないようにパックして築地へと送り出す。
 二つ星が与えられた25店のうちの一つであるフランス料理のレストランのオーナーシェフ谷氏は、同店の客室の上のロフトに寝泊まりし、自宅には一週間に一度しか帰らない。 彼は18歳のときからフランスの文化、歴史、ワイン、そして料理の研究に没頭してきた。
 彼は、東京のレストラン同士の競争は「想像を絶するほど厳しい」とし、「自分自身の粋を献立の中に抽出できるよう」犠牲を払う決意なくして生き残ることはできないと語る。そして、「プライドと大志がわれわれを規律している」とし、「われわれが提供する食事は我々の生きざまの反映なのだ」と続ける。
 谷氏の料理を味わおうと思ったら、一ヶ月前に予約し、一人200米ドル以上出さなければならない。
 しかし、東京では高い質の食べ物に必ずしも大枚をはたかなければありつけないわけではない。
 大久保氏の店で提供している、絶妙な味のカレーパンなら2.5米ドルで手に入る。ただし、手作りで一日400個しかつくられない。大量生産すると品質が保てないからだという。
 ある日本人料理評論家は、この二つの店に共通しているのは、オーナー達が成功は儲けたカネの高で量られるものではなく、味わう人々に幸せをどれだけ与えられるかで量られるべきであると考えている点だ、と指摘している。

 これも、われわれ日本人にしてみれば、おなじみ話なのですが、米国人の記者にとっては瞠目すべきことだったのでしょう。

3 コメント

 このような人間像を、われわれは幕末から明治期にかけての日本の日本の権力者達にも見出すことができます。
 卑近な例をあげれば、現在のNHKの大河ドラマでとりあげられている天璋院篤姫(1836〜83年)がそうです。

 「・・慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を行い、江戸城の無血開城に至る際には、篤子は島津家に、和宮は朝廷に嘆願して、徳川家救済や慶喜の助命に尽力した。・・」「・・幕府が倒れた時、篤姫には薩摩から迎えが来た。しかし、「私は徳川家を守る」と断固帰還を拒否。着の身着のままで城を出た。・・」「・・晩年は田安亀之助こと徳川宗家16代・家達の養育に心を砕いた。自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の者の就職や縁組に奔走していたため、死に際してその所持金はたった3円(現代の6万円)しかなかったという。・・」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/domestic/edokibun/20080204tb03.htm
(どちらも2月18日アクセス。以下同じ)
 
 この篤姫より少し後の時代を生きたのが明治天皇(1852〜1912年)です。
 彼については、米国人の文芸評論家ドナルド・キーン氏が次のように言っています。

 「・・明治天皇は他国の皇帝と比べ、本当に国民を大事にしていました。ドイツやロシアの皇帝は、自分の栄光のために、自分が歴史に残るために国民を利用しています。戦争をやれとか。そういうことは明治天皇にないです。また、明治天皇は外国人に対して憎しみがないです。日清戦争のあとすぐ、以前と同じ関係を結ぼうと中国に言いました。また旅順の陥落を聞いたあとすぐ言ったのは、ロシアの総大将ステッセルを大事にしなければならないということでした。そういうことは当時のヨーロッパでは想像できないことです。大変偉かったと思います。あるいは明治天皇には銅像がないんです。他の皇帝は自分をどのように見せるか気を遣い、至る所に銅像が建っているのに。・・」(
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/331704.html

 「・・ドナルド・キーンは言ふ。・・明治天皇は、質素を旨として自分を含め周りのものが贅沢をするのを決して許さなかつたし、・・臣民は暑いからといつて簡単に避暑地などに行くことは出来ない、それなのにどうして朕ひとりが避暑 など出来やうか、と言つて、常に臣民とともにあることを望んだといふ。また、終生京都を愛慕し続けたにも関はらず、生前はほとんど京都には帰つてゐないのは、好きなことをやらない、といふ儒教的な考へによるといふ。儒教的な帝王学の要諦は「義務と克己心」。だから天皇は自分の地位を臣民に対する義務と考へ、自分のやりたい事、楽しみなどを極力抑へ、臣民のために働き 続けることを己に課してゐた。故に、自分の部下が健康上の理由などで仕事を辞したいとでも言へば、烈火の如く怒つたといふ。貴族たるもの、死ぬまで臣民のために働くのが当たり前だ、といふ訳である。・・」(
http://www.cafeopal.com/diary/03/aug/diary030815.html

(続く)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太田述正コラム#2372(2008.2.18)
<日本論記事抄・後編(その3)>

→非公開

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/