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太田述正コラム#0565(2004.12.16)
<ブルガリアのシメオン首相>

(台湾の総選挙に関するコラム#562の注1の後に続く段落に大きく手を入れてホームページの時事コラム欄に再掲載してあります。また、前回のコラム#564を誤って#563と記してしまいましたが、これも訂正して再掲載してあります。)

1 始めに

 現在、ブルガリアのシメオン(Simeon Saxe-Coburg Gotha)首相が日本を訪問中です(http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20041216k0000m030140000c.html。12月16日アクセス(以下同じ))。
私の友人の福井宏一郎駐ブルガリア大使(注1)がニュースレターでこの首相のことを紹介していたことに触発されて、今回のコラムを執筆しました。

(注1)私とはスタンフォードビジネススクール同期。日本開発銀行、KDDを経て、本年(異例にも民間から)大使に起用される。

シメオン首相は、6歳から9歳までブルガリア国王でしたが、それから55年経った2001年に、彼の率いる政党がブルガリア議会の総議席数240中120議席を獲得し、首相に就任するという数奇な運命の持ち主です。国王だった人が後に同じ国の民主的に選ばれた最高権力者になったというのは、世界史上初めてのことです。(http://www.economist.com/displayStory.cfm?story_id=702586&bypass=1。12月16日アクセス(以下、同じ))

2 ブルガリアの歴史

 駆け足でブルガリアの歴史を振り返るところから始めましょう。
 ブルガリアという国名は、7世紀後半に、フン族とブルガル族(サルマタイ人(コラム#462)とトルコ系の混淆)が混淆したフノ・ブルガル(Hunno-Bulgar)族が北からドナウ河を渡って南下し、現在のブルガリア地方を占拠したことに由来します。
 その後、フノ・ブルガル文化(遊牧民・ペルシャ系言語)はスラブ族の侵入に伴ってスラブ文化に取って代わられて現在に至っています。9世紀後半には国王が正教を採択します。この9世紀後半と13世紀後半にはブルガリアはバルカン半島のほぼ全域を支配したことがあります。1396年にはオスマントルコに征服され、1908年までその支配下に置かれます。
 露土戦争(1877??78年)の結果、オスマントルコ内にブルガリア大公国が生まれます。その二代目の大公になったのがサックス・コーブルグ・ゴータ家(注2)のフェルディナンドであり、彼は1908年にトルコからの独立を果たし、翌年ブルガリア王国が成立します。

 (注2)ドイツのザクセン・チューリンゲン地方にあった公国(サクソン系とフランク系の二つの小公国からなる)の公爵家の家系。1831年にできたベルギー王国の王室、1837年から1910年までのポルトガルの王室、ビクトリア女王と結婚した同家出身のアルバート(コラム#309)の長男のエドワード7世以降の英国王室、そしてブルガリアの王室(上記)はサックス・コーブルグ・ゴータ家。(ただし、英国王室は第一次世界大戦以来、ウィンザー姓に改名。)ちなみに、ドイツの本家は血筋が絶え、1899年からはアルバートの孫のイギリス貴族が本家を継いだ。(http://www.royal.gov.uk/output/Page128.asp及びhttp://www.newadvent.org/cathen/13494a.htm

 ブルガリアは第一次バルカン戦争(1912??13年)で他のバルカン諸国とともにトルコと戦い、領土を拡大しますが、第二次バルカン戦争(1913年)でその拡大された領土を全て失います。
 また、第一次世界大戦ではドイツ側に立って戦いますが、ドイツ側の敗北によってまたもや領土拡大に失敗します。
 更に第二次世界大戦では、枢軸側に立って戦うのですが、1944年にソ連がブルガリアに宣戦布告すると、連合国側に寝返り、その三日後に共産党系の政府がクーデターで樹立されます。
 1947年にはブルガリアは完全なソ連圏の一員となります。1990年に至って自由な総選挙が行われ、1991年にようやく非共産党系の政党が政権を握り、現在に至っています。
 (以上、http://www.infoplease.com/ipa/A0107365.html及びhttp://www.kutriguri.com/history.html(どちらも12月16日アクセス)による。)

3 シメオン首相

 シメオン殿下(以下敬称略)は1937年にブルガリア王国のボリス3世の長男として呱々の声を挙げます。数週間後に挙行された洗礼式には、ヨルダン川の水が空輸されて用いられました。
 1943年には父王の死去に伴い、6歳でシメオン2世として国王に即位します。

(続く)

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