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太田述正コラム#0178(2003.10.27)
<宋美齢(その2)>



 (前回のコラムを書いてから、伴武澄氏が2000年2月に、中共において「蒋介石の再評価」が「李登輝・・が初めて台湾の・・選挙で総統に選ばれた<1988年>ころから・・歴史学会を中心に始まり」、「匪蒋」、あるいは「「人民公敵」とされていた蒋介石が「先生」と呼ばれるようにな」り、「1996年11月」には「蒋介石が育った奉化県渓口鎮の旧居が国務院の「全国重点文物保護単位」に指定され」ている、と指摘されているのを発見しました。(典拠は今回のコラムの本文中で引用した萬晩報のサイト))



蒋介石存命中の宋美齢の行動を理解するためには、彼女の生い立ちや一族について知る必要があります。
 彼女の父親の宋耀如(Charles Jones Soong=Charlie Soong)は、米国で教育を受けてメソジスト派の牧師になり、米国で事業活動を開始し、支那に戻ってから中国語訳聖書の出版と販売等で一大財産を築いた人物です。彼は日米両国の親支那民族主義者らと並ぶ孫文の有力スポンサーとなり、その関係で彼女のすぐ上の姉の宋慶齢は支那革命(中華民国)の父で国民党の創設者である孫文の妻となり、宋美齢は蒋介石の妻となったわけです。
 当然、宋耀如の子供達はみんなメソジスト派の信徒です。
宋美齢は、二人の姉達と同様、上海のインターナショナルスクールに入ってから若くして米国に留学し、(二人の姉たちとともに、恐らく支那出身の女性としては初めて)米国の大学教育を受けて流暢な英語とアングロサクソン的修辞学を身につけます。そして結婚にあたって宋家に聖書読書を条件とされた(宗教に興味がなかった)蒋介石もやがてメソジスト派の信徒になります。ちなみに、孫文もクリスチャンです(http://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/human/sonbun.html。10月25日アクセス)。
長姉宋靄齢(Soong Ai-ling)の結婚相手の孔祥熙 (Kung Hsiang-his=H.H. Kung。孔子の直系子孫)は、結婚当時支那一の大金持ちと言われていましたが、孔は宋美齢の長兄の宋子文(Soong Tse-ven= T.V. Soong)とともに中華民国政府の要職を歴任することになります。
要するに、宋美齢は1927年に蒋介石と結婚することで、当時の支那の三大家族であるところの、金力の象徴たる孔家、権威の象徴たる孫家、そして軍事力の象徴たる蒋家の三つを連結することに成功し、蒋介石は孫文の後継者としての地位を確立し、やがて中華民国において蒋と宋の両名を頂点とする強権的支配体制が確立することになるのです。
しかも、キリスト教、就中プロティスタンティズムの布教先として日本に比べて有望視されていた支那にもともとシンパシーを抱いていた米国(米国のキリスト教的偏向については、コラム#6参照)は、蒋介石夫妻が醸し出したイリュージョンに幻惑され(注4)、腐敗に充ち満ちたファシスト国家であった当時の中華民国(注5)の実態には目をふさぎ、国民党を支援し日本を敵視する政策をひたすら追求することになります。



 (注4)蒋・宋のカップルは1931年、米タイム誌の表紙を飾った。
 (注5)蒋介石率いる中華民国が典型的なファシスト国家であったことは、(1)日本敗戦後、台湾に進駐した国民党軍が、1947年、いわゆる2.28事件において2??3万人、一説には11万人もの台湾住民を虐殺し、(2)蒋政権が、共産党との内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ1949年から米国の圧力によってそれが解除される1987年まで28年の長きにわたって戒厳令を維持した(http://www.weiweitaiwan.com/life-area/profile.htm(10月25日アクセス)及びhttp://www.bekkoame.ne.jp/i/funyara9/asia/taiwan/rekisi01.htm(10月26日))、というやり口を見れば容易に想像がつこう。
 
しかし、蒋介石夫妻と言っても、主導権を握っていたのは蒋介石の方ではなくて宋美齢でした。
当時の支那の女性としてはめずらしく、彼女は、夫の蒋介石と常に行動をともにし、蒋介石の意志決定に容喙しました。その上彼女は、自らのイニシアティブで欧米就中米国に対する蒋政権の広告塔の役割を積極的に果たしました。米国の中華民国像は、彼女が通訳として「意訳」する蒋介石の言葉、ないしは彼女自身の言葉を通じて形成されたと言っても過言ではありません(注6)。



(注6)大戦中の1943年に渡米した宋美齢が、米連邦議会を始めとして全米各地で対日戦争への一層の支援を訴えて回り、行き先々で大喝采を博したことは良く知られている。
    また、同じ年に開催され、日本の植民地の処理について話し合ったカイロ会談に、支那の政権など相手にしていなかったチャーチルの反対をおしてローズベルトは蒋介石を招いたが、この会談にも宋美齢は同行し、会談の実態は彼女を含めた四者会談と化した。



そして、米国「出身」でクリスチャンの若く美しい支那のファーストレディーが醸し出すイリュージョンに幻惑され、米国民のみならず米国政府は、善玉で弱者で民主主義を奉じる支那が悪漢で強者で軍国主義の日本の侵略を受けているという単純な図式を刷り込まれてしまいます。当時の米国の(中国共産党を含む)共産主義に対する認識の甘さ(注7)とあいまって、これが米国の対東アジア政策を大きくゆがめ、日本を満州事変へ、そして三国同盟へ、更には先の大戦へと追い込んでしまい、結果的に米国の盟友でアングロサクソン文明を共有する英国の(早すぎた)「帝国」の崩壊を招いてしまうのです。



(注7)1930年代にニューヨークタイムズのソ連特派員だったワルター・デュランティ(Walter Duranty)がスターリン主義の暴虐さに目をつぶって筆を曲げていたとして、彼が授与された1932年のピュリッツァー賞を剥奪する動きがようやく米国で高まりつつある(http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1069818,00.html(10月24日アクセス)。結局ピュリッツァー委員会は剥奪しないとの決定を下した(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3229000.stm(11月23日アクセス))。あれだけ第二次世界大戦以降、厳しく共産主義と対決するに至り、冷戦に勝利してソ連を崩壊に導いた米国においてさえ、歴史の「是正」にはかくも長い時間がかかるのだ。



これが、宋美齢が「抗日戦争に力を尽くし」た(賈慶林の前掲コメント)ということの意味です。



もう一つ忘れてはならないことは、彼女こそ、(結婚によって蒋政権の腐敗の構造をつくりあげてしまった責任までは問えないとしても、)蒋政権下の一族の腐敗を放置し、第二次国共合作を成就せしめ、結果的に共産党に支那の政権を奪取させた張本人だということです。
 蒋介石は、師匠の孫文とは違って日本に対しては宥和的であり(注8)、敵は共産党であるとの認識を持っており、対共産党戦に全力を傾けていました。(たまたま宋美齢が同行せずに)その蒋介石が共産党との戦いの督戦のために西安(Xian)を訪れた際、既に共産党とよしみを通じていた張学良(Chang Hsueh-liang)によって監禁され、国共合作を行い、国共両党が一体となって対日戦争にあたるよう迫られます。1936年のいわゆる西安事件(事変)です。
この事件を「解決」したのは宋美齢です。彼女が蒋の監禁11日目に西安に飛ぶや否や、それまで頑として首を縦に振らなかった蒋介石はしぶしぶ翻意し、その二日後に蒋は釈放されるのです。



 (注8)蒋介石は清朝の官費留学生として日本に渡り、清朝留学生のために創設された日本陸軍の「振武学堂」でまず日本語を学んだ後、新潟の陸軍十三師団高田連隊の野戦砲兵隊付き将校を経験している(http://www.yorozubp.com/0002/000209.htm。10月26日アクセス)。台湾に逃げ込んでから、蒋は、中華民国軍の再建と錬成を極秘裏に招いた軍人歴のある日本人達に託している(典拠失念)。
(三度目の結婚相手(前掲萬晩報サイト)の前妻との正式な離婚が成立しておらず、しかも多数の愛人を抱えていたにもかかわらず、蒋介石は政治的意図からまず孫文の寡婦宋慶齢にアプローチする。しかし彼女に拒絶された蒋は、やむなくその妹の宋美齢に求婚相手を切り替える。気が進まない宋美齢に蒋介石が「お見合い」をすることに成功したのは1927年、神戸の宋一族の別荘においてだった。)
     
 この第二次国共合作によって、壊滅寸前だった共産党は息を吹き返し(注9)、翌1937年、支那側、とりわけ共産党の主導で日華事変の火ぶたが切って落とされるのです。



 (注9)白話(口語)文学の提唱者で、当時の支那の最高の知識人の一人であった胡適(1891??1962年)は、「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/QCao/cao27.htm(10月25日アクセス)及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/G/G257L100.HTM(10月26日アクセス))。
     第二次国共合作後、国民党は共産党に資金援助まで開始する(http://www.history.gr.jp/showa/225.html。10月25日アクセス)。



 これが、宋美齢が「国家分裂に反対した」(前掲コメント)ことの意味です。



 その後、宋美齢すなわち蒋政権には民主主義を実践する気などさらさらないこと、かつまた蒋政権が無能であること、更にまた蒋政権が腐敗しており、米国の資金援助一つとっても、その多くが蒋と宋を頂点とする一族の米国預金口座に収まってしまう有様であったにもかかわらず、蒋政権にはかかる腐敗を正す意思が全くないこと、が次第に支那の民衆の関知するところとなり、先の大戦半ばともなると米国政府もさすがに目が覚め、蒋政権は支那民衆と米国政府のどちらからも見放されるに至ります。
 こうして日本が最大の悪役となった支那において、支那民衆及び米国は、当時国民党に比べてlesser evil であるかのように見えていた共産党・・実際はその逆だったのですが・・に政権を託さざるをえなくなってしまうのです。



 このように中共は宋美齢を高く評価するに至っているのですが、国民党ならまだしも、現在の台湾(中華民国)の民進党政権までもが彼女に高い評価を与えていることには首をかしげざるをえません。
台湾(中華民国)の副総統をつとめる呂秀蓮(Annette Lu)女史は、今年宋美齢が「105歳」の誕生日を迎えた時にも宋を褒め称える談話を発表しましたが、宋逝去に際しては、彼女を「人類の宝」だったとまで形容しています。
こんな歴史認識を抱いている限り、民進党が党是であるところの(支那全域を支配する支那唯一の正統政府たる)中華民国という虚構の存在からの台湾「独立」、を標榜することなどおこがましいと言うべきでしょう。


(完)

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