太田述正コラム#1895(2007.8.6)
<10の決断と第二次世界大戦(その2)>(2008.2.7公開)

 以上のほかに、1931年の満州事変や1937年の支那事変、1935年のドイツによるヴェルサイユ条約無視とこれの英仏による黙認、1939年のドイツのポーランド侵攻や1940年のノルウェー、デンマーク、フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダ侵攻、1942年のローズベルトの北アフリカ作戦の発動とこれに伴う欧州における第二戦線構築の1944年への延伸、の重要性を指摘する評者もいます。
 しかし、こんな議論を始めると、収拾がつかなくなってしまいます。
 北アフリカ作戦の発動は別として、やはり、カーショウの設定した時間軸の中での議論にとどめるべきでしょう。

 (2)決断などなかったケースが10の中にある

 カーショウのこの本に対する批判の第二は、10の「決断」の中に、決断などなかったケースが含まれている、というものです。

 まずは、カーショウ自身も認めているように、日本の対米開戦は、何十年にもわたって多くの日本世論の支持を受けて繰り返し行われてきた選択の結果なのであって、1941年には日本の指導者達に他の決断を下す余地などなくなっていたと指摘されるわけです。
 
 次は、ホロコーストです。
 これまたカーショウ自身も認めているように、欧州における長年にわたる反ユダヤ主義の歴史の帰着点であり、ヒットラーの『我が闘争』に記された独特の反ユダヤ主義(注1)、及びヒットラーの達成した1940年と1941年の対仏等の勝利によって、欧州における反ユダヤ主義に拍車がかけられたことの帰結でした。

 (注1)ヒットラーの反ユダヤ主義は、ドイツの第一次世界大戦での敗北の責任がユダヤ人にあるという妄想のために一層亢進した。ヒットラーにとって第二次世界大戦は、第一次世界大戦の復讐戦であるとともに、第一次世界大戦敗北の原因を抜本的に除去する「最終的解決(Final Solution)」のためのものでもあったというわけだ。
    蛇足ながら、ウィルヘルム2世は、ヒットラーが対仏戦に勝利した1940年、ヒットラーに電報を送り、「パリを余の部隊で占領した」ことを祝福した(ウィルヘルムの英語版ウィキペディア)。

 ですから、ヒットラーがホロコーストを命じた文書がないだけでなく、ヒットラーが口頭でそれを指示したという記録もありません。つまり、何の決断もなくして、ナチスの下僚達や収容所長達のイニシアティブでホロコーストに向かって事態が進行して行ったと指摘されるわけです。
 
4 感想

 10の決断を振り返っていただくとお分かりのように、日本が行った二つの「決断」には固有名詞が出てきません。
 日本が仏印(正確には南部仏印)侵攻を1941年7月に「決断」した時の首相は近衛文麿であり、対米開戦を1941年12月に「決断」した時の首相は東條英機ですが、近衛も東條も登場しないところに日本の特異性が良く表れています。
 カーショウは、ドイツ、イタリア、ソ連では、独裁者が一人で決断を行い、しかもヒットラーとスターリンはいずれも誇大妄想狂(megalomania)で偏執狂(paranoia)であったので理性的な決断が行えなかったのに対し、英国と米国は民主主義的国家であり、時間がかかるという短所はあったものの、議論を通じて理性的な決断を行った、と指摘しています。
 ここには今度は日本が登場しません。
 カーショウには分かっていたはずです。
 当時の日本もまた民主主義的国家であり、時間をかけた議論を通じて理性的な決断を行ったことを。
 日本は、ファシズムの、しかも腐敗しきった中国国民党とスターリン主義の中国共産党を正しく敵視していというのに、米国が、人種的偏見によって目を曇らされ、日本を敵視し、中国国民党と中国共産党に与するという非理性的決断をして日本を追いつめたことこそが問題なのです。
 日本が対米戦争に備え、石油等の戦略物資を確保するために南進(その一歩が仏印侵攻)を決断し、また、「自存自衛」のために対米開戦を決断したのは、どちらもすこぶるつきに理性的な決断だったのです(注2)。

 (注2)ロンドン在住のニューヨークタイムス・ブックレビュー及びニューヨーカーへの寄稿者であるジェームス(Clive James)の山本五十六(1884〜1943年)へのオマージュとも言うべき小論考(
http://www.slate.com/id/2164374/pagenum/all/#page_start  
。4月18日アクセス)を見よ。米国で米国の経済力に瞠目し、米国人のギャンブル精神を自分のものとした山本が、米国を仮想敵国とする空母戦力の整備に邁進した後、しかも米国を敵に回すところの三国同盟に反対した後、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を企画して命のままにこれを決行したのは、6ヶ月なら暴れてみせるという口上にもかかわらず、断じて先行き成算のない愚行ではなかった。この山本がいたからこそ、当時の日本政府は対米開戦を決意できたのだ。

 当時の日米のどちらがより理性的であったかは、その後の東アジアの歴史が証明していることは、私が口を酸っぱくして申し上げてきたところです。
 すなわち、国共内戦も朝鮮戦争も、毛沢東の大躍進政策や文化大革命の惨禍も、二次にわたるインドシナでの戦乱も、ことごとく第二次世界大戦等に係る米国の非理性的な決断の産物なのです。

(完)

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