太田述正コラム#0181(2003.11.3)
<イギリスのカトリシズムとの戦い(その2)>

 (コラム#179の誤り等を訂正したものをホームページ(http://www.ohtan.net)に再掲載してあります。なお、掲示板に台湾「独立」に関する読者の質問が投稿されていますが、ご返事が遅れています。あしからず。)

1 ジャコバイトの反乱

 今回はイギリスのカトリシズムとの戦いの最後を飾った大事件、1745(??46)年のジャコバイトの反乱をとり上げ、その後カトリック信徒が権利を回復するまでの苦難の歴史に触れることにします。
 英国ではザ・ラスト・ウォー(この前の戦争、最後の戦争)というと、イラク戦争や第二次世界大戦などではなく、英国本土で行われた最後の陸上戦争である1745(??46)年のジャコバイトの反乱(Jacobite Rising。JacobはJamesのラテン語)を指すことがあります。

 スコットランドはアイルランドとともに、欧州文明の一翼を担い、イギリス(アングロサクソン)文明と対峙してきました。
16世紀においてもスコットランド王室は、カトリックを擲ったイギリスに対し、カトリックの護持者を自認して対抗しました。
 ところが1603年、死去したエリザベス一世に子供がいなかったため、スコットランド国王のジェームス六世がジェームス一世としてイギリス国王に就任します。イギリスにおけるスチュアート朝の始まりです。
スチュアート朝の歴代国王は、イギリスの圧倒的な反カトリック世論に配慮しつつも、カトリックへのシンパシーを隠そうとはしませんでした。しかし、スチュアート朝の下でも、イギリス議会は(ヘンリー八世以来の)カトリック信徒弾圧諸法(Penal Laws)をどんどん強化して行きました。
イギリスとスコットランドは同君連合状態が続きましたが、1707年、両国は合邦します。しかしその実態は、イギリスによるスコットランドの併合以外の何者でもありませんでした。

 1745年8月、スコットランドの一カトリック司教の祝福を受けてスコットランドで反乱の旗が翻ります。反乱軍に結集したのは、主としてスコットランドのカトリック信徒系とイギリス国教会信徒(イギリスの外なのでAnglicanではなく、Episcopalianと呼ばれる)系の部族であり、スコットランドでも純粋なプロテスタントである長老派信徒(Presbyterian)系部族は基本的にイギリス側につきました。
「国」境を越えてイギリス深く攻め入った反乱軍は、12月にロンドンから120マイルのダービー市にまで達します。
 反乱軍の総帥は、1688年の名誉革命でイギリス及びスコットランドの王位を追われたジェームス二世(スコットランド国王としてはジェームス七世)の孫の当時弱冠24歳のチャールス(通称ボニー・プリンス・チャーリー。カトリック信徒。後に「チャールス三世」と僭称=Young Pretender)でした。
 彼は、断固ロンドンへ向けての進軍を主張したのですが、期待に反してイギリス「国」内からは援軍が得られず、背後からはイギリス軍が迫るという状況の下、フランス軍がイギリス南部に援軍として上陸する目前であったということを知る由もなく、気弱になった部下の部隊長たちの一致した反対にあい、涙を呑んで退却を決意します。
 その頃、ロンドンの国王ジョージ二世は、父ジョージ一世の出身地であり、領地でもあるドイツのハノーバーに逃げる準備を始めており、首相のニューカッスル公爵は反乱軍側への寝返りを決断しており、イギリス銀行では取り付け騒ぎ(ブラック・フライデー。これが元祖)が起こっていました。
 反乱軍が進撃を続けておれば勝利は間違いなかったのか、やはり勝ち目はなかったのかは微妙なところですが、翌1746年、スコットランドのカロデン(Culloden)の戦いで反乱軍は決定的敗北を喫し、チャールスはフランスの軍艦で欧州に逃げ帰ります。
 (以上、The  Bonnie Prince Charlie Country and the 1745 Jacobite Rising, Jarrold & Sons Ltd, Norwich 1985及びCulloden, National Trust of Scotlandによる。)

 銘記すべきはこの反乱の歴史的意味です。

(名誉革命後のウィリアム三世国王(=兼オランダ統治者)とメアリー二世女王(=ジェームス二世の長女)の共同統治体制による親オランダ政策の不人気、ウィリアム自身やその後を継ぐ予定のアン(メアリーの妹)に子供がいなかったこともあり、)カトリックに宥和的なスチュアート家の直系子孫からイギリス国王が二度と出ないよう、ジェームス一世の娘の更に娘であるソフィア及びその子孫のプロテスタント信徒でイギリス国教徒となった者しかイギリス国王(女王)になれないとした法律(Settlement Act)がイギリス議会によって1701年に制定された結果、元来王位継承順位が52番目に過ぎないハノーバーの選帝侯ゲオルグ(ソフィアの子)が1714年にジョージ一世としてイギリス国王に就任しました(http://www.1upinfo.com/encyclopedia/S/Settleme-1.html。10月18日アクセス)。
これに対し、名誉革命でイギリスから追放されたジェームズ二世(ジェームス一世の孫)の長男ジェームス(「ジェームス三世」と僭称=Old Pretender。彼自身も1708年と1720年に反乱未遂事件を引き起こし、1715-16年にはスコットランドを拠点として反乱を起こすが失敗している(前掲Culloden))の更に長男のチャールスが、ジョージ一世の後を継いだジョージ二世に対して戦いを挑んだ、というのがこの反乱の構図です。

スチュアート朝の直系子孫がこの反乱で最終的に敗れ去ったことにより、イギリスはヘンリー八世が1532年に開始したところの、カトリシズム、及びカトリシズムにシンパシーを持つスコットランド、との200年余にわたる戦いについに勝利を博したと言っていいでしょう。
1788年にチャールスの葬儀が、彼の生誕の地でありかつ亡命先のイタリアで、彼の弟の(カトリック)枢機卿のヘンリーによって執り行われますが、これは言うなれば、イギリスにおけるカトリシズムに対する葬送式典でした。
 
 その後、英国でカトリック信徒弾圧諸法が廃止されるまでは、次のように長い年月がかかっています。
1778年:カトリック信徒による土地の相続、売買が解禁される。
1791年:カトリック信徒に対し、忠誠の宣誓を条件として上記以外の権利制限の多くが撤廃される。
1793年:陸軍、海軍、大学、及び司法界がカトリック信徒に開放される。ただし、議会の議席は引き続きカトリック信徒にはオフリミットだった。
1829年:議会の議席がカトリック信徒に開放される。
 しかし、Settlement Actは現在でも生きており、カトリック信徒は依然イギリス国王(女王)にはなれません。
(以上、http://www.1upinfo.com/encyclopedia/C/CatholicEm.html(10月18日アクセス)による。)

(続く)

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