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太田述正コラム#0279(2004.3.5)
<ハイチの悲劇(その1)>
1 破綻国家ハイチ
ハイチでは反乱勢力がジャン=ベルトラン・アリスティッド(Jean-Bertrand Aristide)大統領を亡命に追いやった事件が起こったばかりです。
そのハイチが一体どういう国かは日本では殆ど知られていません。
ハイチは典型的な破綻国家(failed state)です。
ハイチの一人当たり国民所得は西半球で最低の480ドル(ちなみに、最高は米国で33,550ドル)であり、経済成長率は何と1980年代は毎年0.2%のマイナス成長、1990年代は毎年0.4%のマイナス成長を「記録」しました。
文盲率も栄養不良率もどちらもほぼ50%にものぼり、平均寿命はわずか49.1歳です。
それでいて人口は過去20年間に500万人から800万人以上へと増えています。
ハイチでは、エイズ禍が猖獗を極め、ギャング団が横行し、麻薬取引が盛んに行われ、ハイチを一大中継地として麻薬が米国に「輸出」されていると言われます。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/3522155.stm(3月2日アクセス)による。)
2 破綻をもたらしたもの
このような悲劇をハイチにもたらしたのは、スペイン、フランス、そして米国の三カ国でした。
(以下、全般的にhttp://www.hartford-hwp.com/archives/43a/552.html(3月4日アクセス)及びhttp://www.csmonitor.com/2004/0305/p07s01-woam.html#anchor1(3月5日アクセス)掲載の年表を参照した。)
(1)スペイン
1492年にコロンブスがあの歴史的な航海で大西洋を渡り、最初に「発見」したのがイスパニョーラ(小スペイン。コロンブスが命名)島です。そしてスペインは1496年に西半球における最初の居留地をこのイスパニョーラ島のサントドミンゴ(後にドミニカ共和国の首都になる)に設けます。
イスパニョーラ島の原住民は、スペイン人らが殺戮し、或いは酷使して死に至らしめ、残った者は欧州から持ち込まれた疾病によって病死し、全滅してしまいます。
その後、奴隷貿易でアフリカから黒人奴隷が連れてこられました。
そして、圧倒的少数であるところの、自らの意思で欧州から大西洋を渡ってやってきた白人及びその子孫(黒人との混血児(=ムラット)を含む)が、圧倒的多数を占めるところの、強制的にアフリカから拉致されてきた黒人を支配する、という社会構造がイスパニョーラ島に成立します。
しかし、1697年に、イスパニョーラ島は東西に分割され、西側はフランス領となります。
これ以降、イスパニョーラ島の西側=ハイチは、東側=ドミニカとは異なった歴史を歩むことになるのです。
(以上、http://www.hartford-hwp.com/archives/43a/551.html(3月4日アクセス)による。)
(2)フランス
フランス統治下のハイチは、過酷な奴隷労働に立脚したプランテーション制度の下で、フランスのドル箱として「繁栄」します。
ところが、フランス革命の間隙をぬって1790年頃から解放奴隷と逃亡奴隷が協力する形で反乱が始まります。
そしてフランスの生来の仇敵英国とルイジアナのフランスからの獲得をねらっていた米国が、それぞれフランスを牽制してくれたおかげで、1801年には、後に黒いジャコバンと呼ばれことになるツーサン・ルーヴェルチュール(Toussaint Louverture)が全イスパニョーラ島を占領し、自ら総督と称し、奴隷解放宣言を発します。
これに対しナポレオンは、「ネグロの自由がサン・ドミング(当時のハイチの呼称)で実現し、フランスがこれを認めるようなことがあれば、新大陸において自由を希求する連中を誰も抑えることができなるなってしまう」として、自分の義理の弟を司令官とする22,000名の大軍を反乱鎮圧のためにハイチに派遣しました。
しかし、フランス軍は苦戦を続けます。
1804年、ジャン=ジャック・デッサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines)はハイチの独立を宣言し、皇帝となります。こうして、西半球において米国に次ぐ二番目の独立国が生まれ、「アフリカ」最初の近代国家が成立したのです。これは世界史上、奴隷の反乱の唯一の成功事例でもあります。
デッサリーヌはプランテーション制度(と奴隷制)を廃止しますが、(1)で述べたようなハイチにおける支配構造の基本は受け継がれ、かわってハイチに確立したのは半封建制でした。
その後、ハイチは内乱期に入りますが、ジャン=ピエール・ボイエ(Jean-Pierre Boyer)が1820年に内乱を収束し、ハイチの初代大統領となります。1821年に彼はドミニカを併合します(1844年にドミニカ分離独立)。これに対し、1925年、フランスは軍隊を派遣します。
ボイエに対し、フランスは1838年にようやく正式に独立を認めますが、その時、フランスが押し付けた条件は過酷なものでした。
その条件とは、かつてのプランテーションや奴隷の所有者への補償金や戦争賠償金として、150万フラン(現在の貨幣価値で100億ポンド=2兆円)を金貨で支払うというものでした。19世紀末には、ハイチの国家予算の80%がこの元本と利子の支払いに充てられたと言われ、ハイチは債務国となり、爾来債務国のまま現在に至っているのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1153735,00.html、http://www.hartford-hwp.com/archives/43a/399.html、及びhttp://www.hartford-hwp.com/archives/43a/383.html(いずれも2月23日アクセス)による。)
(続く)
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