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太田述正コラム#0548(2004.11.29)
<ウクライナ情勢(その1)>

 (前回のコラム#547の「てにをは」を直して再掲載してあります。歴史の話はやめてくれという悲鳴が読者から聞こえてきたので、今回は現代の話をしましょう。ただし、どうしたって歴史がからんでくることをお分かりいただくために・・。)

1 始めに

 ウクライナで11月21日に実施された大統領選挙の結果、親ロシアの現首相ヤヌコヴィッチ(Viktor Yanukovich。青)氏の得票が親欧米の元首相ユシュチェンコ(Viktor Yushchenko。橙)氏の得票を上回りましたが、橙陣営は選挙に不正があったとし、選挙のやり直しを要求し、騒然とした状況が続いています。
 深刻なのは、現時点での公式選挙結果でも、首都キエフを含むウクライナ西部は橙支持が青支持を上回り、南のクリミア半島や重工業地帯の東部はその逆、とウクライナが地域別にきれいに真っ二つに割れている(http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/4038409.stm。11月25日アクセス)ことです。
しかも、ロシアは青を支持し(注1)、欧米は橙を支持しており、まるで東西冷戦時代のような綱引きが行われています。

(注1)ロシア以外の旧ソ連諸国については、ベラルス・カザフ・ウズベク・キルギスは青支持、トルクメンは不明、アルメニア・アゼルバイジャンは中立、(バルト三国は欧米と言ってよく、当然橙支持であり、)グルジアとモルドバは橙支持(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4047661.stm。11月29日アクセス)。

一体この背景には何があるのか、さぐってみることにしましょう。

2 ウクライナの悲劇的な歴史

 (1)先史
ウクライナ地方で始まったことはたくさんあります。
ウクライナ地方では、22000年前の世界最古のオーブンや、15000年前の(マンモスの牙を骨組みとした)世界最古の家、更には12000年前の(マンモスの牙に彫られた)世界最古の地図が出土しています。またこの地方では、6000年前に馬が家畜化されましたが、これに伴い、乗馬に便利であるズボンも生まれます。
(以上http://www.infoukes.com/history/origin_of_kyiv/(11月29日アクセス)
また、インド・ヨーロッパ語族のふるさともスラブ族のふるさともウクライナ地方です。

 (2)隷属の歴史
 9世紀の現在のウクライナ北部からロシア南部にかけてキエフ・ルス(Kyivan-Rus)国ができます。988年にこの国の首長ヴラディミル(Vladimir)はギリシャ正教を受け入れます。1169年には後にモスクワ(Muscovy)国、すなわちロシア(注2)を肇めることになる勢力が侵攻してきて首都キエフ等は荒廃します。13世紀にはモンゴルに席巻され、その支配下に置かれます。

 (注2)ルスとロシア(Rossia。英語表示ではRussia)とは語感は似ているが何の関係もなく、後者は1710年以降、ピョートル大帝によってモスクワという国名がロシアに改められたもの(http://www.infoukes.com/history/origin_of_kyiv/前掲)。

それからが肝腎なところです。
14世紀以降は西部がポーランドやリトワニアの支配下に置かれます。ポーランドの統治は過酷なものでした。
この頃からウクライナ人(注3)意識が確立し、外国の支配を嫌ったウクライナ人はコサック(Cossack)となり、ウクライナ南部の「独立」を果たします。

(注3)ウクライナ人=ウクライナ地方の住人、では必ずしもないことに注意。ウクライナには、例えば、かつてユダヤ人が多数住んでいたし、クリミアタタール人も(スターリンによって東方に強制移住させられるまでは)いたし、東部にはロシア人が多数住んでいる。

 しかし、18世紀にはウクライナの大半はロシアの支配下に置かれます。ロシアの統治も過酷なものでした。
19世紀には西部の一部はオーストリアの支配下に置かれます。
 第一次大戦中にロシアの帝政が崩壊すると、大半はソ連、西部の一部はポーランドが引き継ぎます。
 以上から分かることは、ウクライナの歴史はロシアより古いこと、西部は14世紀から欧州の強い影響下、東部は18世紀からロシアの強い影響下に置かれてきたことです。
このため、西部ではウクライナ語が優勢であり、東部ではロシア語が優勢ですし、西部ではローマ法王に忠誠を誓うギリシャ正教(UniateまたはGreek Catholicと呼ばれる)も盛んです(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4043315.stm。11月28日アクセス)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.globalvolunteers.org/1main/ukraine/ukrainehistory.htm(11月29日アクセス)による。)

 (3)ソ連の蛮行
 1932年から33年にかけて、スターリンは、ボルガ川下流地域で、農業の集団化を達成するために農民の士気を阻喪させる目的、及びウクライナ民族意識を粉砕する目的、で意図的に大飢饉を起こしました。
 そのやり方は、一挙に穀物供出量を前年比44%も増やし、この供出量が確保されるまでは、農民は手元に一粒も穀物を残すことを認めず、(穀物を買い出しに行くことを不可能にするため)農民には移動することも禁じる、というものでした。
 この結果700万から1000万人の餓死者が出ましたが、その大部分がウクライナ人でした。
(以上、http://www.infoukes.com/history/famine/(11月29日アクセス)による。)

 (4)ナチスドイツの蛮行
 第二次世界大戦中、実に約1,000万人ものウクライナ人が不慮の死を遂げました。
 これは、この大戦中、一つの「国」から出た死者としては最も多い数であり、世界全体の2割、ソ連全体の半分を占めています。
 このうちのかなり多くの部分は、大戦中にナチスドイツによって強制徴用され、ドイツ等で強制労働に従事した人々(Ostarbeiter=東部労働者)の75%を占めた、224万人のウクライナ人の死者です。ナチスドイツは、強制労働従事者を死ぬまでこきつかう方針だったからです。
 (以上、http://www.infoukes.com/history/ww2/http://www.infoukes.com/history/ostarbeiter/(いずれも11月29日アクセス)による。)

 以上からは、ウクライナが、ロシアにも欧米(より正確には欧州)にも猜疑心を持っているであろうことが想像できます。

(続く)

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