太田述正コラム#0183(2003.11.6)
<イギリスのカトリシズムとの戦い(その3)>

2 ガン・パウダー陰謀事件

―始めに??

 1605年、イギリス議会開会式に臨むイギリス国王を議員たる貴族達とともに大量の火薬を爆発させて殺害し、イギリスでカトリックを復興しようとした企てが発覚し、ガイ・フォークス(Guy Fawkes)を始めとする13人の共謀者達は全員殺されるか死刑に処されました。
 企てが発覚した11月5日はガイ・フォークスの日と呼ばれており、この日には今でもイギリス全土にわたって、子供たちが、「11月5日を忘れるな」と唱えて道行く人々に小銭をねだりながら練り歩いたり、ガイ・フォークスに似せた案山子を焚き火に投げ込んで燃やしたりします。また、議会の開会日には毎回、昔の服装をした警備兵が爆発物を探す儀式が執り行われます。
 ちなみに、ガイ・フォークス達の拠点であったワーリックシャー(Warwickshire)はカトリック信徒の巣窟でしたが、シェークスピアの故郷でもあり、レキュザント(recusant=国教忌避者)の父親を持っていたシェークスピアは、さぞかし複雑な思いをガンパウダー事件に抱いたことと思われます。(「マクベス」の中にこの事件への言及があります。)
(以上、http://www.latimes.com/travel/la-tr-gunpowder2nov02.story(11月1日アクセス)による。)
 ガイ・フォークス達は宗教的熱情に突き動かされてテロを決行しようとしたという点で、400年もの年月を隔てており、しかも片やカトリック、片やスンニ派イスラム教、という違いはありますが、オサマ・ビンラディン率いるテロリスト集団、アル・カーイダを思い起こさせます。
私は、イギリス文明、すなわちアングロサクソン文明は近代文明そのものだと考えていますが、だからこそイギリス史は、近代を「生かされている」非アングロサクソンの我々にとって、参考になる事象に満ち満ちているのです。

―プロローグ-

 イギリスのカトリシズムとの戦いは、遠く12世紀に始まります(コラム#46)が、イギリスのカトリシズムとの軋轢が破断界を超え、カトリシズムとの断絶に至ったのはヘンリー八世の時です。
彼は最初の妻キャサリン(スペイン王室出身。甥が神聖ローマ皇帝(カール五世)になるカルロス)との間に跡継ぎの男子が生まれないので、彼女を離縁してアン・ボーレンと再婚しようとしました。しかし、教皇が離婚を許さないため、カトリック教会と袂を分かつことし、1529  年、自分をイギリスの教会の長であると宣言します。そして1536年には修道院をすべて廃止し、広大な修道院領を没収しました。(当時までの、イギリスを含む欧州では、法王庁は皇帝に次ぐ、(修道院領等の)大土地所有者でした。)ヘンリー八世は治世中に約130名を処刑していますが、そのうち、「ユートピア」の作者トマス・モアを含む約80名が宗教的理由による処刑です。

ヘンリー八世はこれだけ苦労をして離婚の自由を得たわけですが、三番目の妻ジェーン・セイモアとの間にようやく授かったエドワードは、1547年の父死亡に伴ってイギリス国王に就任はする(エドワード四世)ものの、1553年に15歳の誕生日を迎える前に夭折してしまいます。

やむなくヘンリー八世のキャサリンとの娘であるメアリーがその後を継ぎます(メアリー一世)。彼女は父存命中も父に抵抗し、生命の危険を顧みずにカトリック信徒で通しましたが、スペイン王室のフェリペ(後にスペイン国王フェリペ二世)と結婚します。そして5年間の短い治世中プロテスタント弾圧政策を断行し、300名ものプロテスタントを火刑に処します。

1558年、メアリー死亡に伴い、ヘンリー八世のアン・ボーレンとの娘でプロテスタントのエリザベスが女王になります(エリザベス一世)。彼女は国教会を「復活」するとともに、イギリス王位をうかがっていた、カトリック信徒でスコットランド女王であったメアリーを捕らえ、躊躇しつつも処刑し、後顧の憂いを絶っています(ロサンゼルスタイムス前掲)。
(以上、全般的にはG.W.O.Woodward, King Henry ??, Pitkin Pictorials, 1969 及びhttp://justus.anglican.org/resources/timeline/06reformation.html(11月6日アクセス)による。)
この頃にはカトリシズムに対する締め付けは厳しくなっており、ミサは禁止され、レキュザントには重い科料が課され、イエズス会の神父がミサを行った場合は国外追放か大逆罪で死刑に処されました。

スコットランド女王メアリーの長男のジェームスは、母親とは違ってプロテスタントになります。母親の退位に伴ってジェームス六世としてスコットランド国王に就任した彼は、スコットランド王室に嫁いだヘンリー八世の姉が曾祖母であった関係から、エリザベス一世の死去に伴い、1603年にイギリス王を兼ね、ここにイギリスにおけるスチュアート朝が始まります。
しかしジェームスの妻アン(デンマーク王室出身)はカトリック信徒であり、彼女がひそかにミサに出席し続けるのを黙認したばかりでなく、息子チャールスとスペイン王室の王女との婚姻を図り、これには失敗しますが、スペインの要求を受け、エリザベス女王の時以来の重臣、ウォルター・ローレー卿を処刑しています。
(以上、ロサンゼルスタイムス前掲及びhttp://www.britannia.com/history/monarchs/mon46.html(11月6日アクセス)による)

―陰謀事件??

ジェームス一世が即位して間もなく起こったのが冒頭にご紹介した陰謀事件です。共謀者たちはジェームス一世を殺害した後、彼の娘のエリザベスをさらって女王にすることでカトリシズムを復興しようと計画したわけです。(ロサンゼルスタイムス前掲)
ジェームス一世はこの陰謀事件で殺されかけたというのに、彼から始まる歴代のスチュアート朝の国王達は、みな親カトリシズム的態度をとったため、何かにつけてガイ・フォークス一味と結びつけられて非難されることになるのです。

―エピローグ??

父ジェームス一世が1625年に死亡し、チャールス一世が即位します。
彼はフランス王室出身のヘンリエッタ・マリアと結婚するのですが、その結婚の条件として、議会に黙ってフランスに対し、イギリスにおけるカトリック信徒への差別を撤廃することを約束します。
1649年の彼の処刑と共和制樹立(=清教徒革命)にいたるイギリスの内戦は、王室と議会との対立が原因なのですが、その対立にチャールスのカトリシズムに対する宥和的な姿勢が火に油を注いだということを忘れてはならないでしょう。
(以上、http://www.royal.gov.uk/output/Page76.asp(11月6日アクセス)による。)

(共和政時代は、世界史上初めての民主主義的独裁であったのですが、この話はまた別途。)

1660年に王制復古となり、チャールス一世の子供のチャールス二世が即位します。
彼の治世は、ペストの大流行やロンドンの大火に見舞われるのですが、それは議会を中心に反カトリシズム旋風が吹き荒れた治世でもありました。
にもかかわらず、1670年、チャールスはフランスと秘密条約を結び、オランダに対し、イギリスがフランス側に組すること、更にチャールスがカトリック信徒になること、その見返りとして彼がフランスから補助金をもらうこと、を取り決めます。結局彼はカトリック信徒になるという約束を果たすのをこの段階では断念するのですが、国王大権を発動し、それまでのカトリック信徒弾圧諸法(Penal Laws。コラム#181参照)の撤廃を宣言します。しかし、議会の反発を受け、この宣言の撤回を余儀なくされます。それでも懲りないチャールスは、1685年、死の床でカトリックに「改宗」するのです。
(以上、http://www.royal.gov.uk/output/Page92.asp(11月6日アクセス)による。)

チャールス二世の弟ジェームスは、1669年にみずからカトリックに「改宗」していましたが、兄死亡に伴いイギリス王位に就くことは議会に認められます。ジェームス二世です。
しかし、彼が就任早々矢継ぎ早に打ち出した親カトリシズム政策にイギリス世論の反感が次第につのっていきます。1688年、ジェームスの二度目の妻・・カトリック信徒・・が男子を産むと、爾後、イギリスにカトリック信徒の君主が永久に続きかねないことに世論は激しく反発し、ジェームスの最初の妻・・プロテスタント・・が生んだメアリーの夫、オランダ統治者たるオレンジ公ウィリアムが兵を率いてイギリスに上陸すると、イギリスの陸海軍はウィリアム側に組し、ジェームスは追放されてしまうのです。そしてウィリアム・メアリー夫妻が共同君主としてイギリスに迎えられます。名誉革命です。
 (以上、http://www.royal.gov.uk/output/Page97.asp (11月6日アクセス)による。)

(完)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/