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太田述正コラム#1820(2007.6.18)
<梅屋庄吉をめぐって>(2007.12.12公開)
1 始めに
梅屋庄吉(1868〜1934年)の話をしましょう。
2 梅屋庄吉の生涯
梅屋は長崎出身であり、1893年に米相場の投機に失敗して南洋に移り、その後支那や東南アジアの各地を転々とした後、香港の目抜き通りに写真館を開きます。
1895年に、引き合わせる人があって、梅屋は、この写真館の2階で孫文(1866〜1925年)(コラム#228〜230、234)と知り合います。孫文29歳、梅屋27歳の時でした。革命の決意を熱く語る孫文に、梅屋は資金の支援を約束し、爾来30年間にわたって、何の見返りも求めず梅屋は孫文を支援し続け、その総額は現在の2兆円に達したと言われています。
1899年に米国とフィリピン独立軍との戦争が始まると、独立軍の総帥アギナルドとその香港亡命時代に親交のあった梅屋は、アギナルドの幕僚ポンセに紹介状を持たせて当時日本に滞在していた孫文に面会させてフィリピン独立支援を要請させています。
1905年に日本に帰国した梅屋は、1912年に自分の会社を含む4つの映画会社を合併させて「日本活動写真株式会社」(現「日活」の前身)を創設します。
1911年に清朝打倒の辛亥革命が起きると、梅屋は技師を派遣して記録映画を撮影し、米国にいた孫文のため、後日、浅草で上映会を開きます。
その後、軍閥の袁世凱に中華民国臨時総統の座を追われた孫文は、1913年に再び日本に亡命し、恐らく1915年に東京の梅屋邸で、宋姉妹の一人の宋慶齢と結婚します。
また、蒋介石は、当時孫文が寄寓していたこの梅屋邸で、やはり恐らく同じ1915年に、宋慶齢の妹の宋美齢(コラム#177〜179)と結婚しています。
梅屋は、1916年には孫文が組織した革命軍武器輸入委員を引き受けます。
孫文は1925年に亡くなりますが、その遺書の中には梅屋への謝辞が記されています。
梅屋は、孫文の銅像4基を作って1929年以後、南京・広州・マカオなどに寄付しました。
梅屋は、一貫して日本の対中強硬政策に批判的であり、蒋介石と連絡を取り続け(注)
(注)1927年、国民党における汪兆銘・・当時共産党と提携していたがその後回心する(コラム#234)・・との権力闘争に敗れた蒋介石は、参謀本部第2部長をしていた松井岩根の手引きで来日し、田中義一首相と会談し、中国統一が成功したあかつきには日本はこれを承認する、これに対し国民政府は満州に対する日本の地位と特殊権益を認める、という合意が成立した。日本滞在中、蒋介石は梅屋邸を訪問している。蒋は帰国して上海に上陸した際、会見で、「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った。ところが関東軍が、その翌年張作霖爆殺事件を起こし、3年後には満州事変を起こしたため、松井や梅屋らの努力は実を結ばなかった。(
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/tanaka_shankai.html
。6月18日アクセス)。
、ためにスパイの容疑をかけられ、憲兵隊による家宅捜索、召喚、身柄拘束という目に遭います。
それにもめげず、1934年、広田弘毅外相の会見要望に応じ、対中局面打開のための協議に千葉県の住まいから東京に向かう途上、梅屋は倒れ、病死します。
そして、彼の棺は日章旗と青天白日旗に抱かれて荼毘に付されるのです
(以上、特に断っていない限り
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070603ijw1.htm
(6月4日アクセス)、及び
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/18990720nunobiki/nunobiki.htm、
http://liffey2.ld.infoseek.co.jp/rekishi/umeya/、
http://72.14.235.104/search?q=cache:rYR1RFYZt0MJ:www.matsumotoro.co.jp/umeya1.htm+%E6%A2%85%E5%B1%8B%E5%BA%84%E5%90%89&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a、
http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/book36/book04_36.html、
http://shisly.cocolog-nifty.com/、
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/socho/mirai/mirai-high.pdf
(いずれも6月18日アクセス)による。)
3 コメント
以上をお読みになって、日支間にも友好時代があった、そしてその友好を担った素晴らしい日本人がいた、と思われたのではないでしょうか。
それはそれで間違いはないのですが、問題は梅屋が支援した支那人です。
孫文は支那の民主主義独裁への道を開き、蒋介石・宋美齢夫妻は、これを受けて支那に腐敗の極のファシスト政権を樹立し、挙げ句の果ては、もう一つの民主主義独裁の共産党と野合して日本と戦い、日本を対米戦争へと追いつめ、敗戦に追い込むとともに、最終的には共産党との内戦に敗れ、支那の人々に共産党政権下で塗炭の苦しみを味わわせる、という愚行をしでかしました。
梅屋の好意は、全く無になったと言えるでしょう。
<梅屋庄吉をめぐって>(2007.12.12公開)
1 始めに
梅屋庄吉(1868〜1934年)の話をしましょう。
2 梅屋庄吉の生涯
梅屋は長崎出身であり、1893年に米相場の投機に失敗して南洋に移り、その後支那や東南アジアの各地を転々とした後、香港の目抜き通りに写真館を開きます。
1895年に、引き合わせる人があって、梅屋は、この写真館の2階で孫文(1866〜1925年)(コラム#228〜230、234)と知り合います。孫文29歳、梅屋27歳の時でした。革命の決意を熱く語る孫文に、梅屋は資金の支援を約束し、爾来30年間にわたって、何の見返りも求めず梅屋は孫文を支援し続け、その総額は現在の2兆円に達したと言われています。
1899年に米国とフィリピン独立軍との戦争が始まると、独立軍の総帥アギナルドとその香港亡命時代に親交のあった梅屋は、アギナルドの幕僚ポンセに紹介状を持たせて当時日本に滞在していた孫文に面会させてフィリピン独立支援を要請させています。
1905年に日本に帰国した梅屋は、1912年に自分の会社を含む4つの映画会社を合併させて「日本活動写真株式会社」(現「日活」の前身)を創設します。
1911年に清朝打倒の辛亥革命が起きると、梅屋は技師を派遣して記録映画を撮影し、米国にいた孫文のため、後日、浅草で上映会を開きます。
その後、軍閥の袁世凱に中華民国臨時総統の座を追われた孫文は、1913年に再び日本に亡命し、恐らく1915年に東京の梅屋邸で、宋姉妹の一人の宋慶齢と結婚します。
また、蒋介石は、当時孫文が寄寓していたこの梅屋邸で、やはり恐らく同じ1915年に、宋慶齢の妹の宋美齢(コラム#177〜179)と結婚しています。
梅屋は、1916年には孫文が組織した革命軍武器輸入委員を引き受けます。
孫文は1925年に亡くなりますが、その遺書の中には梅屋への謝辞が記されています。
梅屋は、孫文の銅像4基を作って1929年以後、南京・広州・マカオなどに寄付しました。
梅屋は、一貫して日本の対中強硬政策に批判的であり、蒋介石と連絡を取り続け(注)
(注)1927年、国民党における汪兆銘・・当時共産党と提携していたがその後回心する(コラム#234)・・との権力闘争に敗れた蒋介石は、参謀本部第2部長をしていた松井岩根の手引きで来日し、田中義一首相と会談し、中国統一が成功したあかつきには日本はこれを承認する、これに対し国民政府は満州に対する日本の地位と特殊権益を認める、という合意が成立した。日本滞在中、蒋介石は梅屋邸を訪問している。蒋は帰国して上海に上陸した際、会見で、「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った。ところが関東軍が、その翌年張作霖爆殺事件を起こし、3年後には満州事変を起こしたため、松井や梅屋らの努力は実を結ばなかった。(
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/tanaka_shankai.html
。6月18日アクセス)。
、ためにスパイの容疑をかけられ、憲兵隊による家宅捜索、召喚、身柄拘束という目に遭います。
それにもめげず、1934年、広田弘毅外相の会見要望に応じ、対中局面打開のための協議に千葉県の住まいから東京に向かう途上、梅屋は倒れ、病死します。
そして、彼の棺は日章旗と青天白日旗に抱かれて荼毘に付されるのです
(以上、特に断っていない限り
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070603ijw1.htm
(6月4日アクセス)、及び
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/18990720nunobiki/nunobiki.htm、
http://liffey2.ld.infoseek.co.jp/rekishi/umeya/、
http://72.14.235.104/search?q=cache:rYR1RFYZt0MJ:www.matsumotoro.co.jp/umeya1.htm+%E6%A2%85%E5%B1%8B%E5%BA%84%E5%90%89&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a、
http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/book36/book04_36.html、
http://shisly.cocolog-nifty.com/、
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/socho/mirai/mirai-high.pdf
(いずれも6月18日アクセス)による。)
3 コメント
以上をお読みになって、日支間にも友好時代があった、そしてその友好を担った素晴らしい日本人がいた、と思われたのではないでしょうか。
それはそれで間違いはないのですが、問題は梅屋が支援した支那人です。
孫文は支那の民主主義独裁への道を開き、蒋介石・宋美齢夫妻は、これを受けて支那に腐敗の極のファシスト政権を樹立し、挙げ句の果ては、もう一つの民主主義独裁の共産党と野合して日本と戦い、日本を対米戦争へと追いつめ、敗戦に追い込むとともに、最終的には共産党との内戦に敗れ、支那の人々に共産党政権下で塗炭の苦しみを味わわせる、という愚行をしでかしました。
梅屋の好意は、全く無になったと言えるでしょう。
太田述正ブログは移転しました 。
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