太田述正コラム#0220(2004.1.2)
<現代日本の越し方行く末(その3)>

 (1)支那
「・・我國は隣國の開明を待て共に亜細亜を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」(福沢諭吉のいわゆる「脱亜論」(1885年)より。http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html(1月2日アクセス))
福沢諭吉(1835??1901年)のあまりにも有名な一文の末尾です。
安川寿之輔氏は、この「脱亜論」を正視しない「丸山真男(ら)によって決定的に歪められた幕末、初期啓蒙期の福沢の国際関係認識の再検討にはじまり、近代日本「最大の啓蒙思想家」福沢諭吉の思想の全面的とらえなおしの作業をとおして、<司馬遼太郎の>「明るい明治」と「暗い昭和」の分断の誤りをただし、福沢評価をめぐるアジアと日本の「のけぞってしまう」ような歴史認識の溝をうめることに、少しでも寄与したいと願って著書「福沢諭吉のアジア認識」を著わされたそうです(http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N65/N65-07.htm。1月2日アクセス)。
しかし私は、丸山真男や司馬遼太郎のように「脱亜論」から目をそらすことも、安川氏のように「脱亜論」の故に福沢を全面否定するのもどちらも間違いだと思います。
なぜなら、この福沢の(日本を除く)東アジア観は、第一に、その後の「戦前」の日本の最高の知識人らによって踏襲されて行くからであり、第二に、当時から「戦前」にかけての支那の知識人や米国の知識人の東アジア観に比べてはるかに正鵠を射ていたからです。

東洋学の泰斗、内藤湖南(1866-1934年)は次のように言っています。
 「北清事変の際に、一時天津に都統衙門といふ者が出来て、列国の聨合政治を行ったことがある。第二の大なる都統政治が出現すべき時機は、あまり遠いとは思はれぬ。・・但し一種の都統政治は何時でも行はれ得るのである。又此の都統政治の方が、国民の独立といふ体面さへ放棄すれば、支那の人民に取って、最も幸福なるべき境界である。」(内藤湖南「支那論」(1914年)より。子安宣邦「日本近代思想批判―国知の成立」(岩波現代文庫2003年)より孫引き)。
 これは、支那を列強が共同管理することを勧めたものです。リットン調査団が1932年に、満州に国際連盟が派遣する顧問が指導する自治政府を設けることを勧告した(シュネー前掲245頁)ことが思い起こされます。
 「支那の領土・・は、・・<支那の>実際の実力を考へて・・内部の統一を<優先し、>・・縮少すべき<である>」(内藤前掲。子安前掲108頁より孫引き)。
 ここは、1931年の満州事変を予期しているかのようです。
 「父老なる者は外国に対する独立心、愛国心などは、格別重大視して居る者ではない。郷里が安全に、宗族が繁栄して、其日々々を楽しく送ることが出来れば、何国人統治の下でも、従順に服従する。・・支那に於て生命あり、体統ある団体は、郷党宗族以上には出でぬ。此の最高団体の代表者は、即ち父老である。」(内藤前掲より。子安前掲110頁より孫引き)。「支那は結局は政客のやかましい議論をさへ恐れなければ、共同管理にしようと、其の他如何なる統治の仕方をしやうとも、郷団自治をさへ破らなければ、支那全体の安全を破るといふことは無い筈である。」(内藤「新支那論」(1924年)より。子安前掲110??111頁)、「民衆的な改革運動などといったものは中国社会に起こりようはずもなく、もしそういう形式をとった運動があるとすれば、それは「いづれ贋物の扇動から起こつたものであると判断して差支がない」(内藤前掲より)」(子安前掲111頁)、
 これらは、支那人のネポティズムと政治に対するアパシーを指摘したものです。
「・・要は堅忍不抜で以て日本人の支那内地発展は結局支那の国民に利益であると云ふ事が内地の荷主に発見せらるゝことを待つの外はない。さう成れば、真の日支親善が出来るのである。それは已に満洲に於て実現せられて居る処である他に其よりも世界人類(中略)と云ふ大処高処から見下して尊敬するに足る文化的功業の郁々乎たるを思はゞ、国家の亡滅位は何でも無いではないかと思ふ。寧ろ其の文化は洽く世界に光輝を放つ事に成り支那民族の名誉は天地と共に無窮に伝はるに相違無い」(内藤湖南「山東問題と排日論の根底」(『太陽』1919年7月掲載)より。http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~th/nitibun/kyudainitibun/02/05_ishikawa.pdf(1月2日アクセス)より孫引き)。
これがいわば湖南の結論です。日本が支那に進出することこそ支那人の利益となり、日本の支那進出は偉大な支那文化を滅亡から救うことにもなる、というのです。
白川静氏は、湖南は日本は支那を覚醒させることにとどめ、決して欧米のような帝国主義的侵略をしてはならないと考えていたと主張されていますが、明確な典拠を示してはおられません(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/shirakwa/kouen128_1.htm。1月2日アクセス)。

もう一人の東洋学の泰斗である津田左右吉(1873?1961年)の言も引いておきましょう。
「支那人は民族としてまた個人としてその根づよい生活力を有ってゐるにかかはらず、その政治において現在の如き状態にあるのは何故であるか、それは過去の長い間の政治の精神なり文化の本質なり又は民族性の根本なりにおいて重大なる欠陥があり、現代の世界に立ってゆくに適合しないものがあるからではないか・・」(津田左右吉「道家の思想と其の開展」(1927年)より。子安前掲144??145頁より孫引き)

 日本の民衆は、諭吉、湖南、津田らの碩学の支那認識・・正鵠を射ていたことは、戦後から現在にかけての中華人民共和国を見れば明らかです・・を信じ、日本政府を動かし、その庇護の下で、安んじて東アジアに「雄飛」していったのです。

(続く)

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