太田述正ブログは移転しました 。
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太田述正コラム#2086(2007.9.26)
<福田康夫体制を点検する(その2)>
4 内閣
(1)布陣
25日に編成された福田内閣の布陣ですが、17閣僚のうち、安倍改造内閣とポストが変わらない再任は13閣僚にのぼり、変動した4ポストも町村、高村両氏が横滑りで、新任閣僚は、伊吹文明自民党幹事長の後任の渡海紀三朗文部科学相と、高村氏の後任の石破茂防衛相の2人だけであり、閣外に去ったのは与謝野馨官房長官と伊吹氏だけでした。
総裁選で麻生氏を支持した鳩山邦夫法相や甘利明経済産業相も再任されています。
ちなみに、防衛相から転じた高村正彦外相や、石破防衛相はいずれも2度目の就任です。
これは、福田新首相自身が述べたように国会中であり混乱を避けたということでしょう。
新任閣僚を起用する場合、「政治とカネ」をめぐる問題などを調べる時間的余裕が無い事情もあったのではないかと取り沙汰するむきもありますが、資金管理団体の借入金問題を抱える鴨下一郎環境相や政治団体の補助金受給問題がある若林正俊農相を再任させているところをみると、そうではなさそうです。
石破氏は津島派・・ただし、実質的な長は額賀財務相・・に所属しており、額賀氏を党役員人事では処遇しないこととしたことから、石破氏を入閣させる必要があったと考えられます。
また、渡海氏は山崎派に所属しており、山崎拓前副総裁を党役員人事で処遇できず、他方、内閣内で処遇することもむつかしかったことから、渡海氏をとりあえず入閣させた、と考えられます。
他方、総裁選を争った麻生氏は、次の首相を狙う立場から入閣を固辞したため、福田氏が希望した、(山崎派を除く)自民党全派閥の長の党または内閣への取り込みは成りませんでした。
一人貧乏くじを抽いたのが与謝野前官房長官、ということになります。
(以上、
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070926k0000m010173000c.html
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070925ig90.htm
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070925/shs070925014.htm
(いずれも9月26日アクセス。以下同じ)による。)
では、福田色は皆無かと言えば、そうでもありません。
閣僚級以外のところで、福田氏は、自分の意思を貫いています。
政務の官房副長官、大野松茂、岩城光英両氏を再任していますが、どちらも町村派に所属しており、首相官邸の政治家のラインは、首相、官房長官、副長官とすべて町村派で占められた形です。
また、官僚トップである事務担当の官房副長官は、安倍前首相が任命した旧大蔵省出身の的場順三氏を更迭し、その前の官房副長官だった旧内務省系の自治省出身の二橋正弘氏を再起用しました。
二橋氏は2003年9月から3年間、小泉政権の官房副長官を務め、福田氏が2004年5月に官房長官を辞任するまで補佐したことから、福田氏とは気心の知れた間柄です。
と同時に、幹事長に旧大蔵省出身の伊吹氏を就けたので、バランスをとったという見方もできそうです。
更に、首相の政務秘書官には、長男で秘書を務めていた福田達夫氏(40歳)を起用するとともに、事務秘書官には、財務省の林信光文書課長(1980年入省)、外務省の石兼公博国際協力局政策課長(1981年入省)、経済産業省の菅原郁郎総務課長(同)、警察庁の栗生俊一刑事企画課長(同)の4人を内定しましたが、林、石兼両氏は福田氏が官房長官時代の秘書官です。
福田氏は、徹底して身内重視をしたということです。
なお、拉致問題担当の中山恭子、教育再生担当の山谷えり子両首相補佐官は再任されています。
(以上、
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070926it01.htm?from=top、
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070926k0000m010134000c.html
による。)
(2)深刻な問題
私が深刻な問題だと思うのは、憲法第6条で天皇が国会の指名に基づいて首相を任命すると規定されているにもかかわらず、福田氏が25日に、国会の指名後ただちに親任式を行うことなく、組閣を行ったことです。
新閣僚の認証式は翌日回しでも仕方ないとしても、これはおかしいと思いませんか。
一体何の権限があって福田氏は首相官邸に入り、組閣作業を行うことができたのでしょうか。
その、まだ正式に首相に就任していない福田氏が、夜10時過ぎに新首相として記者会見に臨んでいるのを見て私は呆れました。
しかも、その前に新しい「閣僚」達が福田内閣の閣僚として記者会見に臨んでいます。
彼らは、首相になっていない人物から指名を受けただけなのであって、もちろん認証式も経ていないのですから、これでは日本は法治国家ではないと言わざるをえません。
福田氏も、新「官房長官」を含む各新「閣僚」も、天皇の存在など全く念頭にないようです。
このことは同時に、福田新首相も、入院中も内閣法に基づく首相臨時代理を置かなかった安倍前首相同様、危機管理感覚が欠如していることを示しています。
26日午前8時半に開始された親任式が終わるまでの間に安全保障上の緊急事態があれば、法的には安倍氏が自衛隊の最高指揮官としての権限を持つというのに安倍氏は新首相指名の衆院本会議に出席した後に再び病院に戻っており、最高指揮官の事実上の不在が更に1日近く続いた上に、最高指揮官を補佐する防衛相も交替途中である、という肌に粟が生じる事態が生じていたわけです。
こんなことは、大統領ないし首相が核兵器行使権限を持つ国連常任理事国を含む核武装国家ではもちろんですが、それ以外の世界のまともな独立国でも、およそ考えられないことです。
米国の保護国である日本の首相の座の軽さが改めてよく分かりますね。
(以上、
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070926AT3S2501M25092007.html
を参考にした。)
(完)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コラム#2087(2007.9.26)「ミャンマー動く(続々)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
・・
9月25日、ミャンマーの軍事政権は・・<夜間>外出禁止令と・・集会禁止令を発出しました。
・・
26日に、ついに軍事政権は反撃に出ました。
ヤンゴンでのデモ隊に盾と警棒で殴りかかり、威嚇射撃も行ったのです。
未確認情報によれば、約300人が逮捕されたといいます。
・・
ミャンマー<に>は・・外国人記者は入国できませんが、これまでの抗議行動がリアルタイムで全世界に伝えられてきたのはインターネットの賜です。
・・
ミャンマーはインターネット後進国の最たるものであり、<しかも、>インターネットアクセスは当局によって規制され監視されているのですが・・この規制・監視のかいくぐり方は、
http://www.rsf.org/rubrique.php3?id_rubrique=542
のようなサイトで教えてくれ・・動画や写真のアップロードや、掲示板への投稿が、
http://ko-htike.blogspot.com/
のようなサイトになされているのです。
・・
英国がミャンマーを・・征服した時、ミャンマーの仏教の最高指導者・・の職を廃止し、仏教の組織的一体性を失わせました。
ミャンマーの王政廃止とともに、英国の植民地統治がもたらした禍根と言えるでしょう。
それにもかかわらず、仏教は根強い影響力を持ち続けました。
・・
・・1988年以降・・、軍事政権は仏教界と仏教関係の学校での教授内容を厳しく統制しています。
もっとも、その統制は、個々の僧院や若手の僧侶達までは及んでいないようです。
・・
1988年の抗議活動は、軍部の弾圧によって約3,000人の死者を出して挫折しましたが、今回の抗議活動は、1988年当時と違ってインターネットを通じて情報が世界に発信されている点と、同じく1988年と違って抗議活動の中心が学生達ではなく、尊敬を集めているがゆえに軍部も余りひどいことはできないと考えられている僧侶達が中心である点が異なることから、挫折を免れる可能性もある、と思いたいところです。
<福田康夫体制を点検する(その2)>
4 内閣
(1)布陣
25日に編成された福田内閣の布陣ですが、17閣僚のうち、安倍改造内閣とポストが変わらない再任は13閣僚にのぼり、変動した4ポストも町村、高村両氏が横滑りで、新任閣僚は、伊吹文明自民党幹事長の後任の渡海紀三朗文部科学相と、高村氏の後任の石破茂防衛相の2人だけであり、閣外に去ったのは与謝野馨官房長官と伊吹氏だけでした。
総裁選で麻生氏を支持した鳩山邦夫法相や甘利明経済産業相も再任されています。
ちなみに、防衛相から転じた高村正彦外相や、石破防衛相はいずれも2度目の就任です。
これは、福田新首相自身が述べたように国会中であり混乱を避けたということでしょう。
新任閣僚を起用する場合、「政治とカネ」をめぐる問題などを調べる時間的余裕が無い事情もあったのではないかと取り沙汰するむきもありますが、資金管理団体の借入金問題を抱える鴨下一郎環境相や政治団体の補助金受給問題がある若林正俊農相を再任させているところをみると、そうではなさそうです。
石破氏は津島派・・ただし、実質的な長は額賀財務相・・に所属しており、額賀氏を党役員人事では処遇しないこととしたことから、石破氏を入閣させる必要があったと考えられます。
また、渡海氏は山崎派に所属しており、山崎拓前副総裁を党役員人事で処遇できず、他方、内閣内で処遇することもむつかしかったことから、渡海氏をとりあえず入閣させた、と考えられます。
他方、総裁選を争った麻生氏は、次の首相を狙う立場から入閣を固辞したため、福田氏が希望した、(山崎派を除く)自民党全派閥の長の党または内閣への取り込みは成りませんでした。
一人貧乏くじを抽いたのが与謝野前官房長官、ということになります。
(以上、
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070926k0000m010173000c.html
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070925ig90.htm
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070925/shs070925014.htm
(いずれも9月26日アクセス。以下同じ)による。)
では、福田色は皆無かと言えば、そうでもありません。
閣僚級以外のところで、福田氏は、自分の意思を貫いています。
政務の官房副長官、大野松茂、岩城光英両氏を再任していますが、どちらも町村派に所属しており、首相官邸の政治家のラインは、首相、官房長官、副長官とすべて町村派で占められた形です。
また、官僚トップである事務担当の官房副長官は、安倍前首相が任命した旧大蔵省出身の的場順三氏を更迭し、その前の官房副長官だった旧内務省系の自治省出身の二橋正弘氏を再起用しました。
二橋氏は2003年9月から3年間、小泉政権の官房副長官を務め、福田氏が2004年5月に官房長官を辞任するまで補佐したことから、福田氏とは気心の知れた間柄です。
と同時に、幹事長に旧大蔵省出身の伊吹氏を就けたので、バランスをとったという見方もできそうです。
更に、首相の政務秘書官には、長男で秘書を務めていた福田達夫氏(40歳)を起用するとともに、事務秘書官には、財務省の林信光文書課長(1980年入省)、外務省の石兼公博国際協力局政策課長(1981年入省)、経済産業省の菅原郁郎総務課長(同)、警察庁の栗生俊一刑事企画課長(同)の4人を内定しましたが、林、石兼両氏は福田氏が官房長官時代の秘書官です。
福田氏は、徹底して身内重視をしたということです。
なお、拉致問題担当の中山恭子、教育再生担当の山谷えり子両首相補佐官は再任されています。
(以上、
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070926it01.htm?from=top、
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070926k0000m010134000c.html
による。)
(2)深刻な問題
私が深刻な問題だと思うのは、憲法第6条で天皇が国会の指名に基づいて首相を任命すると規定されているにもかかわらず、福田氏が25日に、国会の指名後ただちに親任式を行うことなく、組閣を行ったことです。
新閣僚の認証式は翌日回しでも仕方ないとしても、これはおかしいと思いませんか。
一体何の権限があって福田氏は首相官邸に入り、組閣作業を行うことができたのでしょうか。
その、まだ正式に首相に就任していない福田氏が、夜10時過ぎに新首相として記者会見に臨んでいるのを見て私は呆れました。
しかも、その前に新しい「閣僚」達が福田内閣の閣僚として記者会見に臨んでいます。
彼らは、首相になっていない人物から指名を受けただけなのであって、もちろん認証式も経ていないのですから、これでは日本は法治国家ではないと言わざるをえません。
福田氏も、新「官房長官」を含む各新「閣僚」も、天皇の存在など全く念頭にないようです。
このことは同時に、福田新首相も、入院中も内閣法に基づく首相臨時代理を置かなかった安倍前首相同様、危機管理感覚が欠如していることを示しています。
26日午前8時半に開始された親任式が終わるまでの間に安全保障上の緊急事態があれば、法的には安倍氏が自衛隊の最高指揮官としての権限を持つというのに安倍氏は新首相指名の衆院本会議に出席した後に再び病院に戻っており、最高指揮官の事実上の不在が更に1日近く続いた上に、最高指揮官を補佐する防衛相も交替途中である、という肌に粟が生じる事態が生じていたわけです。
こんなことは、大統領ないし首相が核兵器行使権限を持つ国連常任理事国を含む核武装国家ではもちろんですが、それ以外の世界のまともな独立国でも、およそ考えられないことです。
米国の保護国である日本の首相の座の軽さが改めてよく分かりますね。
(以上、
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070926AT3S2501M25092007.html
を参考にした。)
(完)
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コラム#2087(2007.9.26)「ミャンマー動く(続々)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
・・
9月25日、ミャンマーの軍事政権は・・<夜間>外出禁止令と・・集会禁止令を発出しました。
・・
26日に、ついに軍事政権は反撃に出ました。
ヤンゴンでのデモ隊に盾と警棒で殴りかかり、威嚇射撃も行ったのです。
未確認情報によれば、約300人が逮捕されたといいます。
・・
ミャンマー<に>は・・外国人記者は入国できませんが、これまでの抗議行動がリアルタイムで全世界に伝えられてきたのはインターネットの賜です。
・・
ミャンマーはインターネット後進国の最たるものであり、<しかも、>インターネットアクセスは当局によって規制され監視されているのですが・・この規制・監視のかいくぐり方は、
http://www.rsf.org/rubrique.php3?id_rubrique=542
のようなサイトで教えてくれ・・動画や写真のアップロードや、掲示板への投稿が、
http://ko-htike.blogspot.com/
のようなサイトになされているのです。
・・
英国がミャンマーを・・征服した時、ミャンマーの仏教の最高指導者・・の職を廃止し、仏教の組織的一体性を失わせました。
ミャンマーの王政廃止とともに、英国の植民地統治がもたらした禍根と言えるでしょう。
それにもかかわらず、仏教は根強い影響力を持ち続けました。
・・
・・1988年以降・・、軍事政権は仏教界と仏教関係の学校での教授内容を厳しく統制しています。
もっとも、その統制は、個々の僧院や若手の僧侶達までは及んでいないようです。
・・
1988年の抗議活動は、軍部の弾圧によって約3,000人の死者を出して挫折しましたが、今回の抗議活動は、1988年当時と違ってインターネットを通じて情報が世界に発信されている点と、同じく1988年と違って抗議活動の中心が学生達ではなく、尊敬を集めているがゆえに軍部も余りひどいことはできないと考えられている僧侶達が中心である点が異なることから、挫折を免れる可能性もある、と思いたいところです。
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