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太田述正コラム#0522(2004.11.3)
<伊・英・米空軍の創始者の三人(その3)>

4 ミッチェル

 ミッチェルは、鉄道王で大金持ちを父方の祖父として、両親が欧州長期旅行中の1879年暮れにフランスのニースで呱々の声を上げます。
 1898年、ミッチェルは大学を退学して、米西戦争で一歩兵として戦います。
 その後、彼は当時米上院議員をしていた父親の影響力で陸軍少尉に任官します。そして1912年には史上最も若い陸軍大尉となり、翌1913年、32歳の時、米陸軍参謀本部の史上最も若い部員となります。
 早くも1906年頃からエアーパワーの重要性に気付いていたミッチェルは、1915年に自費で航空機操縦士の資格をとります。
 翌1916年に彼は米陸軍の航空部門(aviation section)の長に補職されます。
 1917年には第一次世界大戦真っ最中の欧州西部戦線に配属になります。ここでミッチェルはトレンチャードから直接薫陶を受けます。
 そして彼は一介の中佐であったにもかかわらず、欧州派遣米軍の総司令官パーシング(John Pershing)に航空部隊の大拡充を意見具申し、これが認められ、その責任者となり1918年9月には、第一次世界大戦における米軍の最初の大攻勢作戦(St. Mihiel offensive)において、ミッチェルは米・仏・伊・英・ポルトガルの航空機1500機弱という空前の機数による連合航空作戦を企画・指揮(ただし、英国だけは指揮を米軍に委ねず)し、ドイツ航空機約500機を相手に回し、第一に味方地上部隊の近接航空支援、第二に敵航空機の空中・地上での撃破、そして第三にドイツ地上部隊の撃破、という優先順位で航空作戦を実施し、第一次世界大戦における米軍の初勝利に貢献します(http://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/ww1/stmihiel/stmihiel.htm。11月3日アクセス)。.
 次ぎにミッチェルが行った航空作戦は、敵地上部隊の後方の爆撃でした。更に彼は戦略爆撃や空挺攻撃も企画したのですが、実行に移す前に11月に大戦が終了してしまいます。
この間、准将に昇任していたミッチェルは、欧州及び米国の英雄として数々の勲章を手にして本国に凱旋し、翌1919年、米陸軍航空監補佐(Assistant Chief of Air Service)に捕職されます。
 ミッチェルは、部内でことあるごとにエアーパワーの重要性と陸海軍と並列的な空軍設立の必要性、更には水上艦艇が航空攻撃に対して脆弱であることを力説し、在欧州時にも増して軍部内で浮き上がった存在になっていきます。
 大戦後国防費に大なたが振るわれる中で、水上艦艇、就中戦艦の建造に巨額の国防費が投入されていることに危機感を持ったミッチェルは、1921年、米議会の公聴会でドレッドノート(弩)級戦艦一隻の建造費で戦闘機1,000機が製造できると証言した上で、水上艦艇がいかに脆弱であるかを証明すべく、第一次世界大戦後接収したドイツの弩級戦艦(静止状態)等の艦艇を空爆によって次々に撃沈する公開実験を実施し、海軍のお歴々を怒らせます。しかし米海軍の心ある人々は、これを機に、海軍の将来は航空母艦にしかない、と考えるようになるのです。
 その後ミッチェルは、自分のこれらの持論を執拗に部外向けに講演や新聞・雑誌への寄稿の形で訴えるようになります。
 こんなミッチェルを米本国から遠ざける目的もあり、米陸軍は1922年に彼に命じ、欧州の軍事事情の視察を行わせます。その時、彼はドゥーエと会う機会を得ます。その頃、ドゥーエの「制空」の抜粋が米航空監部によって英訳されており、ミッチェルも当然これを入手したと考えられています。(ミッチェルがその後1920年代に書いたものは、この「制空」からの盗作ではないか、という研究者の指摘があります。)
 引き続き米陸軍は翌1923年、今度は彼にハワイ経由でアジア極東の軍事事情の視察を行わせます。その時の知見を踏まえ、彼は将来日米戦争が不可避であるとし、日本の航空母艦の艦載機による(朝7時30分の(!!))ハワイ真珠湾攻撃をその18年も前に予言し、これに備えるためのハワイ諸島におけるエアーパワー強化等を訴えた報告書を提出します。しかし、この報告書は殆ど読まれることのないまま忘れられます。
 更に彼は1925年にベストセラーになったWinged Defenseという(後に陸軍の秘文書の内容を剽窃して執筆した箇所があることが明るみに出る)本を上梓するのですが、この本の出る9ヶ月前にミッチェルは米議会の公聴会で、米国の航空兵力は未来の戦争を見越した整備が全くなされないまま放置されているが、陸海軍上層部はその実態を知りつつ議会にウソの報告をしており、陸海軍のスタッフは何もモノを言えない状況に追いやられている、と証言し、時のクーリッジ大統領以下のお歴々の顰蹙をかいます。
 そのためその年、ミッチェルは准将から大佐に「降格」され、ワシントンからテキサスの基地に「左遷」されます。しかし、准将への昇任は戦時の臨時の措置が戦後本省のポストに就いていたことに伴い延長されていたのが、本来の大佐に戻されただけのことであり、決して降格ではありませんでしたし、テキサスの基地は当時の米陸軍の最大の基地で、そこで彼はテキサスから西海岸までの防空を担当したのであり、決して左遷でもありませんでした。しかし彼自身は少将への昇任と陸軍航空監への昇格を当然視していたことから大いに不満でした。
そこに米陸軍の飛行船の墜落事故(14名死亡)と海軍の飛行船三隻の事故が発生します。ミッチェルはこれをとらえて、陸海軍上層部の無能さを激しく糾弾した文章を雑誌に発表します。ミッチェルは辞職を覚悟しつつも、自分が一層有名になり、書いた本の売れ行きも伸びるだろうとふんでいたようです。
案の定、彼は不服従等の咎で軍法会議にかけられます。結果は13人の陪審員(一人が大佐、残りすべては将官)は、最若輩の陪審員であったマッカーサー(Douglas MacArthur)大佐一人を除き、あらゆる起訴事実について有罪の評決を下し、ミッチェルは5年間の停職処分を受けます。クーリッジ(Calvin Coolidge)大統領は、この5年間、給与の二分の一を支給する内容に処分を減軽しますが、ミッチェルは辞表を叩き付けて陸軍を去ります。
ミッチェルは残された生涯を、持論についての執筆・講演に費やします。
 1932年にローズベルト(Franklin D. Roosevelt)が大統領に初当選すると、ミッチェルは自分が陸軍の航空担当次官補や、(自分がかねてより提唱している国防総省ができ、)初代の国防長官に任命されるのではないかという淡い期待を抱きますが、もとより実現するはずがありませんでした。
そして1936年に鬱々としたままミッチェルは56歳のいささか早すぎる死を迎えます。
ところが、その後勃発した先の大戦において、ミッチェルの持論の多くの正しさが証明されることとなり、真珠湾攻撃の翌年の1942年には彼は陸軍少将位を遺贈され、戦後の1948年にはトルーマン(Harry Truman)大統領によって特別勲章を授与されるに至るのです。

(続く)

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