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太田述正コラム#0161(2003.9.29)
<アラディン通信1:イラクと日本の関係>

これは、私の友人のアラディン・タイムール(Aladdin Timur)氏による本コラムへの第一回目の寄稿です。
 タイムール氏との出会いは半世紀近く前のカイロ時代にさかのぼります。
 当時私は小学生でしたが、12歳上のタイムール青年について、現地日本人社会に出没する日本語がペラペラで柔道や空手の達人の変なガイジン、という印象を抱いていました。
 その後、彼は中東諸国等と日本の架け橋となるべく、日本にやってきて現在に至っています。
 その彼とは、つい最近までほとんどご縁がなかったのですが、最近、思わぬことがきっかけで旧交を温めることになりました。
 彼から改めて聞かせてもらったプロフィールは次の通りです。

 1937年、エジプト最後の国王ファルークのいとことしてカイロに生まれる。
 アラビア語、英語、フランス語、日本語四カ国語を自在にあやつる。柔道、空手五段。
 英陸軍士官学校、フランス空軍士官学校、米ノースカロライナ大学で特殊作戦、戦闘機操縦等の教育訓練を受ける。NATO司令部、米戦略空軍司令部、シナイ国連平和維持軍等に勤務。日本では中東諸国及びNATO諸国に関するコンサルタント業務に従事。小田原在住(国際館館長)。

                                太田述正
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 『日本経済・・は・・小泉政権の今後のイラク政策にかかっている』。先日太田君から配信されたコラム#157(2003.9.18)を読んでその読みの深さに驚いた。
日本にとって、中東との関係の「重さ」は決して無視できないものがある。このテーマについて、世間話をするような感覚で、時々太田述正コラムに寄稿させてもらうことにした。読者諸賢の参考になればうれしく思う。
                           アラディン・タイムール
イラクと日本の関係
時は1988年にさかのぼる。
当時はイランイラク戦争の真っ最中だったが、ある日本企業に頼まれた用事でイラクを訪問することになった。
用事の相手は私の昔馴染みの軍人である。彼は前線で司令官を務めていたが、移動手段として軍用機を使わせてくれることになった。私は、案内係の若い将校の無理矢理の勧めに応じて、久しぶりにフランス製のTマジステ-ル戦闘機の操縦桿を握った。
その時、イラク、イラン前線上空を僅か十数分飛行しただけで、両国併せてざっと6??7千台もの日本製車両が目に入ったことを記憶している。
バグダッドに降りたってみると、市場には日本製の機械から家電までありとあらゆるものが溢れていた。
このように、イラクでの日本の存在感は相当なものだ。
更に例をあげよう。
イラク戦争後、十数カ所に及ぶフセイン大統領の宮殿は、現在もっぱら米軍が使用しているところだが、このうちのいくつかを含め、日本のゼネコンがイラクで手掛けた建築物や工場は数えきれない。(もっとも、国連の制裁等で現在5??6千億円位支払いが滞っているという。)

その日本に対し、1991年の湾岸戦争後、イラクは石油を輸出しない政策を採った。
日本は多国籍軍に140億ドルも払ったのだから、その日本に対してイラクが好感情を持たないのは当然かもしれない。
しかし、最大の敵のはずの米国に対しては、イラクは石油を売り続けていた。実にイラク産の7??8割もの原油を・・・。
その後、イラク政府はこの日本には売らないという政策を維持しつつ、私だけに特別に、国連から承認を得たイラクの石油を日本に安く輸出する特権を与えてくれた。私のかねてよりの日本イラク友好親善協力への尽力が認められたのである。
そこである筋を通して日本の大手商社の人に会い、商談を進めようとした。するとその人は、こんな石油を日本に持ち込んだら、あなたは即刻国外追放になるだろう、と言って商談は成立しなかった。
一体どうしてイラクは日本に対して石油を売らないことにしたのだろうか。
また、日本の商社が私の商談に乗らなかったのはなぜだろうか。

これから、読者とともに、これらの疑問を解き明かしていくことにしたい。

(続く)

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