太田述正コラム#0187(2003.11.11)
<張学良(その1)>

 (私のホームページへの月間訪問者数が4544名と最高記録を更新したこと、メーリングリスト登録者数が336名に達したことをホームページの掲示板でご報告させていただきましたが、コラムのこの二ヶ月の上梓頻度をこのまま維持することは至難の業であることを考えますと、そろそろ月間訪問者数にせよ、登録者数にせよ、saturation point に達した感があります。
 読者の方々から、今後の本コラムのあり方について、忌憚のないご意見をお聞かせいただければ幸いです。)

中華人民共和国(以下「中国」という)の西安(人口700万人)の西北大学の文化祭で、日本人留学生らが演じたひわいな寸劇をめぐって大騒動が勃発したのはつい最近のことですが、西安は唐時代の都の長安であり、2001年には日本人の観光客が16万人も訪れています(http://www.asahi.com/special/seihoku/TKY200311010363.html。11月1日アクセス)。
しかし、日本や支那の現代史の観点からは、ここで1936年に西安事件が起こったを忘れるわけにはいきません。

 西安事件と宋美齢とのかかわりを前(コラム#178)に書きましたが、何と言っても西安事件の主役は張学良(1900??2001年)です。
 西安事件を引き起こした張学良を中国共産党(以下「中共」という)がほめそやすのはともかくとして、客観的に見れば、彼が万死に値する大罪を犯したことは明白です。
 西安事件は翌年の1937年から始まる日支事変の引き金となり、8年間に支那側に兵士300万人、民間人1000万人の死者をもたらしました。負傷者や財産上の被害は天文学的数字にのぼります。
 また、西安事件は中共を瓦解の淵から救い上げ、1949年の中共による支那制覇をもたらし、それ以降だけをとっても政治的迫害と政治に起因する飢餓により8,000万人もの死者をもたらしました。
 (支那制覇以前の中共による政治的迫害死や日支事変における日本側の死者、更には国共内戦による死者を除く)上記だけで、張学良は一億人弱の支那人を死に至らしめた原因をつくったことになるわけです。

 ところが、西安事件から57年たった1994年、張学良は「(事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」 と断言しています。
 (以上、http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/QCao/cao30.htm。11月10日アクセス)
 彼が「まったく後悔はしていない」のはどうしてなのでしょうか。
 西安事件の前年の1935年、張学良は「中共は山賊(bandits)にほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた。残ったわずかな連中が小山賊団(bandit gangs)となってあちこちに散らばっているだけのことだ。」と吐き捨てるように語っています(http://colley.co.uk/garethjones/articles_far_east/Marshall_Chang.htm。11月10日アクセス)。張学良は、西安事件以後、1990年に至るまで、実に半世紀以上にわたって蒋介石によって幽閉された後、李登輝によって幽閉を解かれます。その際、中国から余生を支那で送るよう丁重に招請されるのですが、これを拒絶しています(http://taipeitimes.com/News/local/archives/2001/10/16/107338.。11月10日アクセス)。
これだけ嫌いぬいた中共のお先棒かつぎをしたあげく中共の政権獲得への道を開いてしまったことに彼が痛恨の念を抱いていないはずはないのです。
 張学良は、西安事件をもっぱら日本に対する私怨を晴らすために引き起こし、この西安事件がきっかけとなってその9年後に大日本帝国は滅びます。彼が「まったく後悔はしていない」のは、このことによる達成感が中共に係る痛恨の念をはるかに上回っていたためだと考えていいでしょう。(その彼に、大日本帝国の灰燼の中から不死鳥のように日本が蘇り、世界第二位の経済大国になったことについての所感を求めるのは酷というものでしょう。)

 張学良の日本に対する私怨とは何か。
 第一に、軍閥であった彼の父、張作霖(Chang Tso-lin)が蒋介石による北伐に抗しきれず、進出していた北京から「領土」の満州に列車で逃げ帰る途中、日本の軍人達が線路に仕掛けた爆弾によって1928年に殺されたことです。
 父の「領土」を引き継いだ張学良は、かねてから敬意を抱いていた蒋介石への協力を申し出ます。
張学良の日本への憎しみがどれほどのものだったかは、日本と通謀していた部下二人を麻雀に誘い、自ら拳銃で射殺したというエピソードからも明らかです(http://www.clarity4words.co.uk/amarshall.htm.。11月10日アクセス)。
張学良は1931年に満州事変が起こると、蒋介石の指示に従い、軍を満州から撤退させ、無抵抗で満州を日本の関東軍に明け渡します。しかし、このことで張学良は支那民衆から「無抵抗将軍」と蔑まれます。これが日本に対する彼の第二の私怨です(http://colley.co.uk/garethjones/manchukuo_incident/history/250.htm。11月10日アクセス)。

 張学良の動機が公憤などでは決してなく、私憤でしかありえなかったであろうことは、彼が西安事件の詳細について、生涯沈黙を守り通したことと、それよりも何よりも、彼の人となりが物語っています。

(続く)

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