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太田述正コラム#0054(2002.8.6)
<豊かな社会(アングロサクソン論2)>
(1989年に書いたメモなので、「現在」とは、1989年を意味することをお断りしておきます。)
1 豊かな現在のイギリス
1988年に一年間イギリスに住んでみて、なんともうらやましかったことは、気候のおだやかさです。メキシコ湾流に洗われる島国であるため、一年を通じて、寒暖の差があまりなく、過ごしやすい気候が続きます。雨は適度に降るものの、ずぶぬれになってしまうような激しい雨は、ごくまれです。
不思議なことに、雑草もあまり生えないようで、芝生、牧草の類は、冬も青々と繁っています。牧畜を主体とする農業にこれほどの適地はないのではないかという気がします。
また、イギリス全体が比較的平坦であることもあって、川はゆったりと流れ、大雨も少ないわけですから、氾濫することがほとんどありません。アジアでは、大昔から治水が為政者にとって最大の関心事であったというのに、天国のような国があったものです。
天国といえば、イギリスには地震もありません。このおかげで、鉄筋抜きの煉瓦作りの住宅を建てることができ、建てればそれは半永久的にもつことになります。ビルを建設するときも、柱は細くてすみ、わが国などの場合と比較すれば、はるかに安上がりです。
第一、人口がとても少ないのです。居住可能面積でみてみると、人口密度は、何と日本の四分の一に過ぎません。(建設白書)
土地が平坦で地震がなく、人がまばらにしか住んでいないときているのですから、鉄道、道路、飛行場をはじめとするインフラ整備の容易さが推し量られます。
そこへもってきて、小さい国の割には石炭などの天然資源に恵まれ、石炭の時代が過ぎたと思ったら、今度は北海油田を掘り当てるという、文字どおりつきについている国なのです。これだけ恵まれている国で、しかも、最も早くから近代化したため、長年月にわたるインフラストラ クチャー整備の蓄積があり、その全盛期の大英帝国時代に全世界から集積した美術品、金融資産(対外資産は、1983年まで、アメリカについで第二位で、現在でも日本についで第二位です。一人当りでは、実質世界一と言ってよいでしょう。)に取り囲まれて暮らしているのですから、今でこそ、名目ベースの一人当り GNPは低く見えても、実質ベースでは、依然として高い生活レベルを維持できるのです。
2 昔のイギリスの豊かさ
それでは、昔のイギリスはどうだったのでしょうか。
まず 1950年です。この時点ではまだ英国は、一人当り GNPでヨーロッパ随一でした。
(単位:米ドル(1964年))
アメリカ 2,536
ソ連 699
英国 1,393(1951)
フランス 1,172
西独 1,001
日本 382
イタリア 626(1951)
出典:ポール・ケネディー 「大国の興亡」
一世紀以上前の1830年ではどうでしょうか。 表にはアメリカが入っていませんが、英国が世界一豊かであったことは間違いありません。
(単位:米ドル(1960年価格))
英国 346
イタリア 265
フランス 264
ドイツ 245
オーストリア 250
ロシア 170
出典:上と同じ
事実、イギリスの隣国のフランスの当時の社会主義思想家のサン・シモンは、「イギリス国民は最も富裕でまた最も強力です。・・最も多数の階級が最良の家に住み、最良の食物を食べ、そして最良の着物を着ているのはイギリスにおいてです。」と言っているところです。(「産業者の教理問答 1824年」(「世界の名著サン・シモン」中央公論社 に収録))
18世紀以前にさかのぼると、国民所得分析は困難となります。
まず、18世紀末のエドモンド・バークの証言を聞きましょう。「フランスは、その人民の数においてはイングランドをはるかに越えるが、しかしフランスの富は、われわれのそれよりはるかにおとっているし、それは分配において、われわれのそれほど平等ではなく、流通においてわれわれのそれほど円滑ではないことを、わたくしはしっている。」(「フランス革命についての省察」中央公論社版)
これは、イギリスでは産業革命がすでに始まっていたが、フランスがまだ産業革命以前の段階にあった頃に書かれたものですが、このイギリスの豊かさは、必ずしもそのためだけではなさそうです。
Historical Atlas of Britain, Kingfisher Books 1987に掲げられている 職工の賃金の推移表を見てみると、なんと 13世紀以来、途中の変化は激しかったものの、18世紀に至っても、少しも実質所得が増えていないことが分かります。しかし、これは見方を変えれば、いかに 13世紀時点で、イギリスがすでに豊かであったかを示しています。この表から、イギリスの一人当り所得は16世紀末に最も低かったことが読みとれるのですが、その頃イギリスを訪れた、一人のドイツ人法律家の証言を取り上げてみましょう。
「[イギリスの] 土地は豊かで牛が満ちあふれている。[そして丘の上では、] 無数の羊の群れがたむろしている。[これこそ、] イギリスの住民達の富の源泉なのである。商人によって、巨額のカネがこの島に持ち込まれている。住民達は、フランス人に比べ、パンはより少なく、そして肉はより多く消費する。飲物の中には大量の砂糖をぶちまける。・・・彼らのベッドは、農家でさえ、タペストリーでおおわれ、・・・住んでいる家は、大抵 2-3階建てときている。・・・ガラス窓を入れた家などはいくらでもある。」(Alan MacFarlane, The Origins of English Individualism: The Family, Property and Social Transition, Blackwell, 1987 邦訳あり)
そうなると、一人当り所得が一つの頂点に達していた 15世紀の豊かさが、いかばかりであったか、ぜひとも知りたくなります。おあえつらえむきに、当時の駐英ベネティア大使の本国宛報告書が残っています。
「イギリスの富は、ヨーロッパのどの国よりも大きい。これは、ある年輩の経験豊かなある商人が言ったことだが、私自身の体験に照らして、本当だと請け合うことができる。・・・[イギリスの豊かさは、] 土地の肥沃さ[と] 高価な錫の輸出、[さらには] 想像を絶するほど豊富な羊毛[によると考えられる。] ・・・どんなに小さな旅篭屋の主人であっても、彼がどれほど貧しく、慎ましかろうと、食事の時に銀製の皿やカップを用いない者はいない。そして、誰であれ、少なくとも 100ポンド、つまわれわれのクラウン金貨 500 枚相当以上する銀のお盆を持っていないようでは、とるに足らない人物と見なされてしまう。・・・[また、彼らは、] 大昔から大層立派な衣類を身にまとってきた。」
「大層立派な衣類を・・・まとってきた」ことの例証として、エドワード4世時代(1461ー83)に制定された法律が、労働者の妻や娘達が金や銀で縁どりをした腰帯やガードルを身につけることを禁じた(!)ことをあげることができます。(Alan MacFarlane, Marriage and Love in England: Modes of Reproduction 1300-1840, Blackwell, 1987)
実際、当時は、労働者階級(ギルドの職工と農業労働者(筆者注))に至るまで、大変豊であったようです。イギリスの労働党の創始者であるケア・ハーディは、その主著の中で、ある学者の説をひいて、「・・イギリス労働者の黄金時代は15世紀であった。食物は安価であり、賃金は高く、また一日8時間労働が一般的であった。下宿をする職人はまかない料と部屋代として週に9ペンスから1シリング(12ペンスであり、10分の1ポンドに相当。(筆者注))を支払わねばならなかったが、それに対して、彼の賃金は週に48時間労働で3シリングから4シリングに及んだ。・・労働しない日曜日や休日に対しても支払われるのが、通常であったように思われる。」といっています。(小川喜一「ケア・ハーディ」講談社)
これが、黒死病(ペスト)が依然として猛威をふるい、イギリスの人口が三分の一も減ったままの状態の頃の話であることに注目してください。疫病という不幸の訪れによって、人口が減少したけれども、おかげでみんなが豊かに幸せになったという、まことにもっておかしな国なのです。それより約一世紀前、イギリスが初めて黒死病に襲われ、人口が激減した時代に生まれた「カンタベリー物語」(チョーサー作)にみなぎるユーモア精神と明るさには、ただただあっけにとられる他はありません。
更に時代をさかのぼると、ついに書き物がなくなってしまうのですが、英国史の本を読むと、「[1300年前後の]イギリスにおけるもっとも重要な産業は織物産業であった。これは、間接的には、無数の羊の群れからとれるヨーロッパ一の品質の羊毛を生み出してくれる土地のたまものであった。」(The Oxford Illustrated History of Britain, Oxford University Press, 1984)というくだりがでてきます。どうやら、どこまでさかのぼっても、イギリスは豊かであったらしいのです。
アングロサクソン以前の話ですが、「ゲルマニア」の著者として有名なタキトゥスは、同じ98年に刊行した「アグリコラ」の中で、ローマ支配下の「ブリタンニアの土地は、・・どんな農産物にも適し肥えている。・・土地にも空にも水分が多い・・」(タキトゥス「ゲルマニア アグリコラ」筑摩学芸文庫149頁)と言っていますし、そのおかげでしょう、「最近の研究が明らかにしたところによれば、[ローマによる征服以前から]ブリトン人の農業は、技術的に大変進んでおり、少なくとも、穀物については、彼らの生存のために必要な量をはるかに越える余剰を生み出していた」(前掲The Oxford Illustrated History of Britain)ようです。
その社会が貧しければ、人々は肩を寄せ会い、乏しきを分かちあいながら、イエ、ムラ、カーストなどの共同体に埋没して生きて行くよりありません。イギリスにおいて、ゲルマン時代由来の個人主義が維持できたのは、以上述べてきたような、異常ともいえる豊かさがあったればこそなのです。
3 豊かさを維持したメカニズム・・人口抑制
前に触れた表から、13世紀末にイギリスの人口が最初の頂点に達したことも分かります。もっともこれは、ローマ時代の人口の水準をようやく回復しただけのことだったようです。 実に、一千年ものあいだ、イギリスの人口は、アングロサクソンによる征服時の激減期をはさんで、停滞を続けたことになります。
面白いことに、当時、すでに家族計画がはやっており、「バースコントロールの方法として、射精直前抜去法の知識がみんなに普及していた」(前出History of Britain)ようです。
さて、すっかり黒死病による人口減少に味をしめたイギリス人達は、ようやく人口が、黒死病以前の水準まで回復しつつあった17世紀に入ると、ますます家族計画に熱中します。
まず、イデオロギー面から見ていきましょう。 16世紀末から17世紀初めにかけて執筆された「随筆集」の中で、ベーコンは、次のように語りかけます。
「・・注意してみると、あらゆる偉大で価値のある人々の中で、気の狂うほどの恋愛にわれを忘れたものはひとりもいない。それによって明らかになるのは高貴な性質をもった人たちや偉大な事業は、この感情を寄せつけないということである。・・・出生による継続は獣類と等しい。 だが記憶に残ること、価値、高貴な事業は人間固有のものである。そしてたしかに、いちばん高貴な仕事や事業は子持たずの人たちから生じているものであることを人は知るであろう。・・・最良の仕事で、社会にたいして最大の価値のあるものは、結婚をしなかったり、あるいは子どもをもたない人たちから生じている。それらの人たちは愛情、財産両方の点で社会と結婚し、これに財産を与えてしまったのである。・・・結婚しない人たちは、友人として最善、主人として最善、召使として最善である。」(「世界の名著ベーコン」中央公論社)
このように、大変高まいな話が続くのですが、結局、ベーコンが何を言いたいかというと、「[国家が、反乱に悩まされないようにする秘訣は、その国家の]人口が、[人口]を維持する[ため]の生産を越えないようにするということである。」ということにつきるようです。
今度は、具体的な家族計画のテクニックを見てみましょう。
「実際、人口増加率は、晩婚というイギリスの慣習によって比較的低く抑えられていた。すべての社会グループにおいて、結婚は通常双方が20代中ごろになり、妻として、もはや 12-15年しか出産可能期間を残さなくなるまで延期された。・・・このパターンは 17世紀末に至るまで続き、結婚年齢はますます高くなった。・・・より画期的なことは、家族規模を抑えようとする意志がみられたことである。 3人以上 子供がいる家庭では、それ以上妊娠をしないような措置が意識的にとられた。例えば、母親達は、三人目以降の子供に対しては、一人目や二人目の場合に比べて何ヵ月も長く母乳で育てることによって、新たな受胎を回避しようと試みた。初歩的な妊娠予防機器や性的禁欲のエトスも一般化していた。」(前出History of Britain)
一方、この時期、新大陸への移住も始まり、やがて大量の人口流出を見ることになります。
この結果、イギリスは、ヨーロッパ諸国の中で、初めて人口増加と飢饉、疫病等による人口減少のくりかえしの悪循環から逃れることができたのでした。18世紀末から19世紀初頭にかけてマルサスによって書かれた「人口論」は、実は、このイギリスにおいて実現したことが、人類の歴史上、いかに希有で奇跡的なできごとであったかを示そうとしたものなのです。
その一方、マルサスは、イギリスのこのうるわしい人口抑制メカニズムが破壊される懸念を表明します。
「貧民は、(救貧法のおかげで、)独立して家族を扶養することができる見通しを、ほとんど、あるいはまったくもたないで、結婚できるかもしれない。したがって、救貧法は、それが扶養する貧民をある程度つくりだすといわれてもよいであろう。そして、この国の食料は、人口増加の結果、各人により少量ずつしか分配されないにちがいないから、(救貧法による)扶助にささえられない人びとの労働は、以前より少量の食料しか購買せず、したがってかれらのうちのもっとおおくのものが、扶助を依頼するにいたるにちがいないことは、あきらかである。」(「世界の名著マルサス」中央公論社)
もう一人、よく知られている人をあげるとジョン・スチュアート・ミルです。
「[1820年代にミルが属していた]「哲学的急進派の考えの中心は、ベンサムの功利主義立法、リカードの自由主義経済とならんでマルサスの人口論に立った産児制限運動であるが、この時代ミルは、産児制限普及のビラを貧民街で配ったという理由で逮捕されたこともあった。」(関 嘉彦による「世界の名著第38巻」(中央公論社)解説)
このように、知的エリートから庶民にいたるまで、人口の増加を抑えることによって、イギリスの一人あたりの(=個人主義的)豊かさを維持していくため、いかに懸命の努力を続けてきたかがお分かりいただけたことと思います。
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