太田述正コラム#0109(2003.3.20)
<米国による対イラク戦・・その歴史的必然性>

 私がホームページのプロフィール欄で、自らの原体験の一つとして7歳の時にカイロで遭遇したスエズ動乱(1956年) を回顧している(http://www.ohtan.net/profile/why.html)のに気づかれた方もおられるでしょう。
 それから半世紀近くがたち、対イラク戦が始まった今改めて感慨を覚えるのは、すべてはスエズ動乱から始まったということです。
 スエズ動乱は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化したのに対し、運河の国際管理を主張した英国とフランスが謀議を行い、イスラエルを引きずり込み、まずイスラエルが、そして引き続き英仏がスエズ地区に出兵し、これに米国とソ連が強硬に反対(注1)し、英仏とイスラエルが撤兵するという経過をたどります。(Henry Kissinger, Diplomacy, Simon & Schuster 1994, Chapter21。以下、この典拠を全般的に参考にした。ただし、細部のニュアンスにおいて、キッシンジャーと私の考えは異なる。)

 (注1)米国はポンドの切り下げを放置し、ソ連は核兵器の使用を示唆し、英仏を追いつめた(前掲書PP543)。

英仏が、中東の「ならず者」国家の不当な行為を座視することは両国の死活的国益に関わるとして、自衛権の発動も国連のお墨付きもないままその国の体制変革を目的として出兵し、それに米ソ(露)が強硬に反対するという構図に見覚えがありませんか。そうです、フランスと米国を入れ替えれば、今回の対イラク戦の構図そのものですね。
 当時米国が英仏に反対したのは、自らの国益の追求よりも、第三世界におけるナショナリズム(=強者による支配に対する弱者の抵抗運動、だと米国はとらえていた)の擁護、及び国際法(就中、自国が起草した国連憲章)の遵守、を優先したからです(前掲書PP544-545)(注2) 。

 (注2)これは、1953年にイランでクーデターを引き起こして(その二年前に石油の国有化を行った)モサデグ首相を追放した(前掲書523-524)、という米国自身のその直前の政策との整合性も欠いていた。

 しかし、既に押しも押されぬ覇権国であった米国が、このような青臭い理想主義的な政策をとった結果は無惨なものでした。
 米国に裏切られて大恥をかかされた英国とフランスは、グローバルパワーとしての旗を過早に降ろさざるを得なくなり、第三世界における共産圏に対する抑止と国際秩序維持の役割を米国に「丸投げ」することを余儀なくされます。そして米国は、これらの役割を一人で担う羽目に陥ってしまいました。
 (米国が、日露戦争後、日本と英国の同盟関係を解消させて日本を孤立化させた上、中国による度重なる国際法(ワシントン条約体制)違反に目をつぶってまでして中国ナショナリズムに肩入れし、アングロサクソンの本来的同盟者たる日本を追いつめて先の大戦を引き起こさせ、その日本を叩きつぶすことによって、戦後、アングロサクソンから見て一層不利となった状況下において、東アジアにおける対共産圏抑止と国際秩序維持の役割を一人で担う羽目に陥ってしまったことを思い出してください。大戦後、ようやく国際法の遵守には配意し始めたとはいえ、ナショナリズムへの無警戒な肩入れという点では米国はまだまだ「青」かったというべきでしょう。まことに米国は「懲りない」国というべきであり、bastard(できそこないの)アングロサクソンたる面目躍如ですね。)
 そして英国は、同じアングロサクソンとして米国の懐の中に飛び込み、米国をたてることで両国の信頼関係を修復させるとともに、米国への(英米両国の情報共有(コラム#107参照)を前提とする)国際情勢判断の提示や政策(ベトナム戦不参戦等)の提示を通じて米国を「教育」し、その「成熟化」を図り、英米の「特殊な関係」を確固としたものにすることに成功します。
 逆にフランスは、独自の核戦力の構築へ向けての努力を加速(1960年に最初の核実験)し、ドイツとの連携の強化に走り(1963年に独仏(エリゼ)条約)、英国のEU加盟拒否(後に撤回)、NATOの軍事機構からの離脱(1966年に完了)等、欧州のアングロサクソンからの「独立」、そしてその欧州におけるフランス主導権の確立、をひたすらめざすこととなります. (http://www.charles-de-gaulle.org/en/facts/biography/bio_04.htm。3月16日アクセス)。
 他方ソ連のフルシチョフ政権は、西側の「分裂」による弱体化を奇貨として、スエズ動乱とほぼ同じ時期にハンガリーにおける反ソ暴動を軍隊を投入して情け容赦なく弾圧(http://www.csmonitor.com/2003/0313/p07s01-woiq.html。3月13日アクセス)するとともに、爾後中東等への影響力の増進を積極的に図り、かつベルリン危機(1958年)からキューバ危機(1962年)に至る瀬戸際政策を遂行し、このことと、キューバ危機での「敗北」が遠因となって失脚するに至ったために自らが始めた非スターリン化(1956年にスターリン批判)が中断してしまう、という両者があいまって、東西冷戦はその後四半世紀にもわたって「不必要に長く」継続することになります。
同時に、アラブ人は米国の「貢献」を忘れ、自分達の力で旧宗主国たる英仏に「大勝利」をはくしたと錯覚し、アラブナショナリズムの炎が全中東地域で燃えさかることとなり、1958年にはイラクで容共勢力主導の革命が起こり、ハーシェム家による王制が倒されてしまい(http://www.guardian.co.uk/g2/story/0,3604,912266,00.html。3月11日アクセス)、アラブ等のナショナリズムと共産圏の二つをにらんでつくられたばかりであったCENTO(バグダット条約、1955年。米・英・トルコ・イラク・イラン・パキスタンが加盟)は瓦解し、西側の中東への影響力は決定的に衰えてしまいます。そしてこのことが、後日、1970年代後半における(米国の積極的関与の下の)反共バース党による政権奪取、そしてフセインによる独裁へとつながって行くのです(http://www.iacenter.org/iraq_history.htm。3月20日アクセス)。
 またナセルは全アラブ人の賞賛を受けて自己陶酔に陥り、ソ連製の武器でひたすら軍事力の強化を図り、その11年後の1967年、他のアラブ諸国と示し合わせてイスラエルを挑発し、第三次中東戦争(七日間戦争)を引き起こします。ところが、この戦争の結果、アラブ側はイスラエルに壊滅的大敗北を喫し、イスラエルは西岸地区及びガザ地区のほか、ゴラン高原とシナイ半島を占領してしまいます。そして占領地問題(=西岸(エルサレム旧市街を含む)・ガザ問題)を抱えてしまったことにより、パレスティナ問題の解決は事実上不可能になってしまうのです。

 このように見てくると今回の対イラク戦は、米国が、スエズ動乱の時に自らが犯した過ちの贖罪のため、その半世紀後に至ってようやく、スエズ動乱当時英仏、就中英国が果たそうとして果たせなかったところの親アングロサクソン的な中東の戦略環境の構築を目的として、断行したものだ、と考えることもできます。
 他方、今回フランスがとった対イラク戦への硬直化したスタンスは、スエズ動乱において(西欧文明の過去の覇者なるがゆえにこそ)負わされたトラウマから同国が未だに快復していないことを示す病理現象であると考えることもできるわけです。
 いずれにせよここしばらくは、読者の皆さんとともに、対イラク戦の戦局の推移とその後のイラク復興の過程を固唾を飲んで見守ることにしましょう。

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