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太田述正コラム#0597(2005.1.17)
<ハーバート・フーバー(その1)>

1 始めに

 スタンフォード大学に近づくと、一番最初に目に飛び込んでくるのはフーバー・タワーです。構内のフーバー研究所に建っているこの展望塔の上にエレベーターで上がると、日本の大学の感覚からすると信じがたいほど広く(5,500エーカー)かつ美しいキャンパスが一望できます。
 フーバーというのは、スタンフォード大学出身の大統領であり、大統領当時に大恐慌を招き、フランクリン・ローズベルトに敗れて再選を果たせなかった人物である、というのが1970年代半ばの同大学留学当時の私の認識でした。
 しかし、このようなフーバー評価は誤りであり、彼は米国の持った最良の大統領の一人であるだけでなく、人類史に残る偉大な人物であったことを後に知るところとなります(注1)。

(注1)「飢餓を解消するのにかくも有能であった人物(後述:太田)が、後に大統領としてかくも無能であったのは不思議だ」という報道がBBCによってつい最近においてもなされる(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4164321.stm。1月16日アクセス(以下、同じ))ところに、一旦流布した偏見を解くのがいかに困難なことであるかが分かる。

 本コラムでは、随分米国バッシングをしてきましたが、たまには米国の良い面も描こうと考え、フーバーを採り上げた次第です。
 (以下、特に断っていない限りBBC上掲、http://www.whitehouse.gov/history/presidents/hh31.htmlhttp://hoover.archives.gov/education/hooverbio.htmlhttp://www.americanpresident.org/history/herberthoover/http://www.toad.net/~falkland/hoover/以下、及びhttp://www.toad.net/~falkland/hoover/hoover2.htmlによる。)

2 フーバーの前半生

 フーバー(Herbert Clark Hoover。1874??1964年)は、アイオワ州の片田舎で、クエーカー教徒の鍛冶屋の家に生まれ、9歳の時までに両親を失い、オレゴン州で育ち、学業成績は平凡でしたが、創設されたばかりのスタンフォード大学(当時は学費がタダ)に猛勉強して合格します。
 地学科に入ったフーバーは地学科唯一の女子学生で才媛だった将来の夫人と出会い、生活費を稼ぎ出しながら20歳の時に同学科を卒業します。
 卒業後しばらくして縁あって英国の鉱山会社に入ったフーバーは、天津に赴任し、ここで義和団の乱(Boxer Rebellion。1900年)に遭遇し、在留外国人や反義和団の支那人に立ち混じってバリケードの構築や食糧・水の確保に才能を発揮します。
 後にフーバーはロンドンでこの会社の本社勤務となり、更に現地で独立して会社を興し、巨万の富をつくります。その彼が40歳になる直前の1914年、第一次世界大戦が勃発します。

3 フーバーの社会事業家時代

 ロンドンの米国総領事から、観光目的等で欧州を訪れていてロンドンに避難してきていた米国人の本国への引き揚げに手を貸して欲しいと頼まれたフーバーは、自分の商売を擲ってこれを引き受け(注2)、委員会を立ち上げ、9人の友人達とともに150万ドルを拠出してこれら米国人に貸し付け、船の手配等を行い、わずか6週間で12万人の米国人の引き揚げを成し遂げました。

(注2)大鉱山を手に入れる話が進行中だったが、彼は「自分の財産など地獄にくれてやる」と語り、世界有数の金持ちになる機会を擲った。後にフーバーは商務長官になり、更に大統領になるが、生涯公的職務からは報酬をびた一文受け取らなかった。

 次にフ??バーが手がけたのは、ドイツに占領されたベルギー国民1,000万人への食糧支援です。
 何せ、莫大なカネを世界から寄付等で集めなければならなかった上、ドイツ軍自身がベルギーから食糧を徴発していたくらいなので、送り届けた食糧がドイツ軍にネコババされないようにする必要があり、しかもまさにこのことを懸念するとともに占領地住民の食糧確保はドイツの国際法上の義務だとする英国当局を説得する必要もあった(注3)からです。

 (注3)陸軍大臣のキッチナー卿、大蔵大臣のロイドジョージ(David Lloyd George。1863??1945年。後首相)、海軍大臣のチャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill。1874??1965年。後首相)、それに内務大臣までもが反対したにもかかわらず、結局英国の閣議ではフーバーの提案が通り、英国政府は補助金まで出してくれることになった。

 このような困難を乗り越えて、フーバーらは10億ドル以上を集め、戦争が継続した四年間にわたって、ベルギーと北フランスの一部の計1,100万人に食糧供給を続けたのです。しかもこれは、有名な監査人に会計事務をすべて委嘱して全く不正なくして、かつ管理費を総経費の0.5%に押さえて行われたのでした。
 1917年に米国が参戦すると、ウィルソン(Woodrow Wilson。1856??1924年)米大統領は、フーバーに食糧問題の担当を委嘱します。
 これは、米軍及び同盟国軍、同盟国民、そして米国民自身の食糧を確保するという大変な仕事でしたが、フーバーは、米国民に自発的な食糧節約を呼びかけ、食糧消費を15%減少させることによって、配給制度を導入することなく、必要な海外向け食糧を確保し、備蓄までするという離れ業を演じます。
 そして戦後は、引き続きウィルソン大統領の委嘱で、戦争で荒廃した欧州と中東の21カ国3億人の食糧の確保に腐心するのです。
 この事業は1919年に終了しますが、フーバーは寄付と米政府基金からの収入による私的慈善団体を立ち上げ、欧州の子供達への食糧援助を1921年まで続けます。
 1921年からは、彼はソ連の飢饉の救済まで始めます。ボルシェビキをなぜ助けるのかと言われて彼が、「2000万人が飢えている。政治がどうであれ、彼らを食べさせなければならない」と答えた話は有名です。

(続く)

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