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太田述正コラム#0272(2004.2.27)
<危機の韓国(その5)>
(4) 歴史の歪曲
・・・(コラム#265参照)
オ 歴史の歪曲と現在の韓国知識人
勇気付けられるのは、現在の韓国知識人の中に、日韓関係史に対して新しい見方をする人が登場しつつあることです。日本の朝鮮半島併合が朝鮮半島における近代化、資本主義化の契機になったとする学者たちです。(キム・ワンソプ前掲書93??96頁)
しかし彼らの多くはかつての反体制派知識人であり、マルクス・レーニン主義の強い影響下にあり、依然としておしなべて日本が朝鮮半島を一方的に侵略したという視点に立っています。
彼らの中の異端児が、既に何度もこのコラムに登場したキム・ワンソプです。
彼は、日本の朝鮮半島併合は朝鮮人側も欲したことであり、双方にとって最善の方策だったと指摘したのです(同第2部)。これは画期的なことであり、その勇気は賞賛に値します。
とはいえ、彼の言っていることに全面的に首肯するわけにもいきません。
そもそも彼は、歴史学者ではありませんし、日本語もできないこともあってか、日本の理解が不十分であり、日本を過度に理想視しています(注5)。
(注5) もとより、日本語ができないことは、マイナス面ばかりではない。戦後の日本人が書いた戦前の日韓関係史の著作には韓国流の歪曲史観に立脚したものの方が多いからだ。例えば、方野次雄「李朝滅亡」(新潮文庫1997年)。方野氏は、韓国から「著述活動を通して日韓友好に寄与した功績により」感謝状を授与されている(同書表紙裏)。
例えば、彼は神道に対し、一面的な知識に基づき、日本人の私がむずがゆくなるような高い評価を下しています(注6)。
(注6)「人間が教育を受け自然を理解し、理性的になるほどに宗教は立場をなくすものであるが、日本の神道にはそうした宗教の一般的な特性がみられない。大義のためにわが身を犠牲にし、社会に寄与した偉人を神と崇めること、これは理想的な宗教といえる。」(キム・ワンソプ前掲書258頁)
こんな具合に日本を理想視していることから、キム・ワンソプは、歪曲史観を攻撃する際に、ついつい勇み足を犯してしまいます。
「植民統治の全期間にわたり朝鮮半島と日本列島は、経済のみならず政治および文化でもひとつの単位にくくられた。」(102頁)、「<日本人は>「朝鮮半島は・・日本だ」と考えた」(103頁)、「1945年<後の>より賢明な選択は、私たち自身が日本の一部だと主張して独立を拒否することだった。」(113頁)といったくだり等がそうです。
彼は日本人を買いかぶりすぎています。「戦前」の日本人は、自分たちを絶対視するほど夜郎自大では決してありませんでした。
それが証拠に、日本政府は朝鮮半島を併合すべきか否か最後の瞬間まで逡巡しました(注7)し、併合してからも、朝鮮人を日本人と平等に扱うように努めはしつつも、日本に同化させようなどとは考えませんでした(注8)。
(注7)1909年、韓国の統監職を退き、枢密院議長になったばかりの伊藤博文は、ハルビンで暗殺される直前にソウルに立ち寄り、ある朝鮮人の有力者に韓国の総理大臣への就任を促した。その時、相手から就任の条件として(1907年に締結された)第三次日韓協約の撤回(すなわち韓国の保護国的状況の解消)を要求され、帰京したらその方向で努力すると答えつつも、本当に朝鮮側が単独で対外関係を適切に処理できるのかと懸念を表明したという。(山本七平前掲書86??90頁)
(注8)日本人と平等扱い:陸軍内では昇任等に関して朝鮮人将校に対する差別がなかった(同36頁)。
日本に同化させようとせず:かつて私がハインリッヒ・シュネーの記述を踏まえ、朝鮮総督府がいかに朝鮮の文物を尊重していたかを紹介したくだりを思い出してほしい(コラム#218)。総督府は朝鮮語教育にも力を入れた(http://photo.jijisama.org/hg.html。2月23日アクセス)。また、朝鮮人の陸軍将校が抗日運動の指導者に自分の拳銃を送っても不問に付されたり(47頁)、洪中将のソウルの自宅に同居していた長男が朝鮮人逃亡兵たる友人をかくまった時も洪中将らにお咎めはなかった(32??33頁)ことから、陸軍当局すら朝鮮人が抗日志向を持つことに対して「理解」があったことが分かる。
しかし、とにもかくにも韓国にキム・ヨンソプのような知識人が一人でも出現したことには大変心強い思いがします。
(続く)
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