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太田述正コラム#1874(2007.7.21)
<現在のパキスタン情勢をどう見るか(続)>(2007.8.31公開)

1 司法の独立を宣言したパキスタン最高裁

 パキスタンのムシャラフ大統領(Pervez Musharraf。1943年〜)(注1)が、最高裁の長官(chief justice=首席裁判官)のチョードリー(Iftikhar Muhammad Chaudhry)を3月9日にラワルピンジの陸軍司令部に呼び出して、辞任を勧告するとともに停職を命じ、後任として首席裁判官代行を任命したことは、司法の独立を犯すものとして、チョードリーの辞任拒否と法廷闘争開始もあって、法曹達や野党を中心に広汎なパキスタン国民の憤激をかい、これが軍部による政治支配反対運動へと発展していました。

 (注1)1998年から陸軍参謀長。1999年10月に時の首相のシャリフ(Nawaz Sharif )がムシャラフを解任したが逆にムシャラフはクーデターで政権奪取した。2001年から李軍参謀長のまま大統領。

 爾来政治的危機が続いていた(注2)ところ、20日、最高裁の全裁判官による裁判において、10対3でこのムシャラフの措置を違法とするとともに、チョードリーの首席裁判官への復帰を命じる判決が下されました。

 (注2)ムシャラフ与党支持者達は今年5月、カラチでチョードリー支援者達を襲い、42名が死亡、150名が負傷するという惨事が起こっている。

 ムシャラフがこのような措置をとったのは、チョードリーが最新式のベンツを自分の官用車として求めたとか息子の警察への就職に便宜を図ったという職権濫用が表向きの理由ですが、本当の理由は、チョードリーが、パキスタン諜報機関によると目されているところのテロ容疑者達の「行方不明」事件を究明する必要があると唱え、ムシャラフ政権が実施した国営製鉄会社の民営化を無効とする判決を下した上、ムシャラフが陸軍参謀長を兼任したまま大統領に再任されることや今年大統領としての任期が切れるまでに現行の議会・・やはり今年選挙が予定されている・・によって大統領に再任されることに法的観点から疑義を唱えていたからだ、とされています。
 
 この判決については、ムシャラフは事前に、いかなる結果が出ようとそれに従うと言明しており、また、判決後、首相のアジズ(Shaukat Aziz)も、本件には決着が付いたので前に進もうとパキスタン国民に呼びかけました。
 しかし、これはパキスタンにおいて、初めて非軍人が軍事指導者相手に裁判で勝利し、司法の独立が宣言されたという意味で画期的なことであり、ムシャラフ政権への打撃は巨大です。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/07/20/world/asia/20cnd-pakistan.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
http://www.ft.com/cms/s/8c5f547c-36b6-11dc-9f6d-0000779fd2ac.html
http://www.ft.com/cms/s/d7caadcc-36dd-11dc-9f6d-0000779fd2ac.html
http://www.time.com/time/printout/0,8816,1645479,00.html
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2131576,00.html
(いずれも7月21日アクセス。以下同じ)による。)

2 日本における司法の独立

 法の支配を身上とする英国によって長年統治されていても、法の支配の伝統のないパキスタンで司法の独立を確保するのは容易なことではないことがよく分かりますね。
 
 ところで日本では、1891年の大津事件に際し、当時の大審院長児島惟謙(1837〜1908年)が政府の介入を退けたことで司法の独立が確保されたとされています(
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kojimaikenn.htm
)。
 私が、日本で司法の独立が先の大戦中も維持されたことを、大審院の吉田久裁判長が1945年3月の判決で翼賛選挙を無効と判示したことを例にとってご説明したこと(コラム#1416)を覚えておられる方もいらっしゃることと思います。

 考えてみると、児島は宇和島藩出身の維新の志士の一人であり、1871年に34歳くらいの時に司法省勤務になるまで法律の専門的な勉強をしたわけではありませんが、その彼のおかげで、日本が非欧米諸国としては最も早い時期に司法の独立を確保できたのは、江戸時代に法の支配に近い観念が一般庶民の間でも既に根付いていたからでしょう。

 刑事裁判については、笞打ち、石抱えを超える本格的な拷問を行える場合は極めて限定されており、しかも老中の許可が必要でしたし、死刑判決には将軍の決裁が必要でした(http://www5c.biglobe.ne.jp/~cibakon/49667358/index.html
)。
。 他方、民事裁判については、家主、地主、名主による内済(示談調停)前置主義とでも言うべき運用がなされていましたが、内済においても徹底した証拠主義が貫かれていました。また、明治時代になって代言人(更には弁護士)と呼ばれるようになる人々も江戸時代に、郷宿、公事宿と呼ばれた所で働いていたのです。

 要するに日本では、欧米の近代的な司法制度が入ってくる以前に、既に近代的な司法制度と非常に似通った制度が存在していたのであって、欧米の制度を受け入れて、既存の制度を再編成するだけで足りた、ということなのであり、だからこそ、司法の独立もまた早い段階で確立したのです。
 (以上、「だからこそ、・・」まで
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10003363/0/kouza/section3.html
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/minnzi.htm
による。)

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