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太田述正コラム#0036(2002.5.30)
<北京雑感>

 5月16日、北京空港に降り立ち、七年前の初訪中の時にはなかった新しいターミナルビルに入った。建物の外観は余り感心しない。日本の経済援助で建てられたもので、日本の某大使が強く要求した結果、日本の援助を得た旨の表示板がビルのどこか余り目につかない所に掲げられているという。

荷物をピックアップして外に出ようとしたところ、係官に呼び止められた。怪しげな二人組だと見られたのか、それとも瀋陽の事件等の影響で日本人へのいやがらせか。同行者(中台関係の研究者)のトランクがまず開けられ、中から私の本数冊や新聞、雑誌のコピー類、更には講演録音テープ数巻が出てくると彼らの目の色が変わった。日本語のできる女性係官も加わり、一つ一つ内容を問われた。テープの何本かは別室で聴取されたようだ。私のトランクや手荷物も調べられたが、パソコンに全く関心を示さなかったのには拍子抜けがした。小一時間たったところで、ようやく解放された。

 旅行社差し回しのマイクロに乗って北京市内に向かった。空はどんよりとしている。ホテルに着く頃には、このところおさまっていた私の花粉症の症状が現れてきた。さっそく抗アレルギー剤を服用した。東京なら、一日一錠でおさまるところを、翌日からは毎日二錠飲むはめになった。連日の空の色から見ても、北京の空気は東京よりもはるかに汚れていると考えた方がよさそうだ。

 七年前は北京の発展ぶりに感銘を受けたものだが、今回はさほど動じなかった。(むろん、北京中心部の王府井が全面的に再開発されている、といった変化はあった。)
ホテルは前回が王府井の人民解放軍経営の五つ星のホテル、今回は北京南部の民営の三つ星のホテル。三つ星だからか、バスルームの壁に錆やカビが浮き出ていた。また、三つ星のおかげで、朝食はバイキング方式だが、純粋中国風。(もっとも不細工な食パンと氷の上に山盛りのバター、それに大きなしゃもじで掬うジャムは置いてあった。)初日はほこりっぽく大味な気がしたが、二日目からは慣れてきた。飲み物は(ミルクはあるが、)お茶だけ。
北京で七年前と明らかに違うのは、レストラン等で、従業員が多数所在なげにたむろしているといった風景がほとんどなくなっていた点と、中国人向けと外国人向けで価格が二本立てになっていたのが、これまたほとんど見られなくなっていた点だ。だから、レストランにせよ、タクシーにせよ、むちゃくちゃに安く感じた。

 翌日の夜の会食がお開きになり、その席で最もエライ人物(女性の共産党中央委員。中央委員は2000名はいるらしいが、つい最近まで常務委員だったらしい。常務委員は80名くらいとか。)が待たせていた車でホテルまで送ってくれることになった。前の座席には運転手とその女性、後部座席にはその女性のご主人ともう一人の中国人、そして我々二人がすわった。すわったと言っても、余り大きな車ではないので、私は中腰となり、前の背もたれにしがみついた形になった。
 びっくりしたのは、この車が時々サイレンを鳴らしたことだ。サイレンを鳴らしては赤信号でも交差点を突っ切り、或いは反対車線を疾走する。おかげであっという間にホテルに着いてしまった。

 三日目の18日(土曜日)の午前中は、単独行動をし、タクシーに乗って廬溝橋に赴いた。橋と抗日戦争記念館を初めて見学するためだ。橋を往復した後、記念館内を見て回り、館内の休憩室で昨夜ホテルで買った北京の観光用地図を取り出し、廬溝橋の位置を確かめようとした。
 ところが、なかなか見つからない。名所の一つとしてあげられていなかったからだ。北京の北東の郊外から探し始め、悪戦苦闘してようやく見つけたところ、位置は何と北京の西南部だった。自分の無知さ加減に冷や汗が出た。
 これは、日本軍は満州方面から北京に対峙していたに違いないという思いこみがあったからだ。
 帰国してから、日華事変について記述した、一番最近(七年前に訪中する直前?)に読んだ(と思われる)本にあたってみると、「ときは昭和十二年(一九三七)七月七日午後十時四十分、場所は北京郊外にある廬溝橋畔の砂利取り場跡であった。夜間演習をしていた日本軍・・の一個中隊・・に向けて、小銃の実弾が打ちこまれた。・・八日午前、とうとう日中間の戦闘が始まった。中国側は第二十九軍の一部隊だった。・・第二十九軍・・の・・司令部<は>北平(太田注:当時の北京の呼称)<にあった。>」(北博昭「日中開戦」(中公新書1994年12月)2、3、12頁)とある。これでは、誤解しても不思議ではない。
 実は、そのはるか以前には、誤解が生じる余地のない本(藤原彰「昭和の歴史5 日中全面戦争」(小学館1982年10月))を読んでいたのだが、すっかり忘れていたというわけだ。
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ここは読み飛ばしていただいてもよいが、その本からの引用、要約を掲げておく。

 「北京・天津とその周辺に日本軍が駐屯しているのは、清朝末期、一九00年(明治三三)の義和団事件いらいのことであった。このとき、・・北京を占領した、日・英・米・独・仏・露・伊・・オーストリア・・の・・八か国は、北京の公使館地域や首都と海港をつなぐ交通線の警備のため、軍隊を駐屯させる権利をえた。・・日本は・・兵数・・一五七0人・・を割りあてられた。・・三五年・・<に>は一七七一名であった。・・三六年・・日本<は>中国はもとより、列国の了解もえずに、駐屯軍の兵力を・・五七七四名<に>・・増強した。・・歩兵・・旅団司令部、連隊本部、第一大隊を北京城内におき、第二大隊は天津に、第三大隊は北京西南部の豊台・・鉄道の分岐点にあたる要衝・・に駐屯させた。・・この豊台には中国軍の兵営もあ<った。>陸軍はこの増強について、華北における共産党軍の脅威の増大にそなえ、近年増加した在留日本人の保護をまっとうするのが目的だと公表した。しかし、・・真のねらいは、支那駐屯軍を強化・格上げすることにより、華北工作について、中央の意図をはなれて専断の多かった関東軍に、手を引かせようとするものであったとされている。」(53-55頁)。
豊台の西方向に、南北に流れる永定河にかかる廬溝橋がある。この橋の東側(北京寄り)で日本軍は演習を実施していたが、演習地のすぐ西の河ぞいの丘、すぐ南の(橋のたもとの)宛平県城内、そして橋の対岸にも中国軍がいた。このような位置関係の下、日本軍は夜間演習を実施し、事件が起こった。(58-62頁)
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ところで、記念館内の全ての展示には中国語と日本語の説明がつけられている。しかし、英語等、それ以外の言語による説明は一切ない。このことと、観光用地図の名所に廬溝橋や記念館があげられていないことから、この記念館がもっぱら国内(と日本人)向けの施設であることが分かる。実際、周りを見渡すと、外国人らしき人は全くと言って良いほど見あたらず、中国人も殆どが修学旅行、研修旅行の人々のようだった。
展示内容については、日本兵による残虐行為のコーナーもあるが、蝋人形で日本人の悪行をどぎつく延々と展示している韓国の独立記念館に比べれば、はるかに客観的なものだった。(もっとも、展示してある「残虐行為」写真のいくつかは、日本で真偽に疑問が投げかけられているものだったし、日本が中国に与えた人的被害の数字は、七年前に北京の軍事博物館で見た数字と同様、著しく誇大なものだった。)

この日の午後には、北京で一番大きいとされる、王府井の「新華書店」に行ってみた。ビル全体が書店なのだが、ビデオやビデオCD等も売っている。各階ごとにジャンルの異なる本が置いてあるが、色んな階に英語学習本、ビデオやテープが並べられており、英語学習熱のすさまじさが推し量れた。
そのくせ、英語の原書は殆ど置いていない。洋書専門店が別にあるのだというが、驚くほど多数並べられている英語からの翻訳本を見ても、中国にとって都合の悪そうな本は見あたらない。どうやら、厳しい輸入、翻訳規制があると見た。(日本の本の翻訳本は、小説類を除けば、松下幸之助氏の本があったほかは目につかなかった。)

日中交流関係者の日本語の流暢さや人情の細やかさは、中国人と話をしていることを忘れさせるほどだった。語ってくれる内容も、必ずしも公式見解ばかりではなかった。しかし、これらの人々はご年輩が多い。比較的若手の国際交流協会事務局長は、英語はできるものの日本語は全くできず、日本を訪問したことすらない。(ニュージーランドに行く途中、成田にトランジットで立ち寄っただけだという。)彼の通訳として、共産党対外連絡部の人が狩り出されたのも、国際交流協会の日本語通訳が払底しているかららしい。
どうも、日中交流は先細りでは、という危惧の念を持った。

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