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太田述正コラム#0521(2004.11.2)
<伊・英・米空軍の創始者の三人(その2)>
3 トレンチャード
トレンチャードは1893年に英陸軍に入り、南ア戦争等を体験します。
1913年に40歳直前で英国の民間航空機操縦学校に入り、卒業したトレンチャードは、陸軍の航空軍団(Royal Flying Corps)の副司令官に任命され、翌1915年には陸軍少将となり、この軍団の司令官となってフランスで第一次世界大戦を戦います。ここで彼は、敵の航空基地に継続的に空爆をかけることによって制空権を確保する作戦、及び味方の陸軍を近接航空支援する作戦を実行します。
1917年のドイツによるロンドン空爆を契機として、翌1918年に陸軍航空軍団と英海軍航空監部(Royal Naval Air Service)が合併し空軍省・英空軍が創設される(注3)と、一旦現役を退いて民間航空操縦学校(上記学校とは別)の経営に携わっていたトレンチャードは、ナイト爵を授爵されると同時に初代の空軍参謀長に就任しますが、初代の空軍大臣とそりがあわなかったトレンチャードはすぐ辞任し、英空軍独立軍(Independent Force)(注4)の司令官として第一次大戦の戦線に復帰します。
(注3)陸海軍と並列の空軍としては、ドイツ空軍(Luftwaffe)の生誕の方が早いが、ドイツ空軍は大戦後のベルサイユ条約によって一旦廃止されるので、創設以来続いているものとしては、英空軍が世界最初の空軍ということになる。
(注4)陸海軍とは完全に別個に独立して作戦を企画・実行する航空部隊としては世界初のもの。
ここで彼は、ドイツの鉄道・飛行場や産業の中心の空爆を敢行します。これをもって、トレンチャードは世界最初の戦略爆撃の企画・実行者と称されることがあります(注5)。
(注5)定義の問題だが、ドゥーエの唱えた究極の戦略爆撃・・一般住民を対象にした爆撃・・だけを戦略爆撃とすると、その「名誉」はナチスドイツに譲らなければならなくなる(コラム#520)。
1818年11月の第一次世界大戦終結時には英空軍は、32万人弱の兵員・航空機22,647機・飛行船103を擁する世界最大の空軍になっていました。この英空軍は、1918年の11ヶ月間だけで敵地に5,500トンの爆弾を投下し、敵の航空機2,953機を破壊するという戦果をあげたのです。
トレンチャードは1919年に空軍参謀長に復帰します。時の空軍大臣はあのチャーチル(Winston Churchill)でした。トレンチャードはこの職に初代の空軍中将(Air Marshal)に昇任した1927年までとどまることになります。
この空軍参謀長時代に彼は、ソマリアやイラクでの原住民の叛乱を鎮圧するのに空爆が有効であることを証明します。また、操縦士を養成する短期現役制度をつくり、大量の予備役操縦士を抱えて有事に備える態勢を構築します(注5)。
(注5)英国が第二次世界大戦で初期のナチスドイツ空軍の猛攻に耐え抜くことができた要因の一つ。
1930年に彼は男爵を授爵されるとともに、ロンドンの警視総監に任命され、警察学校の創設等に辣腕をふるいます。
そして1935年に警視総監を辞し、1936年には子爵となり、民間大企業の会長を1953年までつとめ、1956年に83歳で死去します。
(続く)
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