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太田述正コラム#1885(2007.7.30)
<超有名ロシア人のプーチン擁護論(その1)>(2007.9.2公開)

1 始めに

 7月24日にロシアのプーチン大統領は、「重大で特に深刻な犯罪を犯したためにわれわれの捜査当局が引き渡しを求めている人物がロンドンには30人も潜んでいるというのに、英国政府は全く馬耳東風で深刻な犯罪を犯したと非難されているこれらの連中を匿い続けている。その一方で、彼らはわれわれを含む他人に対しては、引き渡しを含むところの、より厳しい基準を適用する。憲法改正を求めるなどということはわが国に対する侮辱だと思う。・・彼らの要求は植民地に対する物言いの明白な名残だ。彼らは英国がもはや植民地大国ではなく、もう植民地は全く持っておらず、幸いなことにロシアは英国の植民地であったことが一度もないことをすっかり忘れてしまったに違いない。」と語りました(
http://www.cnn.com/2007/WORLD/europe/07/24/putin.britain.reut/index.html
。7月25日アクセス)。

 どこの暴力団の親分かと思うような物の言い様です。
 しかし、そんなプーチンを擁護する超有名なロシア人が2人います。
 ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーティン(Alexandr Isayevich Solzhenitsyn。1918年〜)とノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ(Mikhail Sergeyevich Gorbachev。1931年〜) です。
 この2人の理屈に耳を傾けてみましょう。

 (以下、特に断らない限り、ソルジェニーティンに関しては、
http://www.nytimes.com/2007/07/23/world/europe/23spiegel.html?pagewanted=print (7月24日アクセス)、及び
http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/IG25Ag01.html  
(7月25日アクセス)、ゴルバチョフについては、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-gorbachev29jul29,1,5990668,print.story?coll=la-headlines-world
(7月30日アクセス)による。)

2 ソルジェニーティンによる擁護論

 ソルジェニーティンは、13年間の亡命の後1990年にゴルバチョフのソ連に帰国しますが、当時はまだソ連の一部であったロシア連邦社会主義共和国の内閣(Council of Ministers)から著書『収容所列島(The Gulag Archipelago)』に対して賞の授与を打診されてこれを拒否しました。
 1998年、これはソルジェニーティンが『崩壊するロシア(Russia in Collapse)』を出版した年ですが、エリティン(Yeltsin)からロシア最高の勲章を授与すると言われ、ソルジェニーティンは、ロシアをかくもひどい状況にした政府から賞をもらうわけにはいかないとしてこれを拒否しました。
 しかし、今年ソルジェニーティンは、プーチンからの国家賞を受け取りました。
 賞の選考をしたのはロシア科学委員会で授与を承認したのはロシア芸術委員会であり、プーチンはロシアの国家元首として、学者や芸術家の集まりであるこれら機関の決定に従っただけではあるものの、欧米では、ソルジェニーティンが変節した、と受け止められています(注)。

 (注)プーチンは賞の授与に際して、収容所列島に言及するどころか、ロシア語研究へのソルジェニーティンの貢献について触れただけだった。

 実際そう思われても仕方のないようにし向けているのはソルジェニーティン自身です。 すなわち、彼いわく、「プーチンはKGBの一員ではあったけれど、KGBのスパイ(invetigator)でもなければ、強制収容所(Gulag)長であったわけでもない。第一、諜報機関に勤務することは、どの国でも否定的に受け止められるわけではない。というより、時にはそれは称賛を引き起こすことさえある。ブッシュ父はCIA長官であった経歴を米国でさして批判されていないと承知している。」、「<ゴルバチェフが余りにも政治的にナイーブに権力を投げ出してしまい、エリティンが国家資産を民間人に投げ売りし、各地の有力者達の支持を得んがために分離主義を助長し、ロシアを弱体化させ崩壊させた後、>プーチンは・・緩慢かつ着実な国力回復に着手した。・・およそ歴史において、一国が国力を回復する措置がとられた時に他国政府がこれを好意的に受け止めたためしはない」と。

 また、ソルジェニーティンいわく、プーチン時代に「ロシア当局はスターリンの恐怖政治に関連する巨大な数の資料を秘密解除した。こういったすべてのことは、いかに専制的傾向が見られるといえ、またスターリンを是認するような風潮が見られるとはいえ、スターリン時代にロシアが逆戻りするといったことがありえないことを疑問の余地なく指し示している」と。

 一体このソルジェニーティンのロシア史観はいかなるものなのでしょうか。
 
 彼は、ロシアが共産主義を採用したのは決して帝政ロシアの政治体制の必然的結果であったわけではなく、1917年10月のボルシェビキ革命は、ケレンスキー(Alexander Fyodorovich Kerensky。1881〜1970年)の1917年の2月革命以降の失政がもたらしたものに他ならない、と主張します。
 そして、このようにして結果として採用された共産主義が、体制存続の必要性に迫られて個々の指導者達や政治体制の悪しき行為・・血腥い恐怖政治・・を引き起こしたのであって、これらは決してロシア人やロシア国家に内在する欠陥の表れなのではない、と言うのです。
 同時にソルジェニーティンは、上記のような恐怖政治が犯した罪について、諸外国がロシア人/ロシア国家内在的欠陥説を唱えたりすることはもとより、非難したりすることはむしろ逆効果なのであって、ロシアの人々自身が自発的且つ良心的にこの罪を認めることこそ民族的癒しに到達する唯一の方法であることを理解しなければならない、とするのです。

 このソルジェニーティンの史観は、プーチンの史観と似通っています。
 すなわちプーチンは、ソ連崩壊以降、欧米人達がロシア史を大災害(disaster)以外の何物でもないとする史観を押しつけたが、ロシアの歴史学者達は、ロシアの過去の暗部だけでなく栄光の部分も摘示しなければならないとしつつ、ロシア史の最暗部が1937年に頂点に達した恐怖政治であることを認めています。

(続く)

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