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太田述正コラム#0373(2004.6.7)
<民主主義の起源(その2)>

 いささか先を急ぎすぎましたが、パットニー集会での結論はどうなったのでしょうか。
 集会の席上でも完全な普通選挙の導入には反対論が多く、結局、施し物(Alms)をもらっている人や召使い(servant)を除いた人に選挙権を与える、という線で妥協が図られました(注3)。

(注3)当時のイギリスでは、外国人はもとより、年間に一定の収益を生み出す土地を保有していない者、召使い、非国教徒、そして女性には下院総選挙の投票権は与えられていなかった(http://college.hmco.com/history/readerscomp/rcah/html/ah_083500_suffrage.htm。6月7日アクセス)。いずれにせよ当時は、女性に投票権を与えることなどまだ夢想だにされていなかったことに注意。

 しかしこのせっかくの妥協案も、結局イギリス下院に提出されることはありませんでした。そこでレベラーズは議会軍の兵士達に蜂起を呼びかけるのですが、ためにリルバーンらは逮捕され、レベラーズのパンフレットはことごとく焼却処分に付されます。
 実力者クロムウェル(Oliver Cromwell。1599??1658年。1649??1658年の間、イギリスの最高権力者。http://www.britannia.com/history/monarchs/mon48.html(6月8日アクセス)))は、次のように語ったと伝えられています。
 「平等原則に則って小作人を地主と同じ扱いにすべきだとぬかすのか。俺は生まれながらの郷紳(gentleman)だぞ。そんなことを言う連中は切り刻んでやる。さもなきゃ連中が我々を切り刻むことになろうて。」(注4)

 (注4)リルバーン、ワイルドマン、オーバートン、ウォリン、レインズボローは、いずれも何度も逮捕され、大逆罪で起訴されるのだが、陪審によって常にその都度無罪放免となり、議会軍内の内ゲバで殺されたレインズボローを除き、全員が天寿を全うしている(前掲のそれぞれの名前入りのサイト)。このことは、その150年近く後に生起したフランス革命において過激派の多くが断頭台の露と消えた史実と比較して、驚異としか言いようがない。

 結局、レベラーズの提唱したことのうち、クロムウェルによって実施に移されたのは王制と貴族院の廃止だけでした。しかも、王制も貴族院もクロムウェルの死によって復活することになります。
 (以上、全般的には前掲サイト中の「パットニー」と「リルバーン」による。)

 では、それからはどうなったでしょうか。
北米植民地では土地は有り余っており、当初から成人男子の5割から8割はイギリス法上の土地保有要件を始めとする諸要件をクリアし、各種投票権を保有していました。そして米国が独立してからは、1820年から1840年の間に、大部分の州で普通選挙が(大統領選挙人、州知事、州議会議員、州裁判官等の選挙に)導入され、米国の民主主義化は急速に進展します。もっともこれは白人男子の民主主義であって、女性や黒人は対象外であったことを忘れてはなりません。(http://www.digitalhistory.uh.edu/database/article_display.cfm?HHID=633。6月7日アクセス)
他方、本国の英国では、ようやく1834年の法律(New Reform Bill。http://www.bbc.co.uk/history/society_culture/protest_reform/chartist_03.shtml(6月7日アクセス))で中産階級以上(=労働者階級は除かれる!)の成人男子全員に投票権が与えられるのですが、この露骨な労働者差別に抗議する形で1838年には普通選挙の実施や下院議員への給与の支払い(これがないと労働者は議員になったら食い詰めてしまう)等を要求するチャーチスト運動が起きます。しかし、10年たっても全く成果をあげられないまま運動は衰退期を迎えます。なお、この運動さえ、女性のことは全く念頭にはありませんでした。(http://www.bbc.co.uk/history/timelines/britain/vic_victoria.shtml。6月7日アクセス)

 イギリスに世界で初めて民主主義を提唱した人々が現れたというのに、結局英米を始めとするアングロサクソン諸国における民主主義の確立(普通選挙の導入)は遅れに遅れます。そのことは、主要国における普通選挙導入時期(注5)を見ると分かります。(アングロサクソン諸国は「」に入れて示した。)

(注5)フィンランド(1906。世界初)、ノルウェー(1913)、デンマーク(1918)、ロシア(1917。帝政崩壊の賜。やがてボルシェビキ独裁へ)、アイルランド(1918。英国からの独立の賜)、オーストリア(1918。帝国崩壊の賜)、ドイツ(1918。敗戦の賜)、ハンガリー(1918。オーストリア帝国崩壊の賜)、ポーランド(1919。独立の賜)、オランダ(1919)、「英国」(1928)、スペイン(1931。やがて人民戦線政府成立、そしてフランコ独裁へ)、フランス(1944。ナチスからの解放の賜)、イタリア(1945。ファシストから解放の賜)、日本(1946。敗戦。ただし、男子普通選挙導入は1925年)、「オーストラリア」(1962。それまでアボリジンに投票権なし)、「米国」(1965。それまで黒人に選挙権なし)、ポルトガル(1976年。サラザール独裁体制終焉の賜)、スイス(1990)、「南アフリカ」(1994。それまで非白人に選挙権なし)。(http://www.fact-index.com/u/un/universal_suffrage.html。6月7日アクセス)

アングロサクソン諸国において普通選挙導入がかくも遅れたのは、根強い民主主義不信が根底にあった(コラム#91)上、世界の先鞭を切ってイギリスで18世紀から既にフェミニズム運動が始まっていた(コラム#71)にもかかわらず、アングロサクソン諸国において、女性は判断能力が乏しい(incapable of sound reasoning。前掲college.hmco.comサイト)として女性への投票権の付与に長らく拒否反応があったことと、アングロサクソン至上主義とそれと裏腹の関係にあるところの有色人種に対する根強い偏見(コラム#225)、があったためです。

(完)

http://www.joelkotkin.com/Politics/WP%20Red,%20Blue%20and---So%2017th%20Cent ury.htm。5月11日アクセス

<高橋>(2004.6.23)
『防衛庁再生宣言』のP140で

>(略)日本は、実際にも、江戸時代中期以降、当時の世界においては数少ない豊かで民主的な国になっていた。

「民主的」という表現について話題になってないですよね。(いちおう検索にかけてみましたが)
たしかに、江戸大衆文化が花開き、寺子屋のような教育熱が起きて識字率も上がりますし、「ご政道」も「世論」に反応してか積極財政→緊縮財政→積極→緊縮→のような政権交代も起こります。雄藩の政治発言力が増すとともに下層武士の政治発言力が増大して、最後に明治維新になりましたが、はたしてそれを「民主的(democratic)」とまで表現していいのか疑問があります。
民主政体(democracy)の母体であるPluralismの醸成期間とは評価できても、身分制度の厳しい江戸時代を「民主的」というのはいささか行きすぎではないでしょうか?

コラムでも「非階級社会(アングロサクソン論10)」
http://www.ohtan.net/column/200301/20030108.html
逆説的というかエエエェッ!とのけぞってしまうような刺激的な発言が多いですが・・・^^;

江戸時代の階級制度と英国の貴族制度の似ているところは、階級移動が若干ですがあるので、風通しがいいというところが島国的でしょうか。

<太田>
1 江戸時代は「民主的」であったか

 真に「自由主義的」であるためには、法の支配(「法治主義」だけではだめで、これに「人権」と「手続き的正義」の保障が加わったもの)が確保されなければなりませんし、真に「民主主義的」であるためには、「法治主義」と「民のための政治」だけではだめで、「為政者が民の過半以上に支持されなければその地位につけない政治体制」である必要があります。
 私が、江戸時代の日本が「民主的」な国であった、と指摘したのは、「法治主義」と「民のための政治」が確保されていたと考えるからです。
(ちなみにイギリスは、その歴史始まって以来「民主的」(「民主主義的」ではない!)であっただけでなく、「自由主義的」であった点で、江戸時代の日本より一歩先んじていました。)

 家康の孫の保科正之(会津藩の祖。)が寛文8年(1668)に定めた家訓(かきん)十五ヶ条の中から、「民主的」な条項を抜き出してみましょう。

法治主義:「可重主畏法(主を重んじ法を畏るべし)」、「犯法者不可宥 (法を犯す者ゆるすべからず)」
民のための政治:「若失其志好遊楽致驕奢使士民失其所即何面目戴封印領土地哉必上表可蟄居 (若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや、必ず上表蟄居すべし)」
 (以上、http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-kakin.htm(6月24日アクセス)による。)

 ちなみに、天明8年(1788)8月、5代藩主容頌(かたのぶ)は六科糾則(りくか・きゅうそく)の令を発布したが、これは、「学問を励み、文武諸芸を修めたものの登庸の基準」を示したものとされており(http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-rokka.htm。6月24日アクセス)、会津藩では政治(と行政)に携わる者に関し、メリトクラシーまでもが実践されていたことが分かります。

 なお、なぜ保科正之を持ち出したかですが、保科正之は、異母兄である三代将軍家光の遺志により、1651年から隠居までの23年間幕政に携わっておりhttp://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-hansei-hosina.htm(6月24日アクセス)、上記会津藩における政治指針は、徳川幕府全体の政治指針であったと考えて良いからです

2 イギリスは「非階級社会」か

 かつての私もそうでしたが、日本人が欧州のイギリス観(邪心に基づく偏見)をうのみにしているので、イギリスが「階級社会」であるなどという誤解が生じているのです。
 欧州は、「革命」によって貴族制(と多くの場合王制)を廃止した、ということくらいしかイギリスに「誇る」べきことがないので、イギリスを「階級社会」だと言っているだけのことです。
 話は全く逆で、欧州が「階級社会」、イギリスは「個人主義社会」なのです。

<高橋>
>  私が、江戸時代の日本が「民主的」な国であった、と指摘したのは、「法治主義」と「民のための政治」が確保されていたと考えるからです。
> (ちなみにイギリスは、その歴史始まって以来「民主的」(「民主主義的」ではない!)であっただけでなく、「自由主義的」であった点で、江戸時代の日本より一歩先んじていました。)

丁寧な解説ありがとうございます。やはり、質問して見るものですね。納得しました。

For the peopleの政治というか、正しい英語表現あるか分からないですが、people-oriented,farmer-oriented politicsの考えがあったんですね。確かにその意味では「民主的」といえそうです。

>  家康の孫の保科正之(会津藩の祖。)が寛文8年(1668)に定めた家訓(かきん)十五ヶ条の中から、「民主的」な条項を抜き出してみましょう。
>
> 法治主義:「可重主畏法(主を重んじ法を畏るべし)」、「犯法者不可宥 (法を犯す者ゆるすべからず)」
> 民のための政治:「若失其志好遊楽致驕奢使士民失其所即何面目戴封印領土地哉必上表可蟄居 (若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや、必ず上表蟄居すべし)」
>  (以上、http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-kakin.htm(6月24日アクセス)による。)

「民のための政治」の思想が徳川家康にまでさかのぼる事ができるのか、それとも司馬遼太郎が言うように、家康は単なる功利家に過ぎないかはわかりませんが、幕府草創期の大名改易恐怖政治が保科正之によって見事に「民のための政治」に進化してますね。「武断政治から文治政治」なんて見出しで語られるトピックのようですが、もっと深く現代につながるテーマのようですね。

こういう政治思想上の画期的な出来事があって、下のサイトのような西洋人の少し過大評価の江戸日本観がでてくるようです。

自主の気風 庶民が主役
http://www.tokyo-np.co.jp/edo/edo/edo030111.html

> 2 イギリスは「非階級社会」か
>
>  かつての私もそうでしたが、日本人が欧州のイギリス観(邪心に基づく偏見)をうのみにしているので、イギリスが「階級社会」であるなどという誤解が生じているのです。
>  欧州は、「革命」によって貴族制(と多くの場合王制)を廃止した、ということくらいしかイギリスに「誇る」べきことがないので、イギリスを「階級社会」だと言っているだけのことです。
>  話は全く逆で、欧州が「階級社会」、イギリスは「個人主義社会」なのです。

サッカー日本代表の通訳をやっていたダバディ氏がフランスの上流階級出身で、サッカーという下層階級のスポーツの仕事をするのに母親に反対された話がインターネットに出てましたが、目に見えないものがあるみたいですね。これは、EUの今後にもつながる話なのでとても面白そうです。

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