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太田述正コラム#1775(2007.5.21)
<スターリン(その1)>(2007.11.21公開)
1 始めに
ユダヤ系英国人のモントフィオール(Simon Sebag Montefiore。1965年〜。ジャーナリストにしてロシア史学者)が上梓したばかりの'Young Stalin, Weidenfeld & Nicolson, 2007'が、絶賛を博した前作(2004年上梓)の'Stalin: The Court of the Red Tsar'に勝るとも劣らぬ称賛を浴びています。
あのスターリンが若かりし頃は天才詩人であったというのですから、面白いですね。
著者がこの二作でどんなことを言っているかをご紹介した上で、最後に私のコメントを付したいと思います。
2 詩人スターリン
(以下、
http://books.guardian.co.uk/poetry/features/0,,2083062,00.html
(5月19日アクセス)、及び
http://politics.guardian.co.uk/bookshelf/story/0,,1974026,00.html、
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,2078281,00.html、
http://www.orionbooks.co.uk/interview.aspx?ID=5934、
詩http://www.newstatesman.com/200705140042
(いずれも5月21日アクセス)による。)
(1)スターリンの詩
まずは、青年スターリンの詩を一つご覧あれ。
なお、原詩は、彼の母国語であるグルジア語で書かれており、韻がすばらしいというのですが、残念ながら、英訳ではそこまでは分かりません。
Morning
The rose's bud had blossomed out
Reaching out to touch the violet
The lily was waking up
And bending its head in the breeze
(仮訳)
朝
薔薇のつぼみが花を開いた
すみれに届かんばかりに
百合は目を覚まそうとし
そよ風の中で頭を垂れている
(2)詩人スターリン
スターリン、本名ヨセフ・ジュガシヴィリ(Joseph Djugashvili。1878〜1953年。愛称SosoないしSoseloないしKoba。Joseph(Josef) Stalinと名乗るようになったのは1917年から)は、正教の修道院で僧になる修行をしていた1895年、17歳の時、著名な編集者でありグルジア貴族のチャヴチャヴァーゼ(Ilya Chavchavadze)公(Prince)を自作の詩集を携えて訪ねた。
公はスターリンの詩を高く評価し、五篇を選んで当時のロシアで最も定評のあった文芸誌に掲載した。
これらの詩は大評判になり、グルジアで爾後準古典扱いをされることになる。
スターリンは聖歌隊の一員当時、歌唱力がプロ並みだったとされているが、詩才はノーベル文学賞を受賞したチャーチルの文才といい勝負のレベルであり、彼がもし政治の道を選ばずに、詩人としての人生を歩んでいたら、どんなに世界のためによかったか、と思わずにはおられない。
それから10年後の1905年にレーニンに会ってすっかりレーニンの魅力の虜となったスターリンは、ボルシェビキの幹部の一人として、汚れ役を一手に引き受けるようになる。つまり彼は、レーニンのために、殺し屋、泥棒、銀行強盗等あらゆる悪事に手を染めるようになったのだ。
当時既にグルジアでは詩人として有名になっていたスターリンは、グルジアの首都のトビリシの銀行を襲うにあたって、スターリンの詩の大ファンであった行員に手引きをさせ、40人を殺して多額のカネを奪うのに成功している。
権力を掌握してからのスターリンの行った恐怖政治については、ご承知の通りだ。
とまれ、スターリンは、生涯、詩、そして文学一般、更には芸術に対する思い入れを持ち続けた。
体制に批判的な者はすぐに殺したスターリンも、体制に批判的なパステルナークらの文学者の命を奪うようなことはしなかった。また、音楽のショスタコーヴィッチ、文学のブルガコフ、映画のエイゼンシュタインらには、時々直接電話をしては、激励した。
スターリンは、権力を掌握してからというもの、自分がかつて書いた詩について沈黙を貫いた。
1949年にスターリンの70歳の誕生日の記念に、秘密警察の長のベリア(Lavrenti Beria。同じくグルジア人)が上記五篇の詩のロシア語への翻訳を試みたことがある。著者を知らされていなかった、パステルナークらの翻訳者達は、これはスターリン賞に値する作品だと評価したが、このことを知ったスターリンは翻訳作業を中止させたという。
ある時、どうしてもう詩を書かないのかと聞かれたスターリンは、「全神経を集中し、しかも死ぬほどの忍耐力がなければ詩は書けないからだ」と答えている。
(続く)
<スターリン(その1)>(2007.11.21公開)
1 始めに
ユダヤ系英国人のモントフィオール(Simon Sebag Montefiore。1965年〜。ジャーナリストにしてロシア史学者)が上梓したばかりの'Young Stalin, Weidenfeld & Nicolson, 2007'が、絶賛を博した前作(2004年上梓)の'Stalin: The Court of the Red Tsar'に勝るとも劣らぬ称賛を浴びています。
あのスターリンが若かりし頃は天才詩人であったというのですから、面白いですね。
著者がこの二作でどんなことを言っているかをご紹介した上で、最後に私のコメントを付したいと思います。
2 詩人スターリン
(以下、
http://books.guardian.co.uk/poetry/features/0,,2083062,00.html
(5月19日アクセス)、及び
http://politics.guardian.co.uk/bookshelf/story/0,,1974026,00.html、
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,2078281,00.html、
http://www.orionbooks.co.uk/interview.aspx?ID=5934、
詩http://www.newstatesman.com/200705140042
(いずれも5月21日アクセス)による。)
(1)スターリンの詩
まずは、青年スターリンの詩を一つご覧あれ。
なお、原詩は、彼の母国語であるグルジア語で書かれており、韻がすばらしいというのですが、残念ながら、英訳ではそこまでは分かりません。
Morning
The rose's bud had blossomed out
Reaching out to touch the violet
The lily was waking up
And bending its head in the breeze
(仮訳)
朝
薔薇のつぼみが花を開いた
すみれに届かんばかりに
百合は目を覚まそうとし
そよ風の中で頭を垂れている
(2)詩人スターリン
スターリン、本名ヨセフ・ジュガシヴィリ(Joseph Djugashvili。1878〜1953年。愛称SosoないしSoseloないしKoba。Joseph(Josef) Stalinと名乗るようになったのは1917年から)は、正教の修道院で僧になる修行をしていた1895年、17歳の時、著名な編集者でありグルジア貴族のチャヴチャヴァーゼ(Ilya Chavchavadze)公(Prince)を自作の詩集を携えて訪ねた。
公はスターリンの詩を高く評価し、五篇を選んで当時のロシアで最も定評のあった文芸誌に掲載した。
これらの詩は大評判になり、グルジアで爾後準古典扱いをされることになる。
スターリンは聖歌隊の一員当時、歌唱力がプロ並みだったとされているが、詩才はノーベル文学賞を受賞したチャーチルの文才といい勝負のレベルであり、彼がもし政治の道を選ばずに、詩人としての人生を歩んでいたら、どんなに世界のためによかったか、と思わずにはおられない。
それから10年後の1905年にレーニンに会ってすっかりレーニンの魅力の虜となったスターリンは、ボルシェビキの幹部の一人として、汚れ役を一手に引き受けるようになる。つまり彼は、レーニンのために、殺し屋、泥棒、銀行強盗等あらゆる悪事に手を染めるようになったのだ。
当時既にグルジアでは詩人として有名になっていたスターリンは、グルジアの首都のトビリシの銀行を襲うにあたって、スターリンの詩の大ファンであった行員に手引きをさせ、40人を殺して多額のカネを奪うのに成功している。
権力を掌握してからのスターリンの行った恐怖政治については、ご承知の通りだ。
とまれ、スターリンは、生涯、詩、そして文学一般、更には芸術に対する思い入れを持ち続けた。
体制に批判的な者はすぐに殺したスターリンも、体制に批判的なパステルナークらの文学者の命を奪うようなことはしなかった。また、音楽のショスタコーヴィッチ、文学のブルガコフ、映画のエイゼンシュタインらには、時々直接電話をしては、激励した。
スターリンは、権力を掌握してからというもの、自分がかつて書いた詩について沈黙を貫いた。
1949年にスターリンの70歳の誕生日の記念に、秘密警察の長のベリア(Lavrenti Beria。同じくグルジア人)が上記五篇の詩のロシア語への翻訳を試みたことがある。著者を知らされていなかった、パステルナークらの翻訳者達は、これはスターリン賞に値する作品だと評価したが、このことを知ったスターリンは翻訳作業を中止させたという。
ある時、どうしてもう詩を書かないのかと聞かれたスターリンは、「全神経を集中し、しかも死ぬほどの忍耐力がなければ詩は書けないからだ」と答えている。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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