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太田述正コラム#2044(2007.9.5)
<マザー・テレサの悩み>

<太田>

 マザー・テレサが、一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた、というショッキングな事実が明らかになりました(
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1655415,00.html。8月25日アクセス)。

 ガンジー(コラム#176、1992)といい、マザー・テレサ(コラム#175)と言い、聖人は敬して遠ざけた方が良さそうですね。
 
 蛇足ながら、今次安倍コルカタ(カルカッタ)訪問時に、昭恵夫人がMissionaries of Charityを訪問しています(
http://www.newkerala.com/july.php?action=fullnews&id=55726
)。

<バグってハニー>

 マザー・テレサの記事、全部読みました。すごくよかったです。
 「一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた」というのは聖人になるため(Canonize)の必要条件なんですよ。
 マザーも結果的に人を騙していたことになりますが、その結果誰かが実害を被ったわけでもないし、その理由も「イエスではなく自分に注目が集まるのを避けるため」という風に利己的ではないので、許されるのではないでしょうか。
 彼女がコルカタの貧しい人々を救ったという事実はなんら目減りしないと思います。

<太田>

 いやはや、
http://www.csmonitor.com/2007/0830/p08s01-comv.htm  
(8月30日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2007/08/29/opinion/29martin.html?pagewanted=print  
(8月30日アクセス)、
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/susan_brooks_thistlethwaite/2007/08/looking_for_god_in_calcutta_1.html  
(8月31日アクセス)、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-teresa1sep01,0,6144579,print.story?coll=la-opinion-leftrail  
(9月2日アクセス)

とことごとく、そういう理解なのですよね。
 だから、私はキリスト教が苦手なのです。
 たった一つ、私にも良く分かる論考(
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/sam_harris/2007/08/the_sacrifice_of_reason.html  
。9月3日アクセス)がありました。
 この論考の最後の部分をご紹介しておきます。

 「テレサの抱いていた疑いは、教会の眼から見れば、神の恩寵の更なる証明と解釈されてテレサの偉大さを増進させるものに他ならなかった。考えても見よ。専門家が抱いた疑いですら教義の正しさを裏付けるのだとしたら、一体どうやったら教義が誤っていることを証明することができようか。」

 いずれにせよ、もう一度コラム#175で紹介したヒッチェンスのマザー・テレサ論を読み返してくださいね。

<バグってハニー>

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(ヨハネ15:18、新共同訳)

 神の存在に疑問を抱くことと否定することは全く違うんですよ。タイム誌の記事にあるジョセフ・ニューナー神父(Rev. Joseph Neuner)の言葉を借りれば、神の存在が否定できないからこそ、マザーはここまで苦しむことはなったわけです。
 前の投稿時には私はまだコラム#175を読んでなかったですけど、バチカンはヒッチェンスの批判にはちゃんと耳を傾けているのでご安心ください。かつての列福/列聖の審査の際には悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、候補者に辛らつな批判を自由奔放に加える役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていたのですが、ヨハネ・パウロ二世前法王がこの制度を廃したために、代わりにヒッチェンスにお呼びがかかったそうです。
http://www.secularhumanism.org/index.php?section=library&page=hitchens_24_2

 思い起こせば、イエス自身はマザーよりももっと手ひどい批判をその活動中に受けていました。最後は十字架にかけられたぐらいですから。カトリックには「反対を受けるしるし(Sign of contradiction、ルカ2:34、新共同訳)」という概念があるそうです。前法王は同名の著書の中で反対を受けるしるしこそがキリストとその教会を特徴付ける定義でもあると述べています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sign_of_contradiction

 ヒッチェンスは米ショウタイム(Showtime)のペンとテラー(Penn and Teller)というコメディアンによる、タイトルからして書くのが憚れる、Fワードを連発するテレビ番組に出演してカトリックを激怒させたのですが、
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hitchens#Television_appearances
このような辛辣な批判を受けることはマザーに「反対を受けるしるし」がある証拠だとするカトリックのライターもいます。
http://www.catholicherald.com/shaw/shaw05/shaw0901.htm

 つまり、マザーが神の存在に疑念を抱くことだけでなく、マザーを批判するヒッチェンスの存在もキリストとマザーの神性をますますゆるぎないものへとしているわけです。

 まあ、私は単なるリベラルなものぐさプロテスタントなので、カトリックの肩を持つ必要はないのですが、ヒッチェンスの批判はマザーに特異的というよりもカトリックに一般的な批判だと思いますね。献金の使途が不明瞭だといっても自分のための華美な服や飲み食いに使ってないことは明らかですからね。税金と違って払うほうもそこまでの厳格さは期待してないと思います。教会に限らず献金・募金・カンパというのはてそんなものでしょう。太田先生がマザーに対面したときに騙されて金巻き上げられた、というわけでもないんでしょ。

<太田>

>悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、・・役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていた・・

 ご冗談を。
 奇跡など存在するわけがない、という前提に立てば、「奇跡を起こした」→「福者と認定(列福)する」→「その上で聖者と認定(列聖)」する、というインチキ「判決」先にありきで、対審構造を擬制し、弁護士たる「神の代弁者」と検事たる「悪魔の代弁者」との間で弁論を戦わせる、という茶番が1587年から1983年まで行われていた、ということでしょう。
 判決先にありきで、しかも多くの場合陪審員抜きで、対審構造を擬製して行われるところの、やたら時間がかかる茶番、というのが、アングロサクソンが(欧州)大陸法系の国々・・日本もそうです・・の裁判に対して抱いているイメージですが、まさにかつての列福手続きは、その通りのものだったな、と思います。
 福者ひいては聖者の大盤振る舞いをしたかったヨハネ・パウロ二世が、茶番を廃してしまった、というのはよく理解できます。
 それにしても、骨の髄まで無神論者のヒッチェンスは、それが茶番であることを百も承知で、タダでローマ旅行をするために(?)「悪魔の代弁者」役を務めたようで、まことにちゃっかりしていると言うべきでしょうか。

 蛇足ながら、バグってハニーさんがMixiに投稿した、「守屋前次官は・・なんて噂を見かけました。」を、うっかりしてボカシを入れずにそのまま前回のコラム(#2043)に収録してしまいました。
 万一名誉毀損裁判になった場合、ハニーさんのアイデンティティーは明かさないこととし、私が全責任を負うつもりですが、改めて、私が敗訴した裁判(ブログの「東村山女性市議転落死事件」カテゴリー参照)の不条理性、就中裁判官のネット音痴ぶりが思い出されます。

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